平家物語 巻第三
足ずりの事
赦免の使者が鬼界が島に着いた。俊寛が赦文を読むと、成経と康頼の名はあるが、自分の名はどこにもない。俊寛は成経にすがり、せめて九州まで乗せてくれと頼むが、使者は許さない。船が漕ぎ出すと、俊寛は綱にすがって海に入り、やがて渚に倒れ伏して、幼子のように足ずりをして泣き叫んだ。
- 1御御おん使使つかいははは丹丹たん左左ざ衞衞え門門もんののの尉尉じょう基基もと康康やすととといふいふいう者者ものなりなりなり。。。急急いそぎぎぎ船船ふねよりよりより上上あがりりり、、、「「「これこれこれににに都都みやこよりよりより流流ながささされれれ給給たまひひいたりたりたりししし平平へい判判はん官官がん康康やす賴賴より入入にゅう道道どう、、、丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょう殿殿どのやややおはすおはすおわす。。。」」」ととと、、、聲聲こえ々々ごえにににぞぞぞ尋尋たずねねねけるけるける。。。
- 2二二ふた人人りののの人人ひと々々びとははは、、、例例れいののの熊熊くま野野の詣詣もうでしてしてしてなかりなかりなかりけりけりけり。。。俊俊しゅん寛寛かん一一ひと人人りありありありけるけるけるががが、、、これこれこれををを聞聞きいいいててて、、、餘餘あまりりりににに思思おもへへえばばば夢夢ゆめやらやらやらんんん、、、またまたまた天天てん魔魔ま波波は旬旬じゅんののの、、、わがわがわが心心こころをををたぶらかさたぶらかさたぶらかさんんんとてとてとていふいふいうやらやらやらんんん、、、うつゝうつゝうつつともともとも更更さらににに覺覺おぼえええぬぬぬものものものかなかなかなとてとてとて、、、あわてあわてあわてふためきふためきふためき、、、走走はしるるるともともともなくなくなく、、、倒倒たおるゝるゝるるともともともなくなくなく、、、急急いそぎぎぎ御御おん使使つかいののの前前まえににに行行ゆききき向向むかつつっててて、、、「「「これこれこれこそこそこそ流流ながささされれれたるたるたる俊俊しゅん寛寛かんよよよ。。。」」」ととと名名な乘乘のりりり給給たまへへえばばば、、、雜雜ぞう色色しきががが頸頸くびにににかけかけかけさせさせさせたるたるたる布布ふ袋袋くろよりよりより、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの赦赦ゆるし文文ぶみ取取とりりり出出いでででててて奉奉たてまつるるる。。。
- 3これこれこれをををあけあけあけててて見見み給給たまふふうににに、、、「「「重重じゅう科科かははは遠遠おん流流るににに免免めんずずず。。。今今こん度度ど中中ちゅう宮宮ぐう御御ご產產さんののの御御おん祈祈いのりりりににによつよつよっててて、、、非非ひ常常じょうののの赦赦しや行行おこなははわるるる。。。然然しかるるる間間あいだ鬼鬼き界界かいががが島島しまののの流流る人人にん少少しょう將將しょう成成なり經經つね、、、康康やす賴賴より法法ほっ師師し赦赦しや免免めん。。。」」」とととばかりばかりばかり書書かかかかれれれててて、、、俊俊しゅん寛寛かんととといふいふいう文文も字字じはははなしなしなし。。。禮禮らいにににぞぞぞあるあるあるらんらんらんとてとてとて、、、禮禮らい紙紙しををを見見みるるるにににももも見見みえええずずず。。。奧奧おくよりよりより端端はしへへへ讀讀よみみみ、、、端端はしよりよりより奧奧おくへへへ讀讀よみみみけれけれけれどもどもども、、、二二ふた人人りとととばかりばかりばかり書書かかかかれれれててて、、、三三さん人人にんとととははは書書かかかかれれれずずず。。。さるさるさる程程ほどににに少少しょう將將しょうややや、、、康康やす賴賴より法法ほっ師師しももも出出いででで來來きたりりり、、、少少しょう將將しょうののの取取とつつっててて見見みるるるにににももも、、、康康やす賴賴より法法ほっ師師しががが讀讀よみみみけるけるけるにににももも、、、二二ふた人人りとととばかりばかりばかり書書かかかかれれれててて、、、三三さん人人にんとととははは書書かかかかれれれざりざりざりけりけりけり。。。
