平家物語 巻第三
赦文の事
治承二年、中宮徳子が懐妊したが、重い物の怪に苦しめられ、崇徳院や藤原頼長、成親・西光の怨霊、鬼界が島の流人の生霊などが現れた。怨霊を鎮めるため崇徳院に追号が贈られ、門脇の宰相教盛の願いを受けた重盛の取りなしで、非常の大赦が決まる。清盛は成経と康頼を赦したが、俊寛だけは許さなかった。赦文を携えた使者は九月二十日ごろ鬼界が島に着いた。
- 1治治じ承承しょう二二に年年ねん正正しょう月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ、、、院院いんののの御御ご所所しょにににははは拜拜はい禮禮らい行行おこなははわれれれててて、、、四四よっ日日かののの日日ひ朝朝ちょうののの行行ぎょう幸幸こうありありありけりけりけり。。。何何なに事事ごとももも例例れいにににかはりかはりかわりたるたるたる事事ことはははなけれなけれなけれどもどもども、、、去去こ年年ぞののの夏夏なつ、、、新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょう以以い下下げ、、、近近きん習習じゅののの人人ひと々々びと多多おおくくく流流ながししし失失うしなははわれれれしししことことこと、、、法法ほう皇皇おう御御おん憤憤いきどおりりり未未いまだだだ止止やまままざれざれざればばば、、、世世よののの政政まつりごとをををももも萬萬よろずものものものうくうくうくおぼしめしおぼしめしおぼしめしててて、、、御御み心心こころよからよからよからぬぬぬ事事ことどもどもどもにににてててぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。太太だい政政じょうののの入入にゅう道道どうももも、、、多多た田田だののの藏藏くら人人うど行行ゆき綱綱つなががが告告つげげげ知知しらせらせらせ奉奉たてまつつつっててて後後のちははは、、、君君きみをををももも御御おんうしろめたきうしろめたきうしろめたき事事ことにににおもひおもひおもい奉奉たてまつりりり、、、上上うえにににははは事事ことなきなきなきやうやうようなれなれなれどもどもども、、、下下したにににははは用用よう心心じんしてしてして、、、苦苦にが笑笑わらひひいてててのみのみのみぞぞぞ候候さぶらははわれれれけるけるける。。。
- 2七七なぬ日日かののの日日ひ、、、彗彗すい星星せい東東とう方方ぼうににに出出いづづず、、、蚩蚩し尤尤ゆうともともとも申申もうすすす。。。またまたまた赤赤せき氣氣きともともとも申申もうすすす。。。十十じゅう八八はち日日にち、、、光光ひかりをををますますます。。。
- 3入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの御御おん女女むすめ建建けん禮禮れい門門もん院院いん、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ中中ちゅう宮宮ぐうととと聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいしししががが、、、御御ご惱惱のうとてとてとて、、、雲雲くもののの上上うえ、、、天天あめががが下下したののの歎歎なげきききにににてててぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。諸諸しょ寺寺じににに御御み讀讀ど經經きょうはじまりはじまりはじまり、、、諸諸しょ社社しやへへへ官官かん幣幣ぺい使使しををを立立たてててらるらるらる。。。醫醫い家家け藥藥くすりをををつくしつくしつくし、、、陰陰おん陽陽よう術術じゅつをををきはめきはめきわめ、、、大大だい法法ほう祕祕ひ法法ほう、、、一一ひとつつつとととしてしてして殘殘のこるるる所所ところなうなうのう修修しゅせせせられられられけりけりけり。。。されどもされどもされども御御ご惱惱のうたゞたゞただにににもももわたらわたらわたらせせせ給給たまははわずずず、、、御御ご懷懷かい妊妊にんとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。主主しゅ上上しょうははは今今こ年年とし十十じゅう八八はち、、、中中ちゅう宮宮ぐうははは二二に十十じゅう二二ににににならならならせせせ給給たまふふう。。。しかれどもしかれどもしかれども、、、未未いまだだだ皇皇おう子子じももも、、、姫姫ひめ宮宮みやももも出出いででで來來こさせさせさせ給給たまははわずずず。。。
