平家物語 巻第二
康頼祝詞の事
鬼界が島の流人たちは、成経の舅教盛から送られる衣食で命をつなぐ。熊野を信仰する成経と康頼は、島の中に熊野三山に似た地を見立てて三所権現を勧請し、毎日熊野詣でのまねをして帰洛を祈る。不信心な俊寛はこれに加わらない。康頼は花を幣に代えて、権現の徳をたたえる祝詞を捧げた。
- 1さるさるさる程程ほどににに鬼鬼き界界かいががが島島しまののの流流る人人にんどもどもども、、、露露つゆののの命命いのち草草くさ葉葉ばののの末末すえにににかゝつかゝつかかっててて、、、惜惜おしむしむしむべしべしべしとととにににはははあらあらあらねねねどもどもども、、、丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょうののの舅舅しゅうと平平へい宰宰さい相相しょう教教のり盛盛もりののの領領りょう、、、肥肥ひ前前ぜんののの國國くに鹿鹿か瀨瀨せののの莊莊しょうよりよりより、、、衣衣い食食しょくををを常常つねににに送送おくららられれれたりたりたりけれけれければばば、、、それそれそれにににてててぞぞぞ俊俊しゅん寛寛かんももも康康やす賴賴よりももも命命いのち生生いきききてててははは過過すごしししけるけるける。。。中中なかにににももも康康やす賴賴よりははは流流ながささされれれししし時時とき、、、周周す防防ほうののの室室むろ積積づみにににててて出出しゅっ家家けしししてててけりけりけり。。。法法ほう名名みょうをををばばば性性しょう照照しょうとととこそこそこそつけつけつけたりたりたりけれけれけれ。。。出出しゅっ家家けはははもとよりもとよりもとより望望のぞみみみなりなりなりけれけれければばば、、、
- 2遂遂ついにににかくかくかく背背そむきききはてはてはてけるけるける世世よののの中中なかをををとくとくとく捨捨すてててざりざりざりししし事事ことぞぞぞくやしきくやしきくやしき
- 3丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょうととと康康やす賴賴より入入にゅう道道どうとととははは、、、もとよりもとよりもとより熊熊くま野野の信信しん心心じんののの人人ひと々々びとにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、いかにいかにいかにもももしてしてしてこのこのこの島島しまののの内内うちににに三三さん所所じょ權權ごんををを勸勸かん請請じょうししし奉奉たてまつつつっててて、、、歸歸き洛洛らくののの事事ことををを祈祈いのらららばやばやばやととといふいふいうににに、、、天天てん性性せいこのこのこの俊俊しゅん寛寛かんははは不不ふ信信しん第第だい一一いちののの人人ひとにににててて、、、これこれこれををを用用もちゐゐいずずず。。。二二ふた人人りははは同同おなじじじ心心こころにににててて、、、もしもしもし熊熊くま野野のににに似似にたるたるたる所所ところもももやややあるあるあるととと、、、島島しまののの内内うちををを尋尋たずねねねまはるまはるまわるににに、、、或或あるいははは林林りん塘塘とうののの妙妙たえなるなるなるありありあり、、、紅紅こう錦錦きん繡繡しゅうのののよそほひよそほひよそおい品品しな々々じなににに、、、或或あるいははは雲雲うん嶺嶺れいのののあやしきあやしきあやしきありありあり、、、碧碧へき羅羅ら綾綾りょうののの色色いろ一一ひとつつつにににあらあらあらずずず。。。山山やまののの景景けい色色しき、、、樹樹きののの木木こ立立だちににに至至いたるるるまでまでまで、、、外外ほかよりよりよりもももなほなほなおすぐれすぐれすぐれたりたりたり。。。
- 4南南みなみををを望望のぞめめめばばば海海うみ漫漫まん々々まんとととしてしてして、、、雲雲くもののの波波なみ、、、煙煙けぶりののの波波なみふかくふかくふかく、、、北北きたををを顧顧かえりみみみれれればばば、、、またまたまた山山さん嶽嶽がくののの峨峨が々々がたるたるたるよりよりより、、、百百ひゃく尺尺せきののの瀧瀧りゅう水水すい漲漲みなぎりりり落落おちちちたりたりたり。。。瀧瀧たきののの音音おとことことことにににすさまじくすさまじくすさまじく、、、松松まつ風風かぜ神神かみさびさびさびたるたるたる住住すま居居ひ、、、飛飛ひ瀧瀧りゅう權權ごん現現げんのののおはしますおはしますおわします、、、那那な智智ちののの御御み山山やまにににさささももも似似にたりたりたりけりけりけり。。。さてさてさてこそこそこそやがてやがてやがて、、、そこそこそこをををばばば那那な智智ちののの御御み山山やまとととははは名名なづけづけづけけれけれけれ。。。
