平家物語 巻第二
蘇武の事
清盛も憐れみを示し、流人の歌は都中で口ずさまれた。物語は、漢の蘇武が胡国に捕らえられ、片足を切られながら雁の翼に手紙を結んで漢王に送り、十九年後に帰国した故事を語る。帰国できずに一族を罰せられた李少卿の悲運も添えて、雁に書を託した蘇武と、波に歌を託した康頼とを並べ、時代も国も違うがその風情は同じだと結ぶ。
- 1入入にゅう道道どうももも、、、岩岩いわ木木きならならならねねねばばば、、、さすがさすがさすが哀哀あわれれれげげげにににこそこそこそ宣宣のたまひひいけれけれけれ。。。入入にゅう道道どう、、、かくかくかく憐憐あわれみみみ給給たまふふう上上うえははは、、、京京きょう中中じゅうののの上上じょう下下げ、、、老老おいいいたるたるたるももも、、、若若わかきききももも、、、鬼鬼き界界かいががが島島しまののの流流る人人にんののの歌歌うたとてとてとて、、、口口くちずさまずさまずさまぬぬぬはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。千千せん本本ぼんまでまでまでつくりつくりつくり出出いだせせせるるる卒卒そ堵堵と婆婆ばなれなれなればばば、、、さこそさこそさこそははは小小ちいさくさくさくもももありありありけめけめけめ、、、薩薩さつ摩摩ま潟潟がたよりよりよりはる〴〵はる〴〵はるばるととと都都みやこまでまでまで傳傳つたはりはりわりけるけるけるこそこそこそ不不ふ思思し議議ぎなれなれなれ。。。あまりあまりあまりににに思思おもふふう事事ことははは、、、昔昔むかしもももかくかくかくしるししるししるしありありありけるけるけるにににややや。。。
- 2いにしへいにしへいにしえ漢漢かん王王おう、、、胡胡こ國國こくををを攻攻せめめめ給給たまひひいししし時時とき、、、始始はじめめめははは李李り少少しょう卿卿けいををを大大たい將將しょう軍軍ぐんにににててて三三さん十十じゅう萬萬まん騎騎ぎををを向向むけけけらるらるらる。。。漢漢かんののの戰戰たたかひひい弱弱よわくくくしてしてして、、、胡胡こ國國こくののの軍軍いくさ勝勝かちちちにににけりけりけり。。。あまつさへあまつさへあまつさえ大大たい將將しょう軍軍ぐん李李り少少しょう卿卿けい、、、胡胡こ王王おうののの爲爲ためにににいけいけいけどらどらどらるるる。。。次次つぎににに蘇蘇そ武武ぶををを大大たい將將しょう軍軍ぐんにににててて、、、五五ご十十じゅう萬萬まん騎騎ぎををを向向むけけけらるらるらる。。。今今こん度度どもももまたまたまた漢漢かんののの戰戰たたかひひい弱弱よわくくくしてしてして、、、胡胡こ國國こくののの軍軍いくさ勝勝かちちちにににけりけりけり。。。兵兵つわもの六六ろく千千せん餘餘よ人人にんいけいけいけどりどりどりにににせせせらるらるらる。。。
- 3そのそのその中中なかににに蘇蘇そ武武ぶをををはじめはじめはじめとととしてしてして、、、宗宗むね徒徒とののの兵兵つわもの六六ろく百百ぴゃく三三さん十十じゅう餘餘よ人人にんすぐりすぐりすぐり出出いだいいいててて、、、一一いち々々いちににに片片かた足足あしををを切切きつつっててて追追おつつっぱなたるぱなたるぱなたる。。。即即すなわちちち死死しぬるぬるぬる者者ものもももありありあり、、、程程ほどへへへててて死死しぬるぬるぬる者者ものもももありありあり。。。そのそのその中中なかににに蘇蘇そ武武ぶははは一一ひと人人り死死しなななざりざりざりけりけりけり。。。片片かた足足あしをををばばば切切きららられれれながらながらながら、、、山山やまににに上上のぼりりりててて木木こののの實實みををを拾拾ひろひひい、、、里里さとににに出出いでででててて根根ね芹芹ぜりををを摘摘つみみみ、、、秋秋あきははは田田た面面づらののの落落おち穗穗ぼ拾拾ひろひひいなんどなんどなんどしてしてしてぞぞぞ、、、露露つゆののの命命いのちをををばばば過過すごしししけるけるける。。。