- 4もしもしもし皇皇おう子子じにににてててましまさましまさましまさばばば、、、いかにいかにいかにめでたからめでたからめでたからんんんととと、、、平平へい家家けののの人人ひと々々びとたゞたゞただ今今いま皇皇おう子子じ誕誕たん生生じょうあるあるあるやうやうようににに申申もうしししててて、、、勇勇いさみみみ悅悅よろこびびび合合あははわれれれけりけりけり。。。他他た家家けののの人人ひと々々びとももも、、、「「「平平へい家家け繁繁はん昌昌じょうののの折折おりををを得得えたりたりたり、、、皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょう疑疑うたがひひいなしなしなし。。。」」」とととぞぞぞ申申もうししし合合あははわれれれけるけるける。。。御御ご懷懷かい妊妊にん定定さだまらまらまらせせせたまひたまひたまいしかしかしかばばば、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、有有う驗驗げんののの高高こう僧僧そう貴貴き僧僧そうににに仰仰おおせせせててて、、、大大だい法法ほう祕祕ひ法法ほうををを修修しゅししし、、、星星しょう宿宿しゅく、、、佛佛ぶつ菩菩ぼ薩薩さつににに告告つげげげててて、、、皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうとととのみのみのみ祈祈き誓誓せいせせせらるらるらる。。。
- 5六六ろく月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ中中ちゅう宮宮ぐう御御ご著著ちゃく帶帶たいありありありけりけりけり。。。仁仁にん和和な寺寺じののの御御お室室むろ守守しゅ覺覺かく法法ほっ親親しん王王のう、、、急急いそぎぎぎ御御ご參參さん内内だいあつあつあっててて、、、孔孔く雀雀じゃく經經きょうののの法法ほうををを以以もっててて御御ご加加か持持じありありあり。。。天天てん台台だいののの座座ざ主主す覺覺かく快快かい法法ほっ親親しん王王のう、、、寺寺てらののの長長ちょう吏吏り圓圓えん慶慶けい法法ほっ親親しん王王のうももも同同おなじくじくじく參參まいらせらせらせ給給たまひひいててて、、、變變へん成成じょう男男なんののの法法ほうををを修修しゅせせせられられられけりけりけり。。。
- 6斯斯かかりかりかりししし程程ほどににに、、、中中ちゅう宮宮ぐうははは月月つきののの重重かさなるなるなるににに從從したがつつっててて、、、御御おん身身みををを苦苦くるしうしうしゅうせせせさせさせさせ給給たまふふう。。。一一ひと度度たび笑笑えめめめばばば百百ももののの媚媚こびありありありけんけんけん漢漢かんののの李李り夫夫ふ人人じん、、、照照しょう陽陽よう殿殿でんののの病病やまいののの床床とこももも斯斯かくくくやややととと覺覺おぼえええ、、、唐唐とうののの楊楊よう貴貴き妃妃ひ、、、梨梨り花花か一一いっ枝枝し春春はるののの雨雨あめををを帶帶おびびび、、、芙芙ふ蓉蓉ようののの風風かぜににに萎萎しおれれれつゝつゝつつ、、、女郎花女郎花おみなえしののの露露つゆ重重おもげげげなるなるなるよりよりより、、、猶猶なおいたはしきいたはしきいたわしき御御おんさまさまさまなりなりなり。。。
