平家物語 巻第二
徳大寺厳島詣での事
宗盛に大将の位を越えられて籠居していた徳大寺実定は、出家を思い立つが、家人の藤蔵人重兼の勧めで、平家の崇める安芸の厳島に参詣する。帰りに内侍たちを都まで連れ帰ると、内侍たちは西八条の清盛にそのことを告げ、喜んだ清盛は重盛に左大将を辞させて実定をその後に任じた。
- 1こゝこゝここににに德德とく大大だい寺寺じののの大大だい納納な言言ごん實實じっ定定ていののの卿卿きょうははは、、、平平へい家家けののの次次じ男男なん宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうににに大大たい將將しょうををを越越こえええられられられててて、、、しばらくしばらくしばらく世世よのののならならならんんんやうやうようををを見見みんんんとてとてとて、、、大大だい納納な言言ごんををを辭辭じしししててて籠籠ろう居居きょしししててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、出出しゅっ家家けせせせんんんととと宣宣のたまへへえばばば、、、御御み内内うちののの上上じょう下下げ、、、みなみなみな歎歎なげききき悲悲かなしびしびしびあへあへあえりりりけりけりけり。。。そのそのその中中なかににに藤藤とう藏藏くら人人うどののの大大たい夫夫ふ重重しげ兼兼かねととといふいふいう諸諸しょ大大だい夫夫ぶありありあり。。。諸諸しょ事事じににに心心こころ得得えたるたるたる人人ひとにににてててありありありけるけるけるががが、、、あるあるある月月つきののの夜夜よ、、、德德とく大大だい寺寺じ殿殿どのたゞたゞただ一一ひと人人り、、、南南なん面面めんののの御御み格格こう子子しあげあげあげさせさせさせ、、、月月つきににに嘯嘯うそぶいいいててておはしおはしおわしけるけるける所所ところへへへ、、、藤藤とう藏藏くら人人うど參參まいりりりたりたりたり。。。「「「誰誰たそそそ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「重重しげ兼兼かね候候そうろう。。。」」」「「「夜夜よははは遙遙はるかかかににに更更ふけけけぬぬぬらんらんらんににに、、、いかにいかにいかに只只ただ今今いま何何なに事事ごとぞぞぞ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「今今こ夜夜よいははは月月つきさえさえさえ、、、よろづよろづよろず心心こころののの澄澄すむむむまゝまゝままににに參參まいつつっててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。德德とく大大だい寺寺じ殿殿どの、、、「「「神神しん妙妙びょうにににももも參參まいりりりたりたりたり。。。まことまことまことににに今今こ宵宵よいははは、、、何何なにとととやらやらやらんんん心心こころほそうほそうほそうててて、、、世世よににに徒徒と然然ぜんなるなるなるににに。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 2さてさてさて昔昔むかし今今いまののの物物もの語語がたりどもどもどもししし給給たまひひいててて後後のち、、、大大だい納納な言言ごんのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「つら〳〵つら〳〵つらつら平平へい家家けののの繁繁はん昌昌じょうするするする有有あり樣樣さまををを見見みるるるににに、、、嫡嫡ちゃく子子し重重しげ盛盛もり、、、次次じ男男なん宗宗むね盛盛もり、、、左左さ右右ゆうののの大大たい將將しょうなりなりなり。。。やがてやがてやがて三三さん男男なん知知とも盛盛もり、、、嫡嫡ちゃく孫孫そん維維これ盛盛もりもももあるあるあるぞぞぞかしかしかし。。。かれかれかれもももこれこれこれももも次次し第第だいにににならならならばばば、、、他他た家家けののの人人ひと々々びとはははいついついつ大大たい將將しょうににに當當あたりりりつくつくつくべしべしべしとととももも覺覺おぼえええずずず。。。