- 4田田たにににいくらいくらいくらもももありありありけるけるける鴈鴈かりどもどもども、、、蘇蘇そ武武ぶににに見見みなれなれなれててて恐恐おそれれれざりざりざりけれけれければばば、、、これらこれらこれらはははみなみなみなわがわがわが故故こ鄕鄕きょうへへへ通通かよふふうものものものぞぞぞかしかしかしととと、、、なつかしくなつかしくなつかしくててて、、、思思おもふふうことことこと一一ひと筆筆ふで書書かいいいててて、、、「「「相相あい構構かまへへえてててこれこれこれ漢漢かん王王おうににに得得えさせさせさせよよよ。。。」」」ととといひいひいい含含ふくめめめててて、、、鴈鴈かりののの翼翼つばさににに結結むすびびびつけつけつけてててぞぞぞ放放はなちちちけるけるける。。。
- 5かひ〴〵しくかひ〴〵しくかいがいしくももも田田たのののものものもの鴈鴈かり、、、秋秋あきははは必必かならずずず越越こし路路じよりよりより都都みやこへへへ通通かよふふうものものものなるなるなるににに、、、漢漢かんののの昭昭しょう帝帝てい上上しょう林林りん苑苑えんににに御御ぎょ遊遊ゆうありありありしししににに、、、夕夕ゆうされされされののの空空そらうすうすうすぐもりぐもりぐもり、、、何何なにとととなくなくなくものものものあはれあはれあわれなりなりなりけるけるける折折おりふしふしふし、、、一一ひと行行つらののの鴈鴈かり飛飛とびびび渡渡わたるるる。。。そのそのその中中なかよりよりより鴈鴈かり一一ひとつつつ飛飛とびびび下下さがつつっててて、、、おのおのおのががが翼翼つばさににに結結むすびびびつけつけつけたるたるたる玉玉たま章章づさををを、、、食食くひひい切切きつつってててぞぞぞ落落おとしししけるけるける。。。官官かん人人にんこれこれこれををを取取とつつっててて、、、御御み門門かどへへへまゐらせまゐらせまいらせたりたりたりけれけれければばば、、、開開ひらいいいててて叡叡えい覽覽らんあるあるあるににに、、、
- 6「「「昔昔むかしははは巖巖がん窟窟くつののの洞洞ほらにににこめこめこめられられられててて三三さん春春しゅんののの愁愁しゅう嘆嘆たんををを送送おくりりり、、、今今いまははは曠曠こう田田でんののの畝畝うねににに棄棄すてててられられられててて胡胡こ狄狄てきののの一一いっ足足そくとととなれなれなれりりり。。。たとひたとひたとい屍屍かばねははは胡胡こののの地地ちににに散散ちらすらすらすととといふいふいうともともとも、、、魂魂たましいははは再再ふたたびびび君君くん邊邊ぺんににに仕仕つかへへえんんん。。。」」」とととぞぞぞ書書かいいいたりたりたりけるけるける。。。それそれそれよりよりよりしてしてしてこそこそこそ、、、文文ふみをををばばば鴈鴈がんともともとも、、、鴈鴈がん札札さつともともともまたまたまた名名なづけづけづけけれけれけれ。。。