- 7斯斯かかるかるかる御御おん惱惱なやみみみののの折折おりふしふしふしにににあはせあはせあわせててて、、、こはきこはきこわき御御おんもののけもののけもののけどもどもども、、、あまたあまたあまた取取とりりり入入いりりり奉奉たてまつるるる。。。、、、明明みょう王王おうののの縛縛ばくにににかけかけかけててて、、、靈靈りょう顯顯あらはれはれわれたりたりたり。。。殊殊ことににに讚讚さぬ岐岐きののの院院いんののの御御ご靈靈りょう、、、宇宇う治治じののの惡惡あく左左さ府府ふののの御御ご憶憶おく念念ねん、、、新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょうののの死死し靈靈りょう、、、西西さい光光かう法法ほっ師師しががが惡惡あく靈靈りょう、、、鬼鬼き界界かいががが島島しまののの流流る人人にん共共どもののの生生いき靈靈りょうなんぞなんぞなんぞととと申申もうしししけるけるける。。。
- 8これこれこれににに依依よつつっててて生生いき靈靈りょうをををももも死死し靈靈りょうをををももも宥宥なだめめめらるらるらるべしべしべしとてとてとて、、、まづまづまず讚讚さぬ岐岐きののの院院いんののの御御ご追追つい號號ごうあつあつあっててて崇崇す德德とく天天てん皇皇のうととと號號ごうししし、、、宇宇う治治じののの惡惡あく左左さ府府ふ贈贈ぞう官官かん贈贈ぞう位位い行行おこなははわれれれててて、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん正正しょう一一いち位位いををを贈贈おくらららるるる。。。敕敕ちょく使使しははは少少しょう内内ない記記き維維これ基基もととととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。件件くだんののの墓墓む所所しょははは大大やま和和とののの國國くに添添そう上上のかみののの郡郡こおり河河かわ上上かみののの村村むら、、、般般はん若若にゃ野野のののの五五ご三三さん昧昧まいなりなりなり。。。保保ほう元元げんののの秋秋あき、、、掘掘ほりりりおこしおこしおこしててて捨捨すてててられられられししし後後のちははは、、、死死し骸骸がい道道みちのののほとりほとりほとりののの土土つちとととなつなつなっててて、、、年年ねん々々ねんにににたゞたゞただ春春はるののの草草くさのみのみのみしげれしげれしげれりりり。。。今今いま敕敕ちょく使使したづねたづねたずね來來きててて宣宣せん命命みょうををを讀讀よみみみけれけれければばば、、、亡亡ぼう魂魂こん尊尊そん靈靈りょういかにいかにいかに嬉嬉うれしししとととおぼしおぼしおぼしけんけんけん。。。
- 9さればさればされば早早さ良良はらののの廢廢はい太太たい子子しをををばばば崇崇す道道どう天天てん皇皇のうととと號號ごうししし、、、井井い上上がみののの内内ない親親しん王王のうをををばばば皇皇かう后后ごうののの職職しき位位いににに復復ふくすすす。。。これこれこれみなみなみな怨怨おん靈靈りょうををを宥宥なだめめめられられられししし策策はかりごととととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。怨怨おん靈靈りょうははは昔昔むかしもももかくかくかく怖怖おそろしかりろしかりろしかりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。冷冷れい泉泉ぜい院院いんののの御御おんものものもの狂狂ぐるはしうはしうわしゅうまし〳〵まし〳〵ましまし、、、花花か山山ざんののの法法ほう皇皇おうののの十十じゅう善善ぜんののの帝帝てい位位いをををすべらすべらすべらせせせ給給たまひひいしししははは、、、基基もとののの民民みん部部ぶののの卿卿きょうががが靈靈りょうなりなりなり。。。またまたまた三三さん條條じょうののの院院いんののの御御おん目目めももも御御ご覽覽らんぜぜぜられられられざりざりざりしししははは、、、寛寛かん算算ざん供供ぐ奉奉ぶががが靈靈りょうとととかやかやかや。。。