さればさればさればつひつひついののの事事ことなりなりなり、、、出出しゅっ家家けせせせんんん。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 3藤藤とう藏藏くら人人うど涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「君君きみののの御御ご出出しゅっ家家け候候そうらははわばばば、、、御御み内内うちののの上上じょう下下げ、、、みなみなみなまどひまどひまどいものものものとととなりなりなり候候そうらひひいなななんんんずずず。。。重重しげ兼兼かねこそこそこそこのこのこの頃頃ごろめづらしきめづらしきめずらしき事事ことををを案案あんじじじ出出いだしししててて候候そうらへへえ。。。たとへばたとへばたとえば安安あ藝藝きののの嚴嚴いつく島島しまをををばばば、、、平平へい家家けなのめなのめなのめならならならずずず崇崇あがめめめ敬敬うやまははわれれれ候候そうろう。。。これこれこれへへへ御御おん參參まいりりり候候そうらへへえかしかしかし。。。かのかのかの社社やしろにににははは内内ない侍侍しとてとてとて、、、優優ゆうなるなるなる舞舞まい姫姫ひめあまたあまたあまた候候そうろうなれなれなればばば、、、めづらしくめづらしくめずらしく思思おもひひいまゐらせまゐらせまいらせててて、、、もてなしもてなしもてなし參參まいらせらせらせ候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。何何なに事事ごとののの御御ご祈祈き請請せいやらやらやらんんんととと尋尋たずねねね申申もうししし候候そうらははわばばば、、、ありのありのありの儘儘ままににに仰仰おおせせせ候候そうろうべしべしべし。。。さてさてさて御御ご下下げ向向こうののの時時とき、、、むねむねむねとととののの内内ない侍侍し一一いち兩兩りょう人人にん、、、都都みやこまでまでまで召召めししし具具ぐせせせさせさせさせ給給たまひひいててて候候そうらははわばばば、、、定定さだめめめててて西西にし八八はち條條じょうののの邸邸ていへへへぞぞぞ參參まいりりり候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。入入にゅう道道どう何何なに事事ごとぞぞぞととと尋尋たずねねね申申もうささされれれ候候そうらははわばばば、、、ありのまゝありのまゝありのままにににぞぞぞ申申もうししし候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。入入にゅう道道どう極極きわめめめてててものものものめでめでめでししし給給たまふふう人人ひとなれなれなればばば、、、しかるしかるしかるべきべきべきはからひはからひはからいもももありありありぬぬぬととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、德德とく大大だい寺寺じ殿殿どの、、、「「「これこれこれこそこそこそ思思おもひひい寄寄よらららざりざりざりつれつれつれ。。。さらばさらばさらばやがてやがてやがて參參まいらららんんん。。。」」」とてとてとて俄俄にはかににに精精しょう進進じんはじめはじめはじめつゝつゝつつ、、、嚴嚴いつく島島しまへへへぞぞぞ參參まいららられれれけるけるける。。。げにげにげにももも優優ゆうなるなるなる舞舞まい姫姫ひめどもどもども多多おおかりかりかりけりけりけり。。。