- 4夢夢ゆめにににこそこそこそ斯斯かかるかるかる事事ことはははあれあれあれ。。。夢夢ゆめかかかととと思思おもひひいなさなさなさんんんとととすれすれすればばば現現うつつなりなりなり。。。うつゝうつゝうつつかかかととと思思おもへへえばばばまたまたまた夢夢ゆめののの如如ごとししし。。。そのそのその上上うえ二二ふた人人りののの人人ひと々々びとのののもともともとへへへははは、、、都都みやこよりよりよりことづてことづてことづてたるたるたる文文ふみどもどもども、、、いくらいくらいくらもももありありありけれけれけれどもどもども、、、俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ずのののもともともとへへへははは、、、ことことこと問問とふふう文文ふみ一一ひとつつつもももなしなしなし。。。さればさればさればわがわがわがゆかりゆかりゆかりののの者者ものどもどもどもははは、、、みなみなみな都都みやこののの内内うちににに跡跡あとををを止止とどめめめずずずなりなりなりにににけるけるけるよよよととと、、、思思おもひひいやるやるやるにににもももおほつかなしおほつかなしおおつかなし。。。
- 5そも〳〵そも〳〵そもそもわれらわれらわれら三三さん人人にんははは同同おなじじじ罪罪つみ、、、配配はい所所しょももも同同おなじじじ所所ところなりなりなり。。。いかなれいかなれいかなればばば赦赦しや免免めんののの時時とき、、、二二ふた人人りははは召召めししし還還かえささされれれててて、、、一一ひと人人りこゝこゝここににに殘殘のこすすすべきべきべき。。。平平へい家家けののの思思おもひひい忘忘わすれれれかかかややや、、、執執しゅ筆筆ひつののの誤誤あやまりりりかかか、、、こはこはこわいかにいかにいかにしししたるたるたる事事ことどもどもどもぞぞぞやややととと、、、天天てんををを仰仰あうぎぎぎ地地ちににに伏伏ふしししててて、、、泣泣なききき悲悲かなしめしめしめどもどもどもかひかひかいぞぞぞなきなきなき。。。
- 6僧僧そう都都ず少少しょう將將しょうののの袂袂たもとににに縋縋すがりりり、、、「「「俊俊しゅん寛寛かんがががかやうかやうかようににになるなるなるととといふいふいうももも、、、御御ご邊邊へんののの父父ちち故故こ大大だい納納な言言ごん殿殿どののののよしなきよしなきよしなき謀謀む叛叛ほんののの故故ゆえなりなりなり。。。さればさればさればよそよそよそののの事事ことととと思思おもひひい給給たまふふうべからべからべからずずず。。。許許ゆるささされれれなけれなけれなければばば、、、都都みやこまでまでまでこそこそこそかなはかなはかなわずずずともともとも、、、せめてせめてせめてはははこのこのこの船船ふねににに乘乘のせせせててて、、、九九く國國こくののの地地ちまでまでまで著著つけけけてててたべたべたべ。。。各各おのおのこれこれこれにににおはしおはしおわしつるつるつる程程ほどこそこそこそ、、、春春はるははは燕燕つばめ、、、秋秋あきははは田田たののの面面もののの鴈鴈かりのののおとづるゝおとづるゝおとずるるやうやうようににに、、、おのづからおのづからおのずから故故こ鄕鄕きょうののの事事ことをををももも傳傳つたへへえ聞聞ききききつれつれつれ、、、今今いまよりよりより後後のちははは、、、何何なにとととしてしてしてかかか聞聞きくくくべきべきべき。。。」」」とてとてとて悶悶もだえええこがれこがれこがれ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 7少少しょう將將しょう、、、「「「まことまことまことにににさこそさこそさこそはははおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうろうらめらめらめ。。。われらわれらわれらががが召召めししし還還かえさささるゝるゝるる嬉嬉うれしさしさしさももも、、、さるさるさることことことにににてててははは候候そうらへへえどもどもども、、、御御おん有有あり樣樣さまををを見見み奉奉たてまつるるるににに、、、さらにさらにさらにゆくゆくゆくべきべきべき空空そらももも覺覺おぼえええ候候そうらははわずずず。。。このこのこの船船ふねにににうちうちうち乘乘のせせせ奉奉たてまつつつっててて、、、上上のぼりりりたうたうとうははは候候そうらへへえどもどもども、、、都都みやこののの御御おん使使つかいいかにいかにいかにもももかなふかなふかなうまじきまじきまじき由由よしををを頻頻しきりりりににに申申もうすすす。。。