平家物語 巻第二
新大納言の死去の事
俊寛・成経・康頼の三人は、人も稀で火山の煙る薩摩潟の鬼界が島へ流される。成親は子の配流を聞いて出家する。北山に忍ぶ北の方は、忠臣信俊に手紙を託して有木の別所へ届けさせ、成親は信俊との別れを惜しむ。八月十九日、成親は崖下の菱の上に突き落とされて殺され、北の方も尼となって夫の後世を弔った。
- 1さるさるさるほどほどほどににに法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの執執しゅ行行ぎょう俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ず、、、丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょう成成なり經經つね、、、平平へい判判ほう官官がん康康やす賴賴より、、、このこのこの三三さん人人にんをををばばば薩薩さつ摩摩ま潟潟がた鬼鬼き界界かいがががへへへぞぞぞ流流ながささされれれけるけるける。。。かのかのかの島島しまへへへははは都都みやこををを出出いでででててて、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと多多おおくくくののの波波なみ路路じををを凌凌しのいいいででで行行ゆくくく所所ところなりなりなり。。。おぼろげおぼろげおぼろげにににてててははは船船ふねももも通通かよははわずずず、、、島島しまにににははは人人ひと稀稀まれなりなりなりけりけりけり。。。
- 2おのづからおのづからおのずから人人ひとはははあれあれあれどもどもども、、、衣衣い裳裳しょうなけれなけれなければばば、、、このこのこの土土どののの人人ひとにににももも似似にずずず、、、いふいふいう言言こと葉葉ばをををももも聞聞きききき知知しらららずずず。。。身身みにににははは頻頻しきりりりににに毛毛け生生おひひいつゝつゝつつ、、、色色いろ黑黑くろうううしてしてして牛牛うしののの如如ごとししし。。。男男おとこははは烏烏え帽帽ぼ子子しをををももも著著きずずず、、、女女おんなははは髪髪かみもももさげさげさげざりざりざりけりけりけり。。。食食しょくするするする物物ものもももなけれなけれなければばば、、、常常つねにににたゞたゞただ殺殺せっ生生しょうをををのみのみのみ先先さきとととすすす。。。しづしづしずががが山山やま田田だをををかへさかへさかえさねねねばばば、、、米米べい穀穀こくののの類類るいもももなくなくなく、、、園園そのののの桑桑くわををを取取とらららざれざれざればばば、、、絹絹けん帛帛ばくののの類類たぐいもももなかりなかりなかりけりけりけり。。。
- 3島島しまののの中中なかにににははは高高たかききき山山やまありありあり。。。とこしなへとこしなへとこしなえににに火火ひ燃燃もえええ、、、硫硫い黄黄おうととといふいふいうものものもの充充みちちち滿滿みてててりりり。。。かるがかるがかるが故故ゆえにににこそこそこそ硫硫い黄黄おうががが島島しまとととははは名名なづけづけづけたれたれたれ。。。雷雷いかずち常常つねににに鳴鳴なりりり上上あがりりり鳴鳴なりりり下下くだりりり、、、麓麓ふもとにににははは雨雨あめしげししげししげし。。。一一いち日日にち片片へん時時じ人人ひとののの命命いのちののの、、、絶絶たえええてててあるあるあるべきべきべきやうやうようもももなしなしなし。。。
- 4新新しん大大だい納納な言言ごんははは少少すこしししくつろぐくつろぐくつろぐ事事こともももやややととと思思おもははわれれれけるけるけるががが、、、子子し息息そく丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょう成成なり經經つね以以い下下げ三三さん人人にん、、、薩薩さつ摩摩ま潟潟がた鬼鬼き界界かいががが島島しまへへへ流流ながささされれれぬぬぬととと聞聞ききききててて、、、今今いまははは何何なにをををかかか期期ごすすすべきべきべきとてとてとて、、、出出しゅっ家家けののの志志こころざしののの候候そうろう由由よしををを、、、便便たよりりりにににつけつけつけててて小小こ松松まつ殿殿どのへへへ申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうへへへ伺伺うかがひひい申申もうしししててて御御ご免免めんありありありけりけりけり。。。榮榮えい華華がののの袂袂たもとををを引引ひきききかへかへかえててて、、、うきうきうき世世よをををよそよそよそににに墨墨すみ染染ぞめののの、、、袖袖そでにににぞぞぞやつれやつれやつれ給給たまひひいけるけるける。。。
- 5さるさるさる程程ほどににに大大だい納納な