平家物語 巻第二
山門滅亡の事
後白河法皇が三井寺で灌頂を受けようとすると延暦寺の衆徒が反対し、法皇は天王寺で灌頂を遂げる。その延暦寺では堂衆と学匠が争い、清盛は院宣を受けて官軍を学匠方につけるが、悪党を集めた堂衆に敗れる。比叡山は荒れ果て、天竺・震旦・日本の仏法の衰えと重ねて、伝教大師以来の天台の仏法の滅亡が嘆かれる。
- 1さるさるさる程程ほどににに法法ほう皇皇おうははは、、、三三み井井い寺寺でらののの公公こう顯顯けん僧僧そう正正じょうををを御御ご師師し範範はんとととしてしてして、、、眞眞しん言言ごんののの祕祕ひ法法ほうををを傳傳でん受受じゅせせせさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。大大だい日日にち經經きょう、、、金金こん剛剛ごう頂頂ちょう經經きょう、、、蘇蘇そ悉悉しつ地地ち經經きょう、、、このこのこの三三さん部部ぶののの祕祕ひ經經きょうををを受受うけけけさせさせさせ給給たまひひいててて、、、九九く月月がつ四四よつ日日かののの日日ひ、、、三三み井井い寺寺でらにににててて御御ご灌灌かんあるあるあるべきべきべき由由よし聞聞きこゆゆゆ。。。山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅ憤憤いきどおりりり申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「昔昔むかしよりよりより御御ご灌灌かん頂頂ちょう、、、御御ご受受じゅ戒戒かい、、、みなみなみな當當とう山山ざんにににしてしてして遂遂とげげげさせさせさせたまふたまふたまうことことこと先先せん規規きなりなりなり。。。なかんづくなかんづくなかんずく山山さん王王おうののの化化け導導どうははは、、、受受じゅ戒戒かい、、、灌灌かん頂頂ちょうのののためためためなりなりなり。。。しかるしかるしかるををを今今いま三三み井井い寺寺でらにににててて遂遂とげげげさせさせさせおはしまさおはしまさおわしまさばばば、、、寺寺てらををを一一いっ向向こう燒燒やききき拂拂はらふふうべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 2法法ほう皇皇おうははは、、、「「「これこれこれ無無む益益やくなりなりなり。。。」」」とてとてとて、、、御御おん加加け行行ぎょうばかりばかりばかり御御ご結結けち願願がんありありありててて、、、御御ご灌灌かん頂頂ちょうをををばばばおぼしめしおぼしめしおぼしめし止止とどまらららせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。されどもされどもされども御御ご本本ほ意意いなれなれなればばばとてとてとて、、、公公こう顯顯けん僧僧そう正正じょうををを召召めししし具具ぐしししつゝつゝつつ、、、天天てん王王おう寺寺じへへへ御御ご幸幸こうなつなつなっててて、、、五五ご智智ち光光こう院院いんををを立立たててて、、、龜龜かめ井井いののの水水みずををを五五ご瓶瓶びょうののの智智ち水水すいととと定定さだめめめ、、、佛佛ぶつ法法ぽう最最さい初初しょののの靈靈れい地地ちにににてててぞぞぞ傳傳でん法法ぽう灌灌かん頂頂ちょうをををばばば遂遂とげげげさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。
- 3山山さん門門もんののの騒騒そう動動どうををを鎭鎭しずめめめられられられんんんががが爲爲ためににに、、、三三み井井い寺寺でらにににててて御御ご灌灌かん頂頂ちょうはははなかりなかりなかりしかしかしかどもどもども、、、山山さん門門もんにににははは堂堂どう衆衆しゅ、、、學學がく匠匠しょう、、、不不ふ快快かいのののことことこと出出いででで來來きててて、、、合合かっ戰戰せん度度ど々々どににに及及およぶぶぶ。。。毎毎まい度度どににに學學がく侶侶りょうちうちうち落落おとさささるるる。。。山山さん門門もんののの滅滅めつ亡亡ぼう、、、朝朝ちょう家家かののの御御おん大大だい事事じとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 4堂堂どうととといふいふいうははは、、、學學がく匠匠しょうののの所所しょ從從じゅうなりなりなりけるけるける童童わらんべののの法法ほっ師師しににになりなりなりたるたるたるややや、、、もしはもしはもしは中中ちゅう間間げん法法ほっ師師しばらばらばらにににてててもももやややありありありけんけんけん。。。