- 5このこのこの峯峯みねははは新新しん宮宮ぐう、、、かれかれかれははは本本ほん宮宮ぐう、、、これこれこれはははそんじやうそんじやうそんじょうそのそのその王王おう子子じ、、、かのかのかの王王おう子子じなどなどなど、、、王王おう子子じ々々おう々々じののの名名なををを申申もうしししててて、、、康康やす賴賴より入入にゅう道道どう先先せん達達だちにににててて、、、丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょう相相あい具具ぐしししつゝつゝつつ、、、日日ひ毎毎ごとににに熊熊くま野野の詣詣もうでのののまねまねまねをををしししててて、、、歸歸き洛洛らくののの事事ことをををぞぞぞ祈祈いのりりりけるけるける。。。「「「南南な無無む權權ごん現現げん、、、金金こん剛剛ごう童童どう子子じ、、、願願ねがははわくはくはくわ憐憐あわれみみみををを垂垂たれれれさせさせさせおはしましおはしましおわしまし、、、われらわれらわれらををを今今いま一一いち度度ど故故こ鄕鄕きょうへへへ返返かへししし入入いれれれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、妻妻さい子子しをををももも見見みせせせさせさせさせたまへたまへたまえ。。。」」」とととぞぞぞ祈祈いのりりりけるけるける。。。日日ひ數數かずつもつつもつつもっててて、、、たちたちたちかふかふかうべきべきべき淨淨じょう衣衣えもももなけれなけれなければばば、、、麻麻あさののの衣衣ころもををを身身みにににまとひまとひまとい、、、澤澤さわべべべののの水水みずををを垢垢こ離離りにににかいかいかいてててははは、、、岩岩いわ田田た川川がわののの淸淸きよききき流流ながれれれととと思思おもひひいやりやりやり、、、高高たかききき所所ところににに上上あがつつってててははは發發ほっ身身しん門門もんとととぞぞぞ觀觀かんじじじけるけるける。。。
- 6康康やす賴賴より入入にゅう道道どうははは參參まいるるるたびたびたびごとごとごとににに、、、三三さん所所じょ權權ごん現現げんののの御御おん前前まえにににててて祝祝のっ詞詞とををを申申もうすすすににに、、、御御ご幣幣へい紙紙がみもももなけれなけれなければばば、、、花花はなををを手手た折折おりりりててて捧捧ささげげげつゝつゝつつ、、、
- 7「「「維維い當當あた歳歳るさい次次じ治治じ承承しょう元元がん年年ねん丁丁ひのとののの酉酉とり、、、月月つきのののならびならびならびははは十十じゅう月月がつ二二ふつ日日か、、、日日ひののの數數かずははは三三さん百百びゃく五五ご十十じゅう餘餘よ箇箇か日日にち、、、吉吉きち日日じつ良良りょう辰辰しんををを擇擇えらんんんででで、、、かけまくかけまくかけまくもももかたじけなくかたじけなくかたじけなく日日にっ本本ぽん第第だい一一いちののの大大たい靈靈れい驗驗げん、、、熊熊ゆ野野や三三さん所所しょ權權ごん現現げん飛飛ひ瀧瀧りゅう大大だい薩薩さつ埵埵たののの教教きょう令令りょう、、、うづうづうずののの廣廣ひろ前前まえにににしてしてして、、、信信しん心心じんののの大大だい施施せ主主しゅ、、、羽羽う林林りん藤藤ふじ原原はらののの成成なり經經つね、、、竝竝ならびににに沙沙しゃ彌彌み性性しょう照照しょう、、、一一いっ心心しん淸淸しょう淨淨じょうのののまことまことまことををを致致いたししし、、、三三さん業業ごう相相そう應應おうののの志志こころざしをををぬきんでぬきんでぬきんでててて、、、謹謹つつしんんんででで以以もっててて敬敬うやまひひい白白もうすすす。。。