- 4「「「抑抑そもそも當當とう社社しゃへへへははは、、、われらわれらわれらががが主主しゅうののの平平へい家家けののの公公きん達達だちたちたちたちこそこそこそ御御おんまゐりまゐりまいり候候そうろうににに、、、これこれこれこそこそこそめづらしきめづらしきめずらしき御御おん參參まいりりりにににててて候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、むねむねむねとととののの内内ない侍侍し十十じゅう餘餘よ人人にん、、、夜夜よる晝晝ひるつきつきつき添添そひひい參參まいらせらせらせててて、、、やう〳〵やう〳〵ようようにににもてなしもてなしもてなし奉奉たてまつるるる。。。さてさてさて内内ない侍侍しどもどもども、、、「「「何何なに事事ごとののの御御ご祈祈き請請せいやらやらやらんんん。。。」」」ととと尋尋たずねねね候候そうらへへえばばば、、、「「「大大たい將將しょうををを人人ひとににに越越こえええられられられててて、、、そのそのその祈祈いのりりりののの爲爲ためなりなりなり。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。一一いち七七しち日日にち御御ご參參さん籠籠ろうあつあつあっててて、、、神神かぐ樂樂らををを奏奏そうししし、、、風風ふう俗俗ぞく、、、催催さい馬馬ば樂樂らうたはうたはうたわるるる。。。そのそのその間間あいだににに舞舞ぶ樂樂がくももも三三さん箇箇か度度どまでまでまでありありありけりけりけり。。。
- 5さてさてさて御御ご下下げ向向こうののの時時とき、、、むねむねむねとととののの内内ない侍侍し十十じゅう餘餘よ人人にん船船ふねおしおしおしたてたてたてててて、、、一一ひと日日ひ路路じ送送おくりりり奉奉たてまつるるる。。。德德とく大大だい寺寺じ殿殿どの、、、「「「餘餘あまりりりににに名名な殘殘ごり惜惜おしきしきしきににに、、、今今いま一一ひと日日ひ路路じ、、、今今いま二二ふた日日ひ路路じ。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいててて、、、都都みやこまでまでまで召召めししし具具ぐさせさせさせたまひたまひたまい、、、德德とく大大だい寺寺じののの邸邸ていへへへ入入いれれれさせさせさせおはしましおはしましおわしまし、、、やう〳〵やう〳〵ようようにににもてなしもてなしもてなし、、、さま〴〵さま〴〵さまざまののの引引ひき出出で物物ものたうでたうでとうで歸歸かえささされれれけりけりけり。。。
- 6内内ない侍侍しどもどもども、、、「「「はる〴〵はる〴〵はるばるこれこれこれまでまでまで上上のぼりりりたらたらたらんんんずるずるずるににに、、、いかでいかでいかでかかかわれらわれらわれらががが主主しゅうののの平平へい家家けへへへ參參まいらららででであるあるあるべきべきべき。。。」」」とてとてとて、、、西西にし八八はち條條じょう殿殿どのへへへぞぞぞ參參さんじじじたるたるたる。。。入入にゅう道道どうやがてやがてやがて出出いででであひあひあい、、、對對たい面面めんししし給給たまひひいててて、、、「「「いかにいかにいかに内内ない侍侍しどもどもどもははは、、、たゞたゞただ今今いま何何なに事事ごとののの列列れっ參參さんぞぞぞややや。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「德德とく大大だい寺寺じ殿殿どのののの嚴嚴いつく島島しまへへへ御御おん參參まいりりり候候そうろうほどほどほどににに、、、われらわれらわれらががが船船ふねをををしししたてたてたてててて、、、一一ひと日日ひ路路じ送送おくりりり參參まいらせらせらせててて、、、それそれそれよりよりより暇暇いとま申申もうしししけれけれければばば、、、德德とく大大だい寺寺じ殿殿どのさりとてさりとてさりとてははは名名な殘殘ごり惜惜おしきしきしきににに、、、今今いま一一ひと日日ひ路路じ、、、今今いま二二ふた日日ひ路路じととと仰仰おおせせせられられられててて、、、これこれこれまでまでまで召召めししし具具ぐせせせられられられててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。入入にゅう道道どう、、、「「「德德とく大大だい寺寺じははは何何なに事事ごとののの祈祈き請請せいににに、、、嚴嚴いつく島島しまへへへははは參參まいららられれれけるけるけるやらやらやらんんん。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「大大たい將將しょうををを人人ひとににに越越こえええられられられててて、、、そのそのその祈祈いのりりりののの爲爲ためとととこそこそこそ仰仰おおせせせ侍侍はべりりりつれつれつれ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、