一一ひと年年とせ金金こん剛剛ごう壽壽じゅ院院いんののの座座ざ主主す覺覺かく尋尋じん權權ごん僧僧そう正正じょう治治ち山山さんののの時時とき、、、三三さん塔塔とうににに結結けっ番番ばんしししててて、、、夏夏げ衆衆しゅととと號號ごうしししててて佛佛ほとけににに花花はなまゐらせまゐらせまいらせししし者者ものどもどもどもなりなりなり。。。しかるしかるしかるををを近近きん年年ねん行行ぎょう人人にんとてとてとて、、、大大だい衆衆しゅをををももも事事ことととともももせせせずずず、、、かくかくかく度度ど々々どののの軍軍いくさにににうちうちうち勝勝かちちちぬぬぬ。。。
- 5堂堂どう衆衆しゅ等等ら師師し主主すののの命命めいをををそむいそむいそむいててて、、、既既すでににに謀謀む叛叛ほんををを企企くわだつつつ。。。すみやかすみやかすみやかににに誅誅ちゅう罰罰ばつせせせらるらるらるべきべきべき由由よし、、、大大だい衆衆しゅ公公く家家げへへへ奏奏そう聞聞もんししし、、、武武ぶ家家けににに觸觸ふれれれ訴訴うつたふふう。。。これこれこれににに依依よつつっててて入入にゅう道道どう相相しょう國國こく院院いん宣宣ぜんををを承承うけたまわつつっててて、、、紀紀き伊伊いののの國國くにののの住住じゅう人人にん湯湯ゆ淺淺あさののの權權ごんののの守守かみ宗宗むね重重しげ以以い下下げ、、、畿畿き内内ないののの兵兵へい二二に千千せん餘餘よ人人にん、、、大大だい衆衆しゅにににさしさしさし添添そへへえててて堂堂どう衆衆しゅををを攻攻せめめめらるらるらる。。。
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- 7大大だい衆衆しゅははは官官かん軍軍ぐんををを先先さき立立だてててんんんとととすすす、、、官官かん軍軍ぐんはははまたまたまた大大だい衆衆しゅををを先先さき立立だてててんんんととと爭爭あらそふふうほどほどほどににに、、、心心こころ々々ごころににになつなつなっててて、、、はか〴〵しくはか〴〵しくはかばかしくももも戰戰たたかははわずずず。。。堂堂どう衆衆しゅにににかたらふかたらふかたらう惡惡あく黨黨とうととといふいふいうははは、、、諸諸しょ國國こくののの竊竊せつ盜盜とう、、、強強ごう盜盜とう、、、山山さん賊賊ぞく、、、海海かい賊賊ぞく等等らなりなりなり。。。慾慾よく心心しん熾熾し盛盛じょうにににしてしてして、、、死死し生生しょう知知しらららずずずののの奴奴やつばらばらばらなりなりなりけれけれければばば、、、われわれわれ一一ひと人人りととと思思おもひひい切切きつつっててて戰戰たたかふふうほどほどほどににに、、、今今こん度度どもももまたまたまた學學がく匠匠しょう、、、軍軍いくさににに負負まけけけにににけりけりけり。。。
- 8そのそのその後後のちははは山山さん門門もんいよ〳〵いよ〳〵いよいよ荒荒あれれれはてはてはてててて、、、十十じゅう二二に禪禪ぜん衆衆しゅののの外外ほかははは、、、止止し住住じゅうののの僧僧そう侶侶りょまれまれまれなりなりなり。。。谷谷たに々々だにののの講講こう演演えん磨磨ま滅滅めつしししててて、、、堂堂どう塔塔とうののの行行ぎょう法法ほうももも退退たい轉轉てんすすす。。。修修しゅ學學がくののの窗窗まどををを閉閉とぢぢじ、、、坐坐ざ禪禪ぜんののの床床ゆかををを空空むなしうしうしゅうせせせりりり。。。四四し教教きょう五五ごののの春春はるののの花花はなもももにほはにほはにおわずずず、、、三三さん諦諦たい即即そく是是ぜののの秋秋あきののの月月つきももも曇曇くもれれれりりり。。。三三さん百百びゃく餘餘よ歳歳さいののの法法ほっ燈燈とうをををかゝぐるかゝぐるかかぐる人人ひともももなくなくなく、、、六六ろく時時じ不不ふ斷斷だんののの香香こうののの煙煙けぶりももも絶絶たえええやややしししにににけんけんけん。。。