- 10門門かど脇脇わきののの宰宰さい相相しょうかやうかやうかようののの事事ことどもどもどもををを傳傳つたへへえ聞聞きききき給給たまひひいててて、、、小小こ松松まつ殿殿どのににに申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「今今こん度度ど中中ちゅう宮宮ぐう御御ご產產さんののの御御おん祈祈いのりりり、、、さまざまさまざまさまざまににに候候そうろうなりなりなり。。。何何なにととと申申もうすすすともともとも、、、非非ひ常常じょうののの赦赦しやににに過過すぎぎぎたるたるたるほどほどほどののの事事こと、、、あるあるあるべしべしべしともともとも覺覺おぼえええ候候そうらははわずずず。。。中中なかにににももも鬼鬼き界界かいががが島島しまののの流流る人人にんどもどもどもををを、、、召召めししし還還かえささされれれたらたらたらんんんほどほどほどののの功功く德德どく善善ぜん根根ごん、、、何何なに事事ごとかかか候候そうろうべきべきべき。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、
- 11父父ちちののの禪禪ぜん門門もんののの御御おん前前まえにににおはしおはしおわしててて、、、「「「あのあのあの丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょうががが事事ことををを、、、門門かど脇脇わきののの宰宰さい相相しょうあまりあまりあまりににに嘆嘆なげききき申申もうすすすががが不不ふ便便びんににに候候そうろう。。。ことさらことさらことさら中中ちゅう宮宮ぐう御御ご惱惱のうののの御御おんことことこと、、、承承うけたまわりりり及及およぶぶぶ如如ごとくくくんんんばばば、、、成成なり親親ちかののの卿卿きょうががが死死し靈靈りょうなどなどなど聞聞きこえええててて候候そうろう。。。大大だい納納な言言ごんががが死死し靈靈りょうををを宥宥なだめめめんんんとととおぼしめさおぼしめさおぼしめさんんんにににつけつけつけてててははは、、、生生いきききててて候候そうろう少少しょう將將しょうをををこそこそこそ召召めししし還還かえささされれれ候候そうらははわめめめ。。。人人ひとののの思思おもひひいをををやめやめやめさせさせさせ給給たまははわばばば、、、おぼしめすおぼしめすおぼしめす事事こともももかなひかなひかない、、、人人ひとののの願願ねがひひいををを叶叶かなへへえさせさせさせましまさましまさましまさばばば、、、御御ご願願がんもももすなはちすなはちすなわち成成じょう就就じゅしてしてして、、、御御ご產產さん平平へい安安あん、、、皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうあつあつあっててて、、、家家か門門もんののの榮榮えい花花が、、、いよいよいよいよいよいよ盛盛さかんんんににに候候そうろうべしべしべし。。。」」」などなどなど申申もうささされれれけれけれければばば、、、
- 12入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、日日ひ頃頃ごろよりよりよりことことことののの外外ほかにににやはらいやはらいやわらいででで、、、「「「俊俊しゅん寛寛かんややや康康やす賴賴より法法ほっ師師しががが事事ことはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「それそれそれももも同同おなじうじうじゅうははは召召めしししこそこそこそ還還かえささされれれ候候そうらははわめめめ。。。もしもしもし一一ひと人人りももも殘殘のこささされれれたらたらたらんんんははは、、、なか〳〵なか〳〵なかなか罪罪ざい業業ごうたるたるたるべうべうびょう候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、「「「康康やす賴賴より法法ほっ師師しががが事事ことはははさるさるさることことことなれなれなれどもどもども、、、俊俊しゅん寛寛かんははは隨隨ずい分分ぶん入入にゅう道道どうががが口口こうををを以以もっててて、、、人人ひととととなつなつなったるたるたるものものものぞぞぞかしかしかし。。。