- 8それそれそれ證證しょう誠誠じょう大大だい菩菩ぼ薩薩さつははは濟濟さい度度ど苦苦く界界かいののの教教きょう主主しゅ、、、三三さん身身じん圓圓えん滿滿まんののの覺覺かく王王おうなりなりなり。。。或或あるいははは東東とう方方ぼう淨淨じょう瑠瑠る璃璃り醫醫い王王おうののの主主しゅ、、、衆衆しゅ病病びょう悉悉しつ除除じょののの如如にょ來來らいなりなりなり。。。或或あるいははは南南なん方方ぼう補補ふ陀陀だ落落らく能能のう化化けののの主主しゅ、、、入入にゅう重重じゅう玄玄げん門門もんののの大大だい士士じ、、、若若にゃく王王う子子じははは娑娑しゃ婆婆ば世世せ界界かいののの本本ほん主主しゅ、、、施施せ無無む畏畏い者者しゃののの大大だい士士じ、、、頂頂ちょう上上じょうののの佛佛ぶつ面面めんををを現現げんじじじててて、、、衆衆しゅ生生じょうののの諸諸しょ願願がんををを滿滿みてててしめしめしめ給給たまへへえりりり。。。
- 9これこれこれににに依依よつつっててて、、、上上かみ一一いち人人にんよりよりより下下しも萬萬ばん民民みんににに至至いたるるるまでまでまで、、、或或あるいははは現現げん世世せ安安あん穩穩おんののの爲爲ため、、、或或あるいははは後後ご生生しょう善善ぜん所所しょののの爲爲ためににに、、、朝朝あしたにににははは淨淨じょう水水すいををを掬掬むすんんんででで、、、煩煩ぼん惱惱のうのののあかあかあかををを濯濯すすぎぎぎ、、、夕夕ゆうべにににははは深深しん山山ざんににに向向むかつつっててて法法ほう號號ごうををを唱唱となふるふるうるににに、、、感感かん應應おうおこたるおこたるおこたる事事ことなしなしなし。。。峨峨が々々がたるたるたる峯峯みねののの高高たかきききをををばばば神神しん德德とくののの高高たかきききにににたとへたとへたとえ、、、嶮嶮けん々々けんたるたるたる谷谷たにののの深深ふかきききをををばばば弘弘ぐ誓誓ぜいののの深深ふかきききににになぞらへなぞらへなぞらえててて、、、雲雲くもををを分分わけけけててて上上のぼりりり露露つゆををを凌凌しのいいいででで下下くだるるる。。。こゝこゝここににに利利り益益やくののの地地ちをををたのまたのまたのまずずずんんんばばば、、、いかでいかでいかでかかか歩歩あゆみみみををを險險けん難難なんののの道道みちににに運運はこばばばんんん。。。權權ごん現現げんののの德德とくををを仰仰あおがががずずずんんんばばば、、、何何なんぞぞぞ必必かならずずずしもしもしも幽幽ゆう遠遠おんののの境境さかいにににましましましまさまさまさんんんややや。。。
- 10依依よつつっててて證證しょう誠誠じょう權權ごん現現げん飛飛ひ瀧瀧りゅう大大だい薩薩さつ埵埵た、、、各各おのおの靑靑しょう蓮蓮れん慈慈じ悲悲ひのののまなじりまなじりまなじりををを相相あい竝竝ならべべべ、、、さをしかさをしかさおしかののの御御おん耳耳みみをををふりふりふり立立たてててててて、、、われらわれらわれらががが無無む二二にののの丹丹たん精精せいををを知知ち見見けんしししててて、、、一一いち々々いちののの懇懇こん志志しををを納納のう受受じゅじじじ給給たまへへえ。。。しかれしかれしかればばばすなはちすなはちすなわち、、、むすぶむすぶむすぶはやはやはや玉玉たまののの兩兩りょう所所しょ權權ごん現現げん、、、機機きににに從從したがつつっててて或或あるいははは有有う緣緣えんののの衆衆しゅ生生じょうををを導導みちびききき、、、或或あるいははは無無む緣緣えんののの羣羣ぐん類類るいををを救救すくははわんんんががが爲爲ためににに、、、七七しっ寶寶ぽう莊莊しょう嚴嚴ごんのののすみかすみかすみかををを捨捨すてててててて、、、八八はち萬萬まん四四し千千せんののの光光ひかりをををやはらげやはらげやわらげ、、、六六ろく道道どう三三さん有有うののの塵塵ちりににに同同どうじじじたまへたまへたまえりりり。。。