- 9堂堂どう舎舎しゃ高高たかくくく聳聳そびえええててて、、、三三さん重重じゅうののの構構かまへへえををを靑靑せい漢漢かんののの内内うちににに插插さしわさみみみ、、、棟棟たる梁梁き遙遙はるかかかににに秀秀ひいでででててて四四し面面めんののの椽椽たるきををを白白はく霧霧ぶののの間間あいだにににかけかけかけたりたりたりききき。。。されどもされどもされども今今いまははは供供ぐ佛佛ぶつををを峯峯みねののの嵐嵐あらしにににまかせまかせまかせ、、、金金きん容容ようををを紅紅こう瀝瀝れきににに濕濕うるおししし、、、夜夜よるののの月月つき燈燈ともしびをををかゝげかゝげかかげててて、、、軒軒のきののの隙隙ひまよりよりより漏漏もりりり、、、曉曉あかつきののの露露つゆ珠珠たまををを垂垂たれれれててて、、、蓮蓮れん座座ざのののよそほひよそほひよそおいををを添添そふふうとととかやかやかや。。。
- 10それそれそれ末末まつ代代だいののの俗俗ぞくににに至至いたつつってててははは、、、三三さん國國ごくののの佛佛ぶつ法法ぽうももも次次し第第だいににに衰衰すい微微びせせせりりり。。。遠遠とおくくく天天てん竺竺じくににに佛佛ぶつ跡跡せきををを訪訪とぶらふふうににに、、、むかしむかしむかし佛佛ほとけののの法法のりををを説説ときききたまひたまひたまいししし竹竹ちく林林りん精精しょう舍舍じゃ、、、給給ぎっ孤孤こ獨獨どく園園おんもももこのこのこの頃頃ごろははは、、、虎虎こ狼狼ろう野野や干干かんのののすみかすみかすみかとととなつなつなっててて、、、礎礎いしずえのののみみみややや殘殘のこるるるらんらんらん。。。白白はく鷺鷺ろ池池ちにににははは水水みず絶絶たえええててて、、、草草くさのみのみのみ深深ふかくくくしげれしげれしげれりりり。。。退退たい凡凡ぼん、、、下下げ乘乘じょうののの卒卒そ堵堵と婆婆ばももも苔苔こけのみのみのみむしむしむしててて傾傾かたぶきききぬぬぬ。。。
- 11震震しん旦旦たんにににももも天天てん台台だい山山さん、、、五五ご台台たい山山さん、、、白白はく馬馬ば寺寺じ、、、玉玉ぎょく泉泉せん寺寺じももも、、、今今いまははは住住じゅう侶侶りょなきなきなき樣樣さまににに荒荒あれれれはてはてはてててて、、、大大だい小小しょう乘乘じょうののの法法ほう文文もんももも箱箱はこののの底底そこにににややや朽朽くちちちぬぬぬらんらんらん。。。わがわがわが朝朝ちょうにににももも南南なん都都とののの七七しち大大だい寺寺じ荒荒あれれれはてはてはてててて、、、八八はっ宗宗しゅうももも、、、九九く宗宗しゅうももも跡跡あとたえたえたえ、、、愛愛あた宕宕ご、、、高高たか尾尾おももも昔昔むかしははは堂堂どう塔塔とう、、、軒軒のきををを竝竝ならべべべたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、一一いち夜夜やののの中中うちににに荒荒あれれれはてはてはてててて、、、天天てん狗狗ぐのののすみかすみかすみかとととなりなりなり果果はてててぬぬぬ。。。
- 12さればにやさればにやさればにや、、、さしもさしもさしもやんごとなかりやんごとなかりやんごとなかりつるつるつる天天てん台台だいののの佛佛ぶつ法法ぽうももも、、、治治じ承承しょうののの今今いまににに及及およんんんででで亡亡ほろびびびはてはてはてぬるぬるぬるにににややや。。。心心こころあるあるある人人ひとののの歎歎なげききき悲悲かなしましましまぬぬぬはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。何何なに者者もののののしわざしわざしわざにににてててやややありありありけんけんけん、、、離離り山山さんしししけるけるける僧僧そうののの坊坊ぼうののの柱柱はしらににに、、、一一いっ首首しゅののの歌歌うたをををぞぞぞ書書かきききつけつけつけたるたるたる。。。
- 13祈祈いのりりりこしこしこしわがわがわがたつたつたつのののひきひきひきかへかへかえててて人人ひとなきなきなき峯峯みねととと荒荒あれれれやややはてはてはてなななむむん