それそれそれににに所所ところしもしもしもこそこそこそ多多おおけれけれけれ、、、東東ひがし山山やま鹿鹿ししののの谷谷たに、、、わがわがわが山山さん莊莊そうににに寄寄よりりりあひあひあいててて、、、奇奇き怪怪かいのののふるまひふるまひふるまいどもどもどもありありありけんけんけんなれなれなればばば、、、俊俊しゅん寛寛かんががが事事ことははは思思おもひひいももも寄寄よらららずずず。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 13大大おと臣臣ど歸歸かえつつっててて、、、叔叔お父父じののの宰宰さい相相しょうををを呼呼よびびび奉奉たてまつつつっててて、、、「「「少少しょう將將しょうははは既既すでににに赦赦しや免免めんあるあるあるべきべきべきででで候候そうろうぞぞぞ。。。御御み心心こころやすうやすうやすうおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、宰宰さい相相しょう聞聞ききききもももあへあへあえ給給たまははわずずず、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく手手てををを合合あははわせせせてててぞぞぞ悅悅よろこばばばれれれけるけるける。。。「「「下下くだりりり候候そうらひひいししし時時ときももも、、、これこれこれ程程ほどのののことことこと、、、などなどなどややや申申もうししし受受うけけけざらざらざらんんんととと思思おもひひいたりたりたりげげげにににててて、、、教教のり盛盛もりををを見見み候候そうろう度度たびごとごとごとににに、、、涙涙なみだををを流流ながししし候候そうらひひいしししががが不不ふ便便びんににに候候そうろう。。。」」」とととぞぞぞ申申もうささされれれけるけるける。。。小小こ松松まつ殿殿どの、、、「「「まことまことまことににに、、、さこそさこそさこそはははおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうろうらめらめらめ。。。子子こははは誰誰たれとてとてとてもももかなしけれかなしけれかなしければばば、、、よく〳〵よく〳〵よくよく申申もうししし候候そうらははわんんん。。。」」」とてとてとて入入いりりり給給たまひひいぬぬぬ。。。
- 14さるさるさる程程ほどににに鬼鬼き界界かいががが島島しまののの流流る人人にんどもどもどもののの、、、召召めししし還還かえさささるるるべきべきべき事事こと定定さだまりまりまりしかしかしかばばば、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの赦赦ゆるし文文ぶみ書書かいいいてててぞぞぞたうでたうでとうでけるけるける。。。御御おん使使つかい既既すでににに都都みやこををを立立たつつつ。。。宰宰さい相相しょうあまりあまりあまりのののうれしさうれしさうれしさににに、、、御御おん使使つかいににに私私わたくしののの使使つかいををを添添そへへえててて下下くだささされれれけるけるける。。。夜夜よををを晝晝ひるにににしてしてして急急いそぎぎぎ下下くだれれれとととありありありしかしかしかどもどもども、、、心心こころににに任任まかせせせぬぬぬ海海かい路路ろなれなれなればばば、、、波波なみ風風かぜををを凌凌しのいいいででで行行ゆくくく程程ほどににに、、、都都みやこをををばばば七七しち月月がつ下下げ旬旬じゅんににに出出いでででたれたれたれどもどもども、、、九九なが月月つき二十日二十日はつか頃頃ごろにににぞぞぞ鬼鬼き界界かいががが島島しまにににははは著著つきききにににけるけるける。。。
現代語訳
治承二年(1178)正月一日、院の御所では拝礼が行われ、四日には朝覲の行幸があった。何事も例年と変わったことはなかったが、去年の夏、新大納言成親卿以下、近習の人々が多く流され殺されたことで、法皇のお怒りがまだ収まらないので、世の政治もすべて気が進まずお思いになって、ご機嫌のよくないことばかりであった。太政入道(清盛)も、多田蔵人行綱が密告申し上げてからは、法皇をも油断のならないお方とお思い申し、表向きは何事もないようにしていたが、内心では用心して、苦笑いばかりしておられた。