そのそのそのうへうへうえ許許ゆるささされれれもももなきなきなきににに、、、三三さん人人にんながらながらながら島島しまののの内内うちををを出出いでででたりたりたりなどなどなど聞聞きこえええ候候そうらははわばばば、、、なか〳〵なか〳〵なかなかあしうあしうあしゅう候候そうらひひいなななんんんずずず。。。成成なり經經つねまづまづまずまかりまかりまかり上上のぼつつっててて、、、人人ひと々々びとにににもももよく〳〵よく〳〵よくよく申申もうしししあはせあはせあわせ、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの氣氣き色色しょくをををももも伺伺うかがひひい、、、迎迎むかひひいににに人人ひとををを奉奉たてまつらららんんん。。。そのそのその程程ほどははは日日ひ頃頃ごろおはしおはしおわしつるつるつるやうやうようににに思思おもひひいなしなしなしててて待待まちちち給給たまへへえ。。。命命いのちはははいかにいかにいかにももも大大たい切切せつののの事事ことなれなれなればばば、、、たとひたとひたといこのこのこの瀨瀨せにににこそこそこそ洩洩もれれれさせさせさせ給給たまふふうともともとも、、、遂遂ついにににはははなどなどなどかかか赦赦しや免免めんなくなくなくててて候候そうろうべきべきべき。。。」」」ととと、、、やう〳〵やう〳〵ようようににに慰慰なぐさめめめ給給たまへへえどもどもども、、、僧僧そう都都ず堪堪たへへえ忍忍しのぶぶぶべうべうびょうももも見見みえええ給給たまははわずずず。。。
- 8さるさるさる程程ほどににに船船ふね出出いださささんんんとととしししけれけれければばば、、、僧僧そう都都ず船船ふねににに乘乘のつつってててははは下下おりりりつつつ、、、下下おりりりてててははは乘乘のりりりつつつ、、、あらましあらましあらましごとごとごとをををししし給給たまひひいけるけるける。。。少少しょう將將しょうのののかたみかたみかたみにににははは夜夜よるののの衾衾ふすま、、、康康やす賴賴より入入にゅう道道どうがががかたみかたみかたみにににははは、、、一一いち部部ぶののの法法ほ華華け經經きょうをををぞぞぞ止止とどめめめけるけるける。。。既既すでににに纜纜ともづな解解といいいててて船船ふねおしおしおし出出いだせせせばばば、、、僧僧そう都都ず綱綱つなににに取取とりりりつきつきつき、、、腰腰こしににになりなりなり、、、脇脇わきににになりなりなり、、、丈丈たけののの立立たつつつまでまでまでははは引引ひかかかれれれててて出出いづづず。。。丈丈たけももも及及およばばばずずずなりなりなりけれけれければばば、、、僧僧そう都都ず船船ふねににに取取とりりりつきつきつき、、、「「「さてさてさていかにいかにいかに各各おのおの、、、俊俊しゅん寛寛かんをををばばば遂遂ついににに捨捨すてててはてはてはて給給たまふふうかかか。。。日日ひ頃頃ごろのののなさけなさけなさけももも今今いまははは何何なにならならならずずず。。。許許ゆるささされれれなけれなけれなければばば都都みやこまでまでまでこそこそこそ叶叶かなははわずずずともともとも、、、せめてせめてせめてはははこのこのこの船船ふねににに乘乘のせせせててて九九く國國こくののの地地ちまでまでまで。。。」」」ととと、、、くどかくどかくどかれれれけれけれけれどもどもども、、、都都みやこののの御御おん使使つかい、、、「「「いかにいかにいかにもももかなひかなひかない候候そうろうまじまじまじ。。。」」」とてとてとて、、、取取とりりりつきつきつき給給たまひひいつるつるつる手手てををを引引ひきききのけのけのけててて、、、船船ふねをををばばば遂遂ついににに漕漕こぎぎぎ出出いだすすす。。。
- 9僧僧そう都都ずせんせんせんかたかたかたなさなさなさににに渚渚なぎさににに上上あがりりり、、、倒倒たおれれれ伏伏ふししし、、、をさなきをさなきおさなき者者ものののの乳乳めの母母とややや母母ははなどなどなどををを慕慕したふふうやうやうようににに、、、足足あしずりずりずりをををしてしてして、、、「「「これこれこれ乘乘のせせせててて行行ゆけけけ、、、具具ぐしししててて行行ゆけけけ。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいててて、、、をめきをめきおめき叫叫さけびびび給給たまへへえどもどもども、、、漕漕こぎぎぎゆくゆくゆく船船ふねのののならひならひならいにににててて、、、跡跡あとははは白白しら波波なみばかりばかりばかりなりなりなり。。。