平家物語 巻第二
善光寺炎上の事
そのころ信濃の善光寺が焼けた。本尊の阿弥陀三尊は、天竺の月蓋長者が鋳造し、百済を経て欽明天皇の代に日本に渡り、本田善光が信濃に迎えて以来、五百八十余年焼けたことがなかった。王法が尽きようとするときは仏法がまず滅びるといわれ、霊寺・霊山が次々と失われるのは王法の末の前兆かと人々は語った。
- 1そのそのその頃頃ころ信信しな濃濃のののの國國くに善善ぜん光光こう寺寺じ炎炎えん上上しょうののの事事ことありありありけりけりけり。。。かのかのかの如如にょ來來らいははは昔昔むかし中中ちゅう天天てん竺竺じく舍舍しゃ衞衞え國國こくににに、、、五五ご種種しゅののの惡惡あく病病びょう起起おこつつっててて、、、人人ひと、、、僧僧そう多多おおくくく亡亡ほろびびびししし時時とき、、、月月がっ蓋蓋かい長長ちょう者者じゃががが智智ち性性しょうににによつよつよっててて、、、龍龍りゅう宮宮ぐう城城じょうよりよりより閻閻えん浮浮ぶ檀檀だん金金ごんををを得得えててて、、、佛佛ほとけ、、、目目もく蓮蓮れん長長ちょう者者じゃ、、、心心こころををを一一いっにににしてしてして鑄鑄いあらはしあらはしあらわし給給たまへへえるるる一一いっ著著ちゃく手手しゅ半半はんののの彌彌み陀陀だののの三三さん尊尊ぞん、、、三三さん國國ごく無無ぶ雙雙そうののの靈靈れい像像ぞうなりなりなり。。。
- 2佛佛ほとけ滅滅めつ度度どののの後後のち、、、天天てん竺竺じくににに止止とどまらまらまらせせせ給給たまふふう事事こと五五ご百百ひゃく歳歳さい。。。されどもされどもされども佛佛ぶつ法法ぽう東東とう漸漸ぜんののの理理ことわりにににててて、、、百百ひゃく濟濟さいののの國國くにににに移移うつらららせせせ給給たまひひいててて、、、一一いっ千千せん歳歳さいののの後後のち百百ひゃく濟濟さいののの帝帝みかど齊齊せい明明めい王王おう、、、わがわがわが朝朝ちょうののの御御み門門かど欽欽きん明明めい天天てん皇皇のうののの御御ぎょ宇宇うににに及及およんんんででで、、、かのかのかの國國くによりよりよりこのこのこの國國くにへへへ移移うつらららせせせ給給たまひひいててて、、、攝攝つ津津のののの國國くに難難なに波波わののの浦浦うらにににしてしてして、、、星星せい霜霜そうををを送送おくらららせせせおはしますおはしますおわします。。。常常つねににに金金こん色色じきののの光光ひかりををを放放はなたたたせせせ給給たまふふう。。。これこれこれににによつよつよっててて年年ねん號號ごうをををばばば金金こん光光こうととと號號ごうすすす。。。
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- 4王王おう法法ぼう盡盡つきききんんんとてとてとてははは、、、佛佛ぶつ法法ぽうまづまづまず亡亡ぼうずずずととといへいへいえりりり。。。さればにやさればにやさればにや、、、さしもさしもさしもやんごとなかりやんごとなかりやんごとなかりつるつるつる靈靈れい寺寺じ、、、靈靈れい山山ざんののの多多おおくくく失失うせせせぬるぬるぬる事事ことははは、、、王王おう法法ぼうののの末末すえににになりなりなりぬるぬるぬる前前ぜん表表ぴょうやらやらやらんんんとととぞぞぞ、、、人人ひと申申もうしししけるけるける。。。
現代語訳
そのころ信濃国の善光寺が焼けるということがあった。その如来は、昔、中インドの舎衛国に五種の悪病が起こって人も僧も多く死んだとき、月蓋長者の知恵によって龍宮城から閻浮檀金を得て、仏と目連と長者とが心を一つにして鋳造された一搩手半の阿弥陀三尊で、三国に並ぶもののない霊像である。
仏の入滅の後、天竺にとどまっておられたこと五百年。けれども仏法が東へ伝わっていく道理によって百済の国にお移りになり、一千年の後、百済の帝の斉明王のとき、わが国の欽明天皇の御代に及んで、その国からこの国へお移りになって、摂津国の難波の浦で年月を送られた。いつも金色の光を放っておられた。これによって年号を金光と名づけた。
同じ金光三年三月上旬に、信濃国の住人大海の本田善光が都へ上って如来にお会いし、そのままお誘い申して下ったが、昼は善光が如来を背負い申し、夜は善光が如来に背負われ申して信濃国へ下り、水内郡に安置し申してからこのかた、年月は五百八十余年、けれども焼けたのはこれが初めてと聞く。
「王法が尽きようとするときは、仏法がまず滅びる」という。だからであろうか、あれほど尊い霊寺や霊山が多く失われていくのは、王法が末になった前兆であろうかと、人々は申した。
意訳
善光寺の炎上を、本尊の由来とともに語る短い章段である。善光寺の阿弥陀三尊は、天竺・百済を経て日本に渡った「三国伝来」の霊像とされ、本田善光が背負って信濃に運び、夜には逆に如来が善光を背負ったという伝説が添えられている。その善光寺が五百八十余年の間で初めて焼けたことを、物語は「王法尽きんとては、仏法まづ亡ず」という言葉で、王朝の衰えの前兆と結びつけている。
語釈・文法注
文法
- 「王法盡きんとては、佛法まづ亡ず」
- 仏法と王法は互いに支え合うもので、王法が衰えるときには、まず仏法が衰える、という考え方による言葉。
- 「前表」
- 前ぶれ、前兆。
解説
善光寺(長野市)は、三国伝来とされる阿弥陀三尊を本尊とし、宗派を問わず信仰を集めた寺である。治承三年(1179)に焼失したと伝えられる。「金光」は善光寺の縁起に見える年号で、正史には見えない私年号である。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、349–350頁(コマ203–204)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日