- 11故故かるがゆえににに定定じょう業業ごう亦亦やく能能のう轉轉てん、、、求求ぐ長長ちょう壽壽じゅ、、、得得とく長長ちょう壽壽じゅ、、、禮禮らい拜拜はい袖袖そでをををつらねつらねつらね、、、幣幣へい帛帛はく禮禮れい奠奠でんををを捧捧ささぐるぐるぐる事事こと暇暇ひまなしなしなし。。。忍忍にん辱辱にくののの衣衣ころもををを重重かさねねね、、、覺覺かく道道どうののの花花はなををを捧捧ささげげげててて、、、神神しん殿殿でんののの床床ゆかをををうごかしうごかしうごかし、、、信信しん心心じんののの水水みずをををすましすましすましててて、、、利利り生生しょうののの池池いけををを湛湛たたへへえたりたりたり。。。神神しん明明めい納納のう受受じゅししし給給たまははわばばば、、、所所しょ願願がん何何なんぞぞぞ成成じょう就就じゅせせせざらざらざらんんん。。。仰仰あおぎぎぎ願願ねがははわくはくはくわ十十じゅう二二に所所しょ權權ごん現現げん、、、各各おのおの利利り生生しょうののの翼翼つばさををを竝竝ならべべべ、、、遙遙はるかかかににに苦苦く界界がいののの空空そらにににかけりかけりかけり、、、左左さ遷遷せんののの憂憂うれへへえをををやすめやすめやすめててて、、、速速すみやかかかににに歸歸き洛洛らくののの本本ほん懷懷かいををを遂遂とげげげしめしめしめたまへたまへたまえ。。。再再さい拜拜はい。。。」」」とととぞぞぞ康康やす賴賴より祝祝のっ詞詞とをををばばば申申もうしししけるけるける。。。
現代語訳
そうしているうちに、鬼界が島の流人たちは、露のようにはかない命を草葉の先にかけて、惜しむほどの命ではないけれども、丹波少将の舅の平宰相教盛の領地、肥前国鹿瀬の荘から、衣服や食べ物をいつも送られていたので、それによって俊寛も康頼も命をつないで過ごしていた。なかでも康頼は流されたとき、周防の室積で出家した。法名を性照とつけた。出家はもとからの望みであったので、
ついにこのように背き捨てることになった世の中を、もっと早く捨てなかったことが悔やまれる。
丹波少将と康頼入道は、もともと熊野を信仰する人々であったので、何とかしてこの島の中に熊野三所権現をお迎え申して、都に帰ることを祈りたいと言ったが、生まれつきこの俊寛は不信心第一の人で、これに取り合わなかった。二人は同じ心で、もしや熊野に似た所もあるかと島の中を尋ね回ると、ある所には林や堤の美しいところがあって、紅の錦の刺繍のような装いがさまざまで、ある所には雲のかかる峰の不思議な所があって、青い薄絹のような色が一様でない。山の景色から木立に至るまで、ほかの所よりもいっそうすぐれていた。
南を望めば海が果てしなく広がり、雲の波、煙の波が深く、北を顧みれば、また山々がそびえ立つところから、百尺の滝が水をみなぎらせて落ちている。滝の音はことにすさまじく、松風が神々しく吹く住まいは、飛滝権現のおいでになる那智の御山によく似ていた。そこで、そこを那智の御山と名づけた。
この峰は新宮、あれは本宮、これは何々の王子、あの王子などと王子王子の名をつけて、康頼入道が先達となり、丹波少将を連れて、毎日熊野詣でのまねをして、都に帰ることを祈った。「南無権現、金剛童子、願わくは憐れみをおかけくださって、私たちをもう一度故郷へお帰しくださり、妻子にも会わせてください」と祈った。日数が重なって、着替える浄衣もないので、麻の衣を身にまとい、沢の水で垢離を取っては岩田川の清い流れと思いなし、高い所に上っては発心門と見なした。
康頼入道は参るたびに、三所権現の御前で祝詞を申したが、御幣の紙もないので、花を手折って捧げながら、
「ここに年の次第は治承元年丁酉、月の並びは十月二日、日の数は三百五十余日、吉日良辰を選んで、口にするのも恐れ多い日本第一の大霊験、熊野三所権現・飛滝大薩埵の尊い御前において、信心の大施主、近衛中将藤原成経ならびに沙弥性照が、一心清浄のまことを尽くし、身口意の三業をそろえた志をぬきんでて、謹んで敬い申し上げる。そもそも証誠大菩薩(本宮)は苦界の衆生を救う教主で、三身円満の仏である。あるいは東方浄瑠璃世界の医王の主(新宮の薬師如来)で、あらゆる病を除く如来である。あるいは南方補陀落の教化の主(那智の観音)で、重玄門に入った菩薩である。若王子は娑婆世界の本主で、施無畏者の菩薩であり、頭上に仏面を現して、衆生の願いを満たしてくださる。
そもそも証誠大菩薩(本宮)は、苦しみの世界の衆生を救う教主、三身を円満に備えた覚王である。あるいは東方浄瑠璃世界の医王の主で、あらゆる病を除く如来(薬師如来・新宮)である。あるいは南方補陀落の教化の主で、重玄門に入った大士(観音菩薩・那智)、若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士(十一面観音)で、頭上に仏の面を現して衆生のさまざまな願いを満たしてくださる。