- 7そのそのその時時とき入入にゅう道道どう大大おおきききにににうちうちうちうなづいうなづいうなずいててて、、、「「「王王おう城城じょうにににさしもさしもさしもあらたあらたあらたなるなるなる靈靈れい佛佛ぶつ、、、靈靈れい社社しゃのののいくらいくらいくらもももましますましますましますをををさしさしさしおいおいおいててて、、、淨淨じょう海海かいががが崇崇あがめめめ奉奉たてまつるるる嚴嚴いつく島島しまへへへ、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと參參まいららられれれけるけるけるこそこそこそいとほしけれいとほしけれいとおしけれ。。。それそれそれ程程ほどまでまでまで切切せつならならならんんん上上うえははは。。。」」」とてとてとて、、、嫡嫡ちゃく子子し重重しげ盛盛もり内内ない大大だい臣臣じんののの左左さ大大だい將將しょうにににててておはしおはしおわしけるけるけるををを、、、辭辭じせせせさせさせさせ奉奉たてまつりりり、、、次次じ男男なん宗宗むね盛盛もり大大だい納納な言言ごんののの右右う大大だい將將しょうにににててておはしおはしおわしけるけるけるををを越越こえええさせさせさせててて、、、德德とく大大だい寺寺じ殿殿どのををを左左さ大大だい將將しょうにににぞぞぞなさなさなされれれけるけるける。。。あはれあはれあわれかしこきかしこきかしこきはからひはからひはからいかなかなかな。。。新新しん大大だい納納な言言ごんもももかやうかやうかようののの謀謀はかりごとをををばばばししし給給たまははわででで、、、よしなきよしなきよしなき謀謀む叛叛ほん起起おこしししててて、、、わがわがわが身身みももも子子し孫孫そんももも、、、亡亡ほろびびびぬるぬるぬるこそこそこそうたてけれうたてけれうたてけれ。。。
現代語訳
ここに徳大寺の大納言実定卿は、平家の次男宗盛卿に大将の位を越えられて、しばらく世の成り行きを見ようと、大納言を辞して引きこもっておられたが、出家しようとおっしゃったので、邸の上下の者はみな嘆き悲しみ合った。その中に藤蔵人大夫重兼という諸大夫がいた。万事に心得のある人であったが、ある月の夜、徳大寺殿がただ一人、南面の格子を上げさせて、月に詩を口ずさんでおられたところへ、藤蔵人が参った。「だれだ」とお尋ねになると、「重兼でございます」。「夜もずいぶん更けたであろうに、どうして今ごろ、何事だ」とおっしゃると、「今夜は月がさえて、万事心が澄みますので、参りました」と申す。徳大寺殿は「よく参った。まことに今夜は何となく心細くて、まったく退屈なところだ」とおっしゃった。
さて昔や今の話などなさった後、大納言がおっしゃるには、「よくよく平家の繁栄する有様を見ると、嫡子重盛、次男宗盛が左右の大将である。そのうえ三男知盛や嫡孫維盛もいる。あの人もこの人も順に大将になったら、他家の人々はいつ大将になれるとも思われない。だから結局は同じことだ、出家しよう」とおっしゃった。
藤蔵人は涙をはらはらと流して、「君がご出家なさったら、邸の上下の者はみな路頭に迷うことになりましょう。重兼はこのごろ珍しいことを考え出しました。たとえば安芸の厳島を、平家はひとかたならず崇敬しております。そこへご参詣なさいませ。あの社には内侍といって優雅な舞姫が大勢おりますので、珍しく思い申して、おもてなし申し上げるでしょう。何の御祈願かと尋ねましたら、ありのままにおっしゃいませ。そしてお帰りのときに、主だった内侍を一、二人都までお連れになったら、きっと西八条の邸へ参るでしょう。入道が何事かと尋ねましたら、ありのままに申すでしょう。入道はたいそう物に感じやすい人ですから、しかるべきはからいもあるかと思われます」と申したので、徳大寺殿は「これは思いも寄らなかった。それならすぐに参ろう」といって、にわかに精進を始めて厳島へ参られた。なるほど優雅な舞姫たちが大勢いた。