- 7「「「あなあなあな無無む慙慙ざん、、、蘇蘇そ武武ぶがががほまれほまれほまれのののあとあとあとなりなりなりけりけりけり。。。このこのこの者者ものどもどもどもががが命命いのちののの未未いまだだだ生生いきききてててあるあるあるにににこそこそこそ。。。」」」とてとてとて、、、李李り廣廣こうととといふいふいう將將しょう軍軍ぐんににに仰仰おおせせせててて、、、百百ひゃく萬萬まん騎騎ぎををを向向むけけけらるらるらる。。。今今こん度度どははは漢漢かんののの戰戰たたかひひい強強つよくくくしてしてして、、、胡胡こ國國こくののの軍軍いくさ敗敗やぶれれれにににけりけりけり。。。御御み方方かた戰戰たたかひひい勝勝かちちちぬぬぬととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、蘇蘇そ武武ぶははは曠曠こう野野やののの中中なかよりよりより這這はひひい出出いでででててて、、、「「「これこれこれこそこそこそ古古いにしえののの蘇蘇そ武武ぶよよよ。。。」」」ととと名名な乘乘のるるる。。。片片かた足足あしははは切切きららられれれながらながらながら十十じゅう九九く年年ねんののの星星せい霜霜そうををを送送おくりりり迎迎むかへへえ、、、輿輿こしにににかかかかかかれれれててて舊舊きゅう里里りへへへぞぞぞ歸歸かえりりりけるけるける。。。
- 8蘇蘇そ武武ぶははは十十じゅう六六ろくののの年年とし、、、胡胡こ國國こくへへへ向向むけけけられられられししし時時とき、、、御御み門門かどよりよりより下下くだししし賜賜たまはりはりわりけるけるける旗旗はたをををばばば巻巻まきききててて、、、身身みををを放放はなたたたずずず持持もちちちたりたりたりしししををを、、、今今いま取取とり出出いだしししててて、、、御御み門門かどににに御御ご見見げん參參ざんににに入入いれれれたりたりたりけれけれければばば、、、君君きみももも臣臣しんももも感感かん嘆嘆たんなのめなのめなのめならならならずずず。。。蘇蘇そ武武ぶははは君君きみののの御御おん爲爲ためににに大大たい功功こうならびならびならびなかりなかりなかりしかしかしかばばば、、、大大たい國國こくあまたあまたあまた賜賜たまはつはつわっててて、、、そのそのその上上うえ、、、典典てん屬屬ぞく國國こくととといふいふいう司司つかさをををぞぞぞくだされくだされくだされけるけるける。。。
- 9あまつさへあまつさへあまつさえ李李り少少しょう卿卿けいははは胡胡こ國國こくににに止止とどまつまつまっててて遂遂ついににに歸歸かえらららずずず。。。いかにいかにいかにもももしてしてして漢漢かん朝朝ちょうへへへ歸歸かえらららんんんとととのみのみのみ歎歎なげきききけれけれけれどもどもども、、、胡胡こ王王おう許許ゆるさささねねねばばば力力ちから及及およばばばずずず。。。漢漢かん王王おうこれこれこれをををばばば夢夢ゆめにににももも知知しりりり給給たまははわずずず、、、李李り少少しょう卿卿けいははは君君きみののの御御おん爲爲ためににに、、、既既すでににに不不ふ忠忠ちゅうなるなるなる者者ものなりなりなりとてとてとて、、、空空むなしくしくしくなれなれなれるるる二二に親親しんががが骸骸かばねををを、、、掘掘ほりりり起起おこしししててて打打うたたたせせせらるらるらる。。。そのそのその外外ほか、、、六六りく親親しんをををみなみなみな罪罪つみせせせらるらるらる。。。李李り少少しょう卿卿けいこのこのこの由由よしををを傳傳つたへへえ聞聞きいいいててて、、、怨怨うらみみみ深深ふこうううぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。さりながらさりながらさりながらもももなほなほなお故故こ鄕鄕きょうををを戀戀こひひいつゝつゝつつ、、、全全まったくくく不不ふ忠忠ちゅうなきなきなき由由よしををを、、、一一いち巻巻かんののの書書しょににに作作つくつつっててて、、、御御み門門かどへへへ參參まいらせらせらせたりたりたりけれけれければばば、、、漢漢かん王王おうこれこれこれををを叡叡えい覽覽らんあつあつあっててて、、、「「「さてさてさてははは不不ふ忠忠ちゅうなかりなかりなかりけりけりけり。。。不不ふ便便びんなるなるなる事事こと、、、ござんなれござんなれござんなれ。。。」」」とてとてとて、、、父父ぶ母母もががが骸骸かばねををを掘掘ほりりり起起おこしししててて打打うたたたせせせられられられたりたりたりけるけるける事事ことをををぞぞぞ、、、卻卻かえつつっててて悔悔くやみみみたまひたまひたまいけるけるける。。。