七日、彗星が東の方に現れた。蚩尤気とも申す。また赤気とも申す。十八日、その光が増した。
入道相国の御娘の建礼門院は、そのときはまだ中宮と申し上げていたが、ご病気だということで、宮中も天下も嘆きに沈んでいた。諸寺で御読経が始まり、諸社へ官幣使が立てられた。医師は薬の限りを尽くし、陰陽師は術を極め、大法・秘法は一つとして残らず修せられた。けれどもご病気はただのものではなく、ご懐妊とのことであった。主上(高倉天皇)は今年十八歳、中宮は二十二歳になられる。それなのに、まだ皇子も姫宮もお生まれになっていなかった。
もし皇子でいらっしゃったら、どんなにめでたいことだろうと、平家の人々はまるで今皇子が誕生したかのように言って、勇み喜び合われた。他家の人々も、「平家は繁栄の時を得た。皇子のご誕生は疑いない」と言い合われた。ご懐妊が確かになられたので、入道相国は霊験あらたかな高僧・貴僧に命じて大法・秘法を修させ、星宿や仏菩薩に申し上げて、ひたすら皇子のご誕生を祈願させた。
六月一日、中宮の御着帯の儀があった。仁和寺の御室守覚法親王が急いで参内されて、孔雀経の法で御加持をなさった。天台座主覚快法親王、園城寺の長吏円慶法親王も同じく参上なさって、変成男子の法を修せられた。
そうこうするうちに、中宮は月が重なるにつれて、お体を苦しくなさった。一たび笑えば百の媚があったという漢の李夫人の、昭陽殿での病の床もこのようであったかと思われ、唐の楊貴妃が、梨の花一枝が春の雨に濡れ、芙蓉が風にしおれ、女郎花が露に重たげであるよりも、なおいたわしいご様子である。
このようにお苦しみの折に合わせて、手ごわい物の怪たちが大勢取りついた。よりましに乗り移らせ、不動明王の縛にかけると、霊が正体を現した。とりわけ讃岐院(崇徳院)の御霊、宇治の悪左府(藤原頼長)の御怨念、新大納言成親卿の死霊、西光法師の悪霊、鬼界が島の流人たちの生霊などと申した。
これによって生霊も死霊も宥められるべきだということで、まず讃岐院に追号があって崇徳天皇と号し、宇治の悪左府には贈官・贈位が行われて、太政大臣正一位を贈られた。勅使は少内記維基と聞こえた。その墓所は大和国添上郡河上村、般若野の五三昧である。保元の乱の秋に掘り起こして捨てられてからは、遺骸は道のほとりの土となって、年々ただ春の草ばかりが茂っていた。今、勅使が訪ねて来て宣命を読んだので、亡き魂はどれほど嬉しくお思いになったことであろう。
それゆえ早良の廃太子を崇道天皇と号し、井上内親王を皇后の位に戻した。これはみな怨霊を宥められるための策と聞こえた。怨霊は昔もこのように恐ろしいものであった。冷泉院が物狂おしくいらっしゃり、花山法皇が十善の帝位をお退きになったのは、元方の民部卿の霊である。また三条院の御目がご覧になれなかったのは、寛算供奉の霊とかいう。
門脇の宰相(教盛)はこうしたことを伝え聞かれて、小松殿(重盛)に申されたことには、「このたびの中宮御産のご祈祷はさまざまに行われています。何と申しても、非常の大赦にまさることがあろうとは思われません。中でも鬼界が島の流人たちを召し返されるほどの功徳善根が、ほかに何がありましょう」と申されたので、
小松殿は父の禅門の御前においでになって、「あの丹波少将のことを、門脇の宰相があまりに嘆き申しているのが気の毒でございます。とりわけ中宮のご病気のこと、承るところでは、成親卿の死霊などと聞こえております。大納言の死霊を宥めようとお思いになるのでしたら、生きております少将をこそ召し返されるのがよいでしょう。人の思いを晴らしておやりになれば、お思いになることもかない、人の願いをかなえておやりになれば、ご願もすぐに成就して、御産は平安に、皇子がご誕生になって、ご一門の栄華はいよいよ盛んになりましょう」などと申されたので、