- 14これこれこれははは昔昔むかし傳傳でん教教ぎょう大大だい師師し當當とう山山ざん草草そう創創そうのののはじめはじめはじめ、、、阿阿あ耨耨のく多多た羅羅ら三三さん藐藐みやく三三さん菩菩ぼ提提だいののの佛佛ほとけたちたちたちににに祈祈いのりりり申申もうさささせせせ給給たまひひいししし事事ことををを、、、今今いま思思おもひひい出出いでででててて詠詠よみみみたりたりたりけるけるけるにににややや。。。いといといとやさしうやさしうやさしゅうぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。八八よう日日かははは藥藥やく師師しののの日日ひなれなれなれどどど、、、南南な無無むととと唱唱となふるふるうる聲聲こえもももせせせずずず。。。卯卯う月月づきははは垂垂すい跡跡じゃくののの月月つきなれなれなれどもどもども、、、幣幣へい帛帛はくををを捧捧ささぐるぐるぐる人人ひともももなくなくなく、、、あけあけあけののの玉玉たま垣垣がき神神かみさびさびさびててて、、、しめしめしめ繩繩なわのののみみみややや殘殘のこるるるならならならんんん。。。
現代語訳
そうしているうちに法皇は、三井寺の公顕僧正を師として、真言の秘法を伝授されておられた。大日経・金剛頂経・蘇悉地経の三部の秘経をお受けになって、九月四日に三井寺で灌頂をお受けになるということであった。延暦寺の衆徒が憤って申すには、「昔から御灌頂や御受戒は、みなこの山でお遂げになるのが先例である。とりわけ山王が衆生を導かれるのは、受戒と灌頂のためである。それなのに今三井寺でお遂げになるなら、寺をすっかり焼き払ってしまおう」と申した。
法皇は「これは無益だ」といって、前行の修法だけで結願なさって、灌頂は思いとどまられた。けれどもかねてからのお望みであったので、公顕僧正を連れて天王寺へお出ましになり、五智光院を建て、亀井の水を五瓶の智水と定めて、仏法最初の霊地で伝法灌頂をお遂げになった。
延暦寺の騒動を鎮めるために、三井寺での灌頂はなかったけれども、延暦寺では堂衆と学匠との間に不和が生じて、合戦がたびたびに及んだ。そのたびに学侶が打ち負かされた。延暦寺の滅亡、朝廷の大事と思われた。
堂衆というのは、学匠の従者であった童が法師になった者や、あるいは中間法師たちであったのだろう。先年、金剛寿院の座主覚尋権僧正が比叡山を治めていたときに、三塔に当番を組んで夏衆と称して仏に花を供えていた者たちである。それが近年は行人と称して、衆徒をも何とも思わず、このようにたびたびの戦いに勝ったのである。
堂衆たちは師主の命にそむいて、すでに謀反を企てた。すみやかに討伐されるべきであると、衆徒は朝廷に奏上し、武家に訴えた。そこで入道相国は院宣を受けて、紀伊国の住人湯浅権守宗重以下、畿内の兵二千余人を衆徒に加えて、堂衆を攻めさせた。
堂衆はふだんは東陽坊にいたが、これを聞いて近江国の三箇の荘に下り、大勢の兵を率いてまた登山し、早尾坂に城郭を構えて立てこもった。同じ月の九月二十日の辰の一点(午前七時ごろ)に、衆徒三千人、官軍二千余人、合わせて五千余人が早尾坂に押し寄せて、鬨の声をどっとあげた。城の中から石弓を外して落としかけたので、衆徒も官軍も数えきれないほど討たれた。
衆徒は官軍を先に立てようとし、官軍はまた衆徒を先に立てようと争ううちに、てんでばらばらになって、まともに戦わない。堂衆に味方した悪党というのは、諸国の窃盗・強盗・山賊・海賊たちである。欲心が盛んで、死ぬも生きるもかまわない者どもであったので、自分一人でもと思い切って戦ったので、今度もまた学匠が戦に負けてしまった。
その後は延暦寺はいよいよ荒れ果てて、十二禅衆のほかは、住む僧侶はまれである。谷々の講義は絶え、堂塔の行法も廃れた。修学の窓は閉じられ、坐禅の床は空になった。四教五時の教えの春の花もにおわず、三諦即是の真理の秋の月も曇ってしまった。三百余年の法灯をかかげる人もなく、昼夜六時に絶えなかった香の煙も絶えてしまったのだろうか。
かつては堂舎が高くそびえて、三重の構えを青空の中に差しはさみ、棟木ははるかに抜きん出て、四方の垂木を白い霧の中にかけていた。けれども今は、仏への供えを峰の嵐にまかせ、金色の仏像を雨漏りに濡らし、夜の月が灯火をかかげて軒の隙間から漏れ入り、明け方の露が玉を垂れて、蓮台の飾りを添えているという。
そもそも末代の世になってからは、三国の仏法もしだいに衰えた。遠く天竺に仏の跡を訪ねると、昔、仏が法を説かれた竹林精舎や給孤独園も、このごろは虎や狼や狐のすみかとなって、礎石だけが残っているのだろう。白鷺池には水が絶えて、草ばかりが深く茂っている。退凡・下乗の卒塔婆も苔むして傾いてしまった。
中国でも、天台山・五台山・白馬寺・玉泉寺も、今は住む僧もいないように荒れ果てて、大乗・小乗の経典も箱の底で朽ちてしまっているのだろう。わが国でも、南都の七大寺は荒れ果てて、八宗も九宗も跡が絶え、愛宕や高雄も昔は堂塔が軒を並べていたけれども、一夜のうちに荒れ果てて天狗のすみかとなってしまった。