「そもそもこの社へは、私どもの主の平家の公達こそお参りになりますが、これは珍しいお参りでございます」といって、主だった内侍十余人が夜昼付き添い申し上げて、いろいろとおもてなし申した。さて内侍たちが「何の御祈願でしょう」と尋ねましたところ、「大将の位を人に越えられて、その祈りのためだ」とおっしゃった。七日間おこもりになって、神楽を奏し、風俗歌や催馬楽を歌われた。その間に舞楽も三度まであった。
さてお帰りのとき、主だった内侍十余人が船を仕立てて、一日の道のりをお送り申した。徳大寺殿は「あまりに名残惜しいので、もう一日、もう二日」とおっしゃって、都までお連れになり、徳大寺の邸へお入れになって、いろいろともてなし、さまざまな引出物を与えてお帰しになった。
内侍たちは「はるばるここまで上ってきたのに、どうして私どもの主の平家へ参らずにいられよう」といって、西八条殿へ参上した。入道はすぐに出てきて対面なさり、「どうした内侍たち、今そろって何事だ」とおっしゃると、「徳大寺殿が厳島へお参りになりましたので、私どもが船を仕立てて一日の道のりをお送り申し、そこでお暇を申しましたところ、徳大寺殿が、それでは名残惜しいので、もう一日、もう二日とおっしゃって、ここまでお連れになったのです」と申す。入道は「徳大寺は何の祈願で厳島へ参られたのか」とお尋ねになると、「大将の位を人に越えられて、その祈りのためとおっしゃっておりました」と申したので、
そのとき入道は大きくうなずいて、「都にあれほど霊験あらたかな仏や社がいくらでもおありになるのをさしおいて、浄海の崇め申す厳島へはるばる参られたのは、いとしいことだ。それほどまでに切に願っているのなら」といって、嫡子重盛が内大臣で左大将でいらっしゃったのを辞めさせ申し、次男宗盛が大納言で右大将でいらっしゃったのを越えさせて、徳大寺殿を左大将になさった。ああ、賢いはからいであることよ。新大納言(成親)もこのような計略をなさればよかったのに、つまらない謀反を起こして、わが身も子孫も滅んでしまったのは情けないことである。
意訳
鹿ケ谷事件の発端となった大将人事の、もう一つの結末を描く章段である。宗盛に大将の位を越えられた徳大寺実定は、謀反を起こした成親とは対照的に、家人重兼の知恵を借りて、清盛の崇める厳島に参詣するという方法で清盛の心をつかもうとする。
内侍たちを都まで連れ帰り、清盛のもとへ報告に行かせるという計略は見事に当たり、喜んだ清盛は重盛に左大将を辞めさせて実定をその後任とする。物語は「あはれかしこきはからひかな」と実定の才覚をほめ、成親も同じような手段をとればよかったのにと結ぶ。武力に訴えるより、権力者の自尊心をくすぐるほうが功を奏するという、宮廷社会の処世術が皮肉をこめて描かれている。
語釈・文法注
文法
- 「月に嘯いて」
- 「嘯く」は、詩歌を口ずさむ、の意。
- 「されば、つひの事なり」
- 結局は同じことだ、遅かれ早かれ出家することになるのだ、の意。
- 「ものめでし給ふ人」
- 「ものめで」は、物事に感じ入りやすいこと。
- 「それ程まで切ならん上は」
- それほどまで切実に願っているのなら、の意で、後に「その望みをかなえてやろう」といった言葉が省略されている。
解説
徳大寺実定(1139〜1192)は、徳大寺公能の子で、「二代の后」藤原多子の兄にあたる。歌人としても知られ、「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」の歌が『百人一首』に選ばれている。実定が左大将になったのは治承元年(1177)十二月のことで、物語の語るように厳島参詣の効果であったかどうかは確かでないが、清盛の厳島信仰が平家と結ぼうとする人々に利用されていたことはうかがえる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、343–346頁(コマ200–202)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日