未未いまだだだ遠遠とおからからからぬぬぬ船船ふねなれなれなれどもどもども、、、涙涙なみだにににくれくれくれててて見見みえええざりざりざりけれけれければばば、、、僧僧そう都都ず高高たかききき所所ところににに走走はしりりり上上あがりりり、、、沖沖おきののの方方かたをををぞぞぞ招招まねきききけるけるける。。。かのかのかの松松まつ浦浦ら小小さ夜夜よ姫姫ひめががが唐唐もろこし船船ぶねををを慕慕したひひいつゝつゝつつ領領ひ巾巾れふりふりふりけんけんけんももも、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 10さるさるさる程程ほどににに船船ふねももも漕漕こぎぎぎ隱隱かくれれれ、、、日日ひももも暮暮くるれるれるれどもどもども、、、僧僧そう都都ずあやしあやしあやしのののふしどふしどふしどへへへももも歸歸かえらららずずず、、、波波なみににに足足あしうちうちうち洗洗あらははわせせせ、、、露露つゆににに萎萎しおれれれててて、、、そのそのその後後のちはははそこそこそこにににてててぞぞぞあかしあかしあかしけるけるける。。。さりともさりともさりとも少少しょう將將しょうはははなさけなさけなさけ深深ふかききき人人ひとなれなれなればばば、、、よきよきよきやうやうようににに申申もうすすす事事こともももやややととと、、、たのみたのみたのみをををかけかけかけててて、、、そのそのその瀨瀨せににに身身みををを投投なげげげざりざりざりししし、、、心心こころののの中中うちこそこそこそはかなけれはかなけれはかなけれ。。。昔昔むかし壯壯そう里里り、、、息息そく里里りががが海海かい巖巖がん山山さんへへへ放放はなたたたれれれたりたりたりけんけんけん悲悲かなしみしみしみももも、、、今今いまこそこそこそ思思おもひひい知知しららられれれけれけれけれ。。。
現代語訳
御使は丹左衛門尉基康という者である。急いで船から上がり、「ここに都から流されておいでになった平判官康頼入道、丹波少将殿はおられるか」と、声々に尋ねた。
二人の人々は、いつもの熊野詣でに出ていていなかった。俊寛が一人いたが、これを聞いて、あまりに思いつめているので夢であろうか、また天魔波旬が自分の心をたぶらかそうとして言うのであろうか、とても現実とは思えないことだといって、あわてふためき、走るともなく倒れるともなく、急いで御使の前に行き向かって、「これこそ流された俊寛だ」と名のられると、雑色が首にかけさせていた布袋から、入道相国の赦文を取り出して差し上げた。
これを開けてご覧になると、「重科は遠流に処することで免ずる。このたびの中宮御産のご祈祷によって、非常の大赦が行われる。よって鬼界が島の流人、少将成経・康頼法師を赦免する」とだけ書かれていて、俊寛という文字はない。礼紙にあるのだろうといって礼紙を見ても見えない。奥から端へ読み、端から奥へ読んだけれども、二人とだけ書かれていて、三人とは書かれていない。そのうちに少将や康頼法師も出て来て、少将が手に取って見ても、康頼法師が読んでも、二人とだけ書かれていて、三人とは書かれていなかった。
夢の中でこそこのようなことはあるものだ。夢かと思おうとすれば現実である。現実かと思えばまた夢のようだ。そのうえ二人の人々のもとへは、都から言づけた手紙がいくつもあったけれども、俊寛僧都のもとへは、安否を問う手紙一つもない。それでは自分の縁者たちは、みな都の内に跡もとどめずいなくなってしまったのだなと、思いやるにつけても心もとない。
「そもそもわれら三人は同じ罪で、配所も同じ所である。どうして赦免のとき、二人は召し返されて、一人をここに残すのか。平家が思い忘れたのか、執筆の誤りか、これはいったいどうしたことか」と、天を仰ぎ地に伏して泣き悲しんだけれども、そのかいもない。
僧都は少将の袂にすがって、「俊寛がこのようになったのも、あなたの父の故大納言殿のつまらない謀叛のせいである。だから他人事とお思いになってはならない。許されないのだから、都までは無理だとしても、せめてこの船に乗せて九州の地まで着けてくだされ。おのおの方がここにおられた間こそ、春は燕、秋は田の面の雁が訪れるように、おのずと故郷のことも伝え聞いたが、今から後は、どうして聞くことができよう」といって、身もだえして恋い焦がれなさった。