だからであろうか、あれほど尊かった天台の仏法も、治承の今に及んで滅び果ててしまったのだろうか。心ある人で嘆き悲しまない者はなかった。だれのしわざであったのだろうか、山を去る僧の坊の柱に、一首の歌が書きつけてあった。
伝教大師が祈ってこられたわが立つ杣(比叡山)は、昔とはうって変わって、人のいない峰と荒れ果ててしまうのだろうか。
これは昔、伝教大師がこの山を開いた初めに、「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち、わが立つ杣に冥加あらせたまへ」と祈られたことを、今思い出して詠んだのであろうか。たいそう優雅に聞こえた。八日は薬師の縁日であるが、南無と唱える声もしない。四月は日吉の神が垂迹された月であるが、幣帛を捧げる人もなく、朱塗りの玉垣は古びて、しめ縄だけが残っているのだろう。
意訳
延暦寺の内紛を描く章段である。後白河法皇が三井寺で灌頂を受けようとして延暦寺の反対にあう一件に続いて、延暦寺の中で、学問を担う学匠(学侶)と、雑役を担う堂衆との争いが起こる。清盛は院宣を受けて学匠方に兵を送るが、諸国の悪党を集めた堂衆に敗れ、比叡山は荒廃する。
後半は、比叡山の荒廃を、天竺・震旦の仏跡の衰えと重ねて、対句を連ねた美文で嘆く。「四教五時の春の花もにほはず、三諦即是の秋の月も曇れり」といった表現は、天台の教えを自然の景物にたとえて、その衰えを哀切に描いている。結びの「祈りこしわがたつ杣の」の歌は、最澄が比叡山を開いたときの「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち、わが立つ杣に冥加あらせたまへ」の歌を踏まえたもので、王法とともに仏法も衰えていく末世の嘆きが、巻第二の後半の基調となっている。
語釈・文法注
- 灌頂
- 密教で、仏の位を継ぐ者として頭頂に水を灌ぐ儀式。秘法を受け継ぐしるしとされた。
- 堂衆
- 寺院で雑役や堂の管理にあたった下級の僧。学問をつかさどる学侶(学匠)と対立した。
- 四教五時
- 天台宗の教えの分類。釈迦の説法を説かれた時期によって五つ(五時)に、内容によって四つ(四教)に分ける。
- わがたつ杣
- 最澄が比叡山を開いたときに詠んだ「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ」による言葉で、比叡山をさす。
文法
- 「寺を一向燒き拂ふべし」
- 「一向」は、すっかり、ことごとく、の意。三井寺をすっかり焼き払ってしまおう、と衆徒が威嚇する言葉。
- 「心々になつて」
- それぞれ勝手な心になって、まとまりを欠いて、の意。
- 「金容を紅瀝に濕し」
- 「金容」は金色の仏像、「紅瀝」は雨漏り。仏像が雨に濡れているさまをいう。
- 「卯月は垂跡の月なれども」
- 日吉の神が垂迹した(この地に現れた)のが四月であるとされ、四月に日吉祭が行われた。
和歌
祈りこしわがたつ杣のひきかへて人なき峯と荒れやはてなむ
- 詠者
- 詠み人知らず
- 状況
- 堂衆と学匠の争いで荒れ果てた比叡山を去る僧の坊の柱に、何者かが書きつけた歌。
修辞
- 本歌取り
- 最澄の「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ」を本歌とし、最澄が加護を祈った比叡山が荒れ果ててしまうことを嘆く。
解説
延暦寺の学侶と堂衆の対立は、治承二年(1178)から翌年にかけて激化し、朝廷は平家に命じて堂衆を攻めさせたが、官軍は敗れた。こうした寺院内部の争いは、寺院が武装し、荘園をめぐって争うようになった院政期の寺院社会の姿をよく示している。
物語はこの章段で比叡山の荒廃を嘆き、次の「善光寺炎上の事」でも「王法尽きんとては、仏法まづ亡ず」と述べて、仏法の衰えを王法の衰え、さらには平家の滅亡の前兆として位置づけている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、346–349頁(コマ202–203)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日