- 10漢漢かん家家かののの蘇蘇そ武武ぶははは書書しょををを鴈鴈かりののの翼翼つばさにににつけつけつけててて、、、古古ふる里里さとへへへ送送おくりりり、、、本本ほん朝朝ちょうののの康康やす賴賴よりははは浪浪なみのののたよりたよりたよりににに、、、歌歌うたををを故故こ鄕鄕きょうへへへ傳傳つたふふう。。。かれかれかれははは一一いっ筆筆ぴつのののすさみすさみすさみ、、、これこれこれははは二二に首首しゅののの歌歌うた、、、かれかれかれははは上上じょう代代だい、、、これこれこれははは末末まつ代代だい、、、胡胡こ國國こく、、、鬼鬼き界界かいががが島島しま、、、境境さかいををを隔隔へだてててててて世世よはははかはれかはれかわれどもどもども、、、風風ふ情情ぜいははは同同おなじじじ風風ふ情情ぜい、、、ありがたかりありがたかりありがたかりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
現代語訳
入道も岩や木ではないので、さすがに哀れそうにおっしゃった。入道がこのように憐れまれたので、京中の上下の者は、老いた者も若い者も、鬼界が島の流人の歌として、口ずさまない者はなかった。千本も作り出した卒塔婆であるから、さぞ小さなものであっただろうに、薩摩潟からはるばる都まで伝わったのは不思議なことである。あまりに強く思うことは、昔もこのように験があったのであろうか。
昔、漢王が胡国を攻められたとき、初めは李少卿(李陵)を大将軍として三十万騎を差し向けられた。漢の軍は弱くて、胡国の軍が勝った。そのうえ大将軍李少卿は、胡王に生け捕りにされた。次に蘇武を大将軍として五十万騎を差し向けられた。今度もまた漢の軍は弱くて、胡国の軍が勝った。兵六千余人が生け捕りにされた。
その中から蘇武をはじめとして、主だった兵六百三十余人を選び出して、一人一人片足を切って追い放った。すぐに死ぬ者もあり、しばらくして死ぬ者もあった。その中で蘇武は一人死ななかった。片足を切られながらも、山に上って木の実を拾い、里に出て根芹を摘み、秋は田の落穂を拾うなどして、露のようにはかない命をつないでいた。
田にたくさんいた雁たちが、蘇武に見慣れて恐れなかったので、これらはみな自分の故郷へ通うものなのだと懐かしく思い、思うことを一筆書いて、「必ずこれを漢王に届けてくれ」と言い含めて、雁の翼に結びつけて放った。
感心にも田の雁は、秋には必ず越路から都へ通うものなので、漢の昭帝が上林苑で遊ばれていたとき、夕暮れの空がうす曇り、何となくもの悲しいころ、一列の雁が飛び渡った。その中から雁が一羽舞い降りて、自分の翼に結びつけられた手紙を食い切って落とした。役人がこれを取って帝に差し上げたので、開いてご覧になると、
「昔は岩窟の洞に閉じこめられて三年の春を嘆き暮らし、今は広い田の畝に捨てられて、片足の胡の民となっている。たとえ屍は胡の地にさらしても、魂は再び君のおそばにお仕えしよう」と書いてあった。それからこそ、手紙を雁書とも雁札とも名づけるようになったのである。
「ああ痛ましい、これは蘇武の誉れの跡であった。この者たちの命はまだ生きているのだ」といって、李広という将軍に命じて百万騎を差し向けられた。今度は漢の軍が強くて、胡国の軍は敗れた。味方が戦に勝ったと聞こえたので、蘇武は広野の中から這い出して、「これこそ昔の蘇武だ」と名のった。片足を切られながら十九年の年月を送り迎えて、輿に担がれて故郷へ帰った。