少将は、「まことにさぞそうお思いでしょう。われらが召し返される嬉しさも、もっともなことではありますが、あなたのご様子を拝見すると、まったく行く気持ちにもなれません。この船にお乗せ申して都へ上りたいとは思いますが、都の御使がどうしてもかなわないと、しきりに申します。そのうえ許しもないのに、三人とも島を出たなどと聞こえましたら、かえってまずいことになりましょう。成経がまず上りまして、人々にもよくよく相談し、入道相国のご機嫌もうかがって、お迎えの人を差し上げましょう。その間は、これまでおいでになったようにお思いなして、お待ちください。命は何より大切なことですから、たとえこのたびは漏れなさったとしても、最後にはどうして赦免がないことがありましょう」と、いろいろに慰めなさったけれども、僧都は耐え忍べそうにもお見えにならない。
そのうちに船を出そうとしたので、僧都は船に乗っては降り、降りては乗り、いっしょに行こうとするそぶりをなさった。少将の形見には夜具の衾、康頼入道の形見には一部の法華経を残した。すでに纜を解いて船を押し出すと、僧都は綱に取りついて、水が腰まで来、脇まで来、背の立つところまでは引かれて出た。背も立たなくなったので、僧都は船に取りついて、「さてどうしたことか、おのおの方、俊寛をついに捨てておしまいになるのか。日ごろの情けも今は何にもならない。許されないのだから、都までは無理だとしても、せめてこの船に乗せて九州の地まで」と、くどくどと頼まれたけれども、都の御使は「どうしてもかないません」といって、取りついておられた手を引きのけて、船をとうとう漕ぎ出した。
僧都はどうしようもなくて渚に上がり、倒れ伏して、幼い子が乳母や母などを慕うように足ずりをして、「これ乗せて行け、連れて行け」とおっしゃって、わめき叫ばれたけれども、漕いで行く船の常として、跡は白波ばかりである。まだ遠く離れていない船であるが、涙にくれて見えなかったので、僧都は高い所に走り上って、沖の方へ手招きをした。あの松浦佐用姫が唐へ行く船を慕って領巾を振ったというのも、これ以上ではなかったろうと見えた。
やがて船も漕ぎ隠れ、日も暮れたけれども、僧都は粗末な寝所へも帰らず、波に足を洗わせ、露にしおれて、その夜はそこで明かした。それでも少将は情け深い人だから、よいように取りなしてくれることもあろうかと、望みをかけて、そのときに身を投げなかった心の中こそはかないものである。昔、壮里・息里が海巌山へ捨てられたという悲しみも、今こそ思い知られたのであった。
意訳
『平家物語』の中でも名高い悲劇の場面である。赦文に自分の名がないことを、俊寛は奥から端へ、端から奥へと何度も読み返して確かめる。その執拗な動作が、信じたくない気持ちをそのまま伝えている。成経は情をこめて慰めるが、船は出ていく。綱にすがり、腰まで、脇まで、背の立つ所までと海に入っていく描写の後、渚で「をさなき者の乳母や母などを慕ふやうに」足ずりをするという比喩が、俊寛の絶望を極限まで描き出す。
末尾には、領巾を振って船を見送った松浦佐用姫や、継母に島へ捨てられた壮里・息里の兄弟の故事を引いて、俊寛の悲しみを和漢の悲話に重ねている。この場面はのちに能「俊寛」、近松門左衛門の浄瑠璃「平家女護島」などに受け継がれた。
語釈・文法注
- 禮紙
- 書状の本紙に重ねて添える白紙。本文が書ききれないときなどに続きを書くこともあった。
文法
- 「天魔波旬」
- 仏道を妨げる魔王。波旬は欲界の第六天の魔王の名。
- 「重科は遠流に免ず」
- 重い罪を、遠流に処したことによって赦す、の意。
- 「たべ」
- 「賜ぶ」の命令形。…してください。
- 「あらましごと」
- こうしようと思い描くだけで、実際にはできないこと。ここでは船に乗って一緒に行こうとするそぶり。
- 「松浦小夜姫」
- 大伴狭手彦が朝鮮半島へ渡るとき、別れを惜しんで山上から領巾を振ったという伝説の女性。『万葉集』に見え、その山を領巾振山という。
- 「壯里、息里」
- 天竺の兄弟。継母に憎まれて海巌山という孤島に捨てられ、そこで死んだという説話(『宝物集』など)。
解説
鬼界が島は薩摩の南の島で、硫黄島(鹿児島県三島村)とする説が有力である。治承二年(1178)、中宮徳子の御産の祈りとして成経と康頼は赦されたが、俊寛だけが残された。『平家物語』は、俊寛が鹿ケ谷の山荘を謀議の場として提供したことを、清盛が許さなかった理由としている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、362–365頁(コマ210–211)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日