入道相国は、ふだんよりことのほか穏やかになって、「俊寛や康頼法師のことはどうか」とおっしゃると、「それも同じことなら召し返されるのがよいでしょう。もし一人でも残されたら、かえって罪業となりましょう」と申されたので、入道相国は、「康頼法師のことはもっともだが、俊寛はずいぶんこの入道が口添えをして一人前になった者ではないか。それなのに、場所もほかにいくらもあるのに、東山の鹿の谷の自分の山荘に寄り集まって、けしからぬふるまいをしたというのだから、俊寛のことは思いも寄らぬ」とおっしゃった。
大臣(重盛)は帰って、叔父の宰相をお呼びして、「少将はきっと赦免されるはずです。ご安心なさいませ」と申されたので、宰相は聞き終わりもなさらず、泣く泣く手を合わせてお喜びになった。「少将が下りましたときも、これほどのことをどうして願い出てくれないのかと思っている様子で、この教盛を見るたびに涙を流していたのが気の毒でした」と申された。小松殿は、「まことに、さぞそうお思いでしょう。子は誰にとってもいとしいものですから、よくよく申し上げましょう」といって奥へお入りになった。
そうこうするうちに、鬼界が島の流人たちを召し返すことが決まったので、入道相国は赦文を書いてお渡しになった。御使はすでに都を立った。宰相はあまりの嬉しさに、御使に自分の使いを添えて下された。夜を昼に継いで急いで下れということであったが、思うにまかせぬ海路なので、波風をしのいで行くうちに、都を七月下旬に出たけれども、九月二十日ごろにようやく鬼界が島に着いた。
意訳
巻第三は、鬼界が島の流人の赦免から始まる。中宮徳子の懐妊と難産の予感、そして次々に現れる怨霊が、大赦の口実となっていく。崇徳院・藤原頼長という保元の乱の敗者の霊がまず鎮められ、成親・西光ら鹿ケ谷事件の死者、さらには生きている流人の生霊までが中宮を苦しめるとされたことが、重盛の進言に説得力を与えた。
重盛の言葉は、「人の思ひをやめさせ給はば、おぼしめす事もかなひ」と、怨みを解くことが父の願い(皇子誕生)をかなえる道だと説く、理にかなったものである。清盛もこれを受け入れるが、俊寛だけは「入道が口入を以て人となつたるもの」でありながら、自分の山荘で謀議をした恩知らずとして許さない。この清盛の私怨が、次の「足ずり」の悲劇を生む。
語釈・文法注
- 朝覲
- 天皇が上皇や皇太后の御所に参って新年の挨拶をすること。ここでは高倉天皇が後白河法皇の御所に行幸した。
- 蚩尤氣
- 彗星の一種で、兵乱の前兆とされた。蚩尤は中国古代の伝説で、黄帝と戦った乱の神。
- 變成男子
- 女性を男子に変えるという仏の功徳。ここでは胎内の子が男子となるよう祈る修法。
- 神子
- 「よりまし」と読む。祈祷のとき、物の怪を一時乗り移らせて語らせる童子や女。
- 基方
- 通行本文は「元方」。藤原元方のことで、娘の生んだ皇子が東宮になれず、恨んで死に、冷泉天皇の物狂いなどはその霊のしわざとされた。底本の表記のまま翻刻した。
- 口入
- 口添え、取りなし。俊寛が法勝寺の執行になれたのは清盛の口添えによる、という意。
文法
- 「照陽殿」
- 通行本文は「昭陽殿」。漢の後宮の殿舎の名。底本の表記のまま翻刻した。
- 「御憶念」
- 通行本文も「御憶念」。執念、怨念の意。
- 「たうでける」
- 「賜うでける」。「賜びける」の音便形で、お与えになった、の意。
- 「べう」
- 「べく」のウ音便。
解説
中宮徳子(建礼門院)は清盛の娘で、高倉天皇の中宮。このとき懐妊したのが、のちの安徳天皇である。崇徳院は保元の乱(1156)に敗れて讃岐に流され、その地で没した。怨霊として恐れられ、治承元年(1177)に「崇徳院」の号が贈られた。藤原頼長も保元の乱で敗死し、正一位太政大臣を追贈された。早良親王(崇道天皇)・井上内親王は奈良時代末の政争で非業の死を遂げ、怨霊として祀られた代表例である。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、359–362頁(コマ208–210)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日