これによって、上は天皇から下は万民に至るまで、あるいは現世の安穏のため、あるいは後世の善所に生まれるために、朝には浄水をすくって煩悩の垢を洗い、夕べには深山に向かって御名を唱えるが、その感応は怠ることがない。そびえ立つ峰の高さを神徳の高さにたとえ、険しい谷の深さを誓願の深さになぞらえて、雲を分けて上り、露をしのいで下る。ここに利益の地を頼まなければ、どうして険しい道に歩みを運ぼうか。権現の徳を仰がなければ、どうして必ずしも遠く奥深い地においでになろうか。
そこで証誠権現・飛滝大薩埵よ、それぞれ青蓮のような慈悲のまなざしを並べ、さお鹿のような御耳をそばだてて、私たちの二心なき真心を見届け、一つ一つの切なる願いをお聞き入れください。そうであるから、結ぶ早玉の両所権現は、人々の機根に応じて、あるいは縁ある衆生を導き、あるいは縁なき衆生を救うために、七宝で飾った住まいを捨て、八万四千の光をやわらげて、六道三有の世の塵に交わっておられるのである。
だから「定業もよく転ずる、長寿を求めれば長寿を得る」と、礼拝する人は袖を連ね、幣帛や供物を捧げることは絶え間がない。忍辱の衣を重ね、悟りの道の花を捧げて神殿の床を動かし、信心の水を澄ませて利生の池を満たした。神が受け入れてくださるならば、どうして願いがかなわないことがあろうか。仰ぎ願わくは十二所権現よ、それぞれ御利益の翼を並べて、はるかに苦界の空を翔り、左遷の憂いを休めて、速やかに都へ帰る本懐を遂げさせてください。再拝」と、康頼は祝詞を申し上げた。
意訳
鬼界が島に流された三人のうち、成経と康頼は熊野の信仰があつく、島の中に熊野三山に似た地を見立てて、毎日熊野詣でのまねをする。滝を那智の滝に、峰を本宮・新宮に、沢の水を岩田川に見立てるというのは、遠く離れた聖地を心の中に再現する「見立て」の信仰であり、流人たちの都への切ない思いがこめられている。
一方で俊寛は「不信第一の人」としてこれに加わらない。この違いが、次の章段以降で、成経と康頼だけが赦されて俊寛一人が島に残されるという運命の分かれ道につながっていく。康頼の祝詞は、熊野の各神々の本地仏をたたえる漢文調の荘重な文章で、平曲でも聞かせどころの一つとされた。
語釈・文法注
- 三所權現
- 熊野三山(本宮・新宮・那智)の主神。本地仏は、本宮が阿弥陀如来、新宮が薬師如来、那智が千手観音とされた。
文法
- 「維當歳次治承元年丁の酉」
- 祝詞や祭文の書き出しの決まり文句。「維(これ)当(あ)たる歳の次(やど)り」と読み、この年の干支は、の意。底本のふりがなは「ゐあたるさいじ」。
- 「定業亦能轉、求長壽、得長壽」
- 経文の句。前世から定まった業もよく転じることができ、長寿を求めれば長寿を得る、の意。
- 「さをしかの御耳をふり立てて」
- 雄鹿が耳をそばだてるように、注意深く聞いてください、の意。
和歌
遂にかく背きはてける世の中をとく捨てざりし事ぞくやしき
- 詠者
- 平康頼(性照)
- 状況
- 流罪の途中、周防の室積で出家した康頼が、かねてからの望みであった出家について詠んだ歌。
修辞
- 係り結び
- 係助詞「ぞ」を受けて、結びが形容詞「くやし」の連体形「くやしき」となる。
解説
平康頼は、鹿ケ谷事件で鬼界が島に流された一人で、のちに赦されて帰京し、仏教説話集『宝物集』を著したとされる。熊野信仰は、平安時代後期から上皇や貴族の間で盛んになり、後白河法皇は生涯に三十回以上熊野に参詣した。
島に熊野を勧請する話は、遠隔地から聖地を遥拝する信仰のあり方をよく示している。物語は、信心深い成経・康頼と不信心な俊寛とを対比させ、のちの赦免の運命の違いを、信仰の有無によるものとして語っていく。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、350–353頁(コマ204–205)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日