蘇武は十六歳の年に胡国へ差し向けられたとき、帝から賜った旗を巻いて肌身離さず持っていたのを、今取り出して帝にお目にかけたので、君も臣もひととおりでなく感嘆した。蘇武は君のために比べるもののない大功を立てたので、大国をいくつも賜り、そのうえ典属国という官職を下された。
一方の李少卿は胡国にとどまって、ついに帰らなかった。何とかして漢の朝廷へ帰りたいとばかり嘆いたけれども、胡王が許さないのでどうにもならない。漢王はこれを夢にもご存じなく、李少卿は君に対して不忠な者だといって、亡くなった両親の遺骸を掘り起こして鞭打たせられた。そのほか、六親をみな罰せられた。李少卿はこのことを伝え聞いて、深く恨んだ。それでもなお故郷を恋いながら、まったく不忠のないことを一巻の書に作って帝に差し上げたので、漢王はこれをご覧になって、「さては不忠ではなかったのだな。かわいそうなことをした」といって、父母の遺骸を掘り起こして打たせたことを、かえって後悔なさった。
漢の蘇武は手紙を雁の翼につけて故郷へ送り、わが国の康頼は波のたよりに歌を故郷へ伝えた。あれは一筆の慰み書き、これは二首の歌。あれは上代、これは末代。胡国と鬼界が島、境を隔てて時代は変わっても、その趣は同じ趣で、めったにないことであった。
意訳
康頼の卒塔婆の歌が清盛の心をも動かし、都中で口ずさまれるようになったことを受けて、遠く離れた地から思いを故郷に届けた先例として、漢の蘇武の雁書の故事を語る章段である。
片足を切られて胡国の荒野に捨てられた蘇武が、雁に手紙を託し、それが漢の昭帝のもとに届いて救出されるという話は、「雁書」「雁札」の語源として知られる。物語は、同じく胡国に捕らえられて帰国できず、漢王に疑われて一族を罰せられた李少卿(李陵)の悲劇を対照的に添え、運命の明暗を描き分けている。最後に、雁に書を託した蘇武と、波に歌を託した康頼とを対句で並べ、時代と国を隔てても思いの深さは同じだと結んで、巻第二を閉じている。
語釈・文法注
- 鴈書
- 手紙の異称。蘇武が雁の足に手紙を結んで漢に送ったという故事による。「雁の便り」ともいう。
文法
- 「岩木ならねば」
- 岩や木のような心のないものではないので、の意。人の情をもっているので、の意。
- 「さこそは小さくもありけめ」
- 「けめ」は過去推量の助動詞「けむ」の已然形で、係助詞「こそ」の結び。後に逆接で続き、さぞ小さかっただろうに、の意。
- 「不便なる事、ござんなれ」
- かわいそうなことであったのだな、の意。
解説
蘇武(前140?〜前60)は前漢の武帝の臣で、匈奴に使者として赴いて捕らえられ、十九年間抑留されたのちに帰国した。『漢書』蘇武伝によれば、蘇武は北海(バイカル湖)のほとりで羊を飼わされていたとされ、雁書の話は、漢の使者が匈奴をあざむくために作った作り話として記されている。片足を切られたという話は『平家物語』独自のもので、日本で伝えられた説話である。
李少卿は前漢の将軍李陵(?〜前74)のことで、匈奴に降伏したため、武帝に一族を処刑された。物語の、遺骸を掘り起こして打たせたという話は史実とは異なる。司馬遷が李陵を弁護して宮刑に処されたことでも知られる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、356–358頁(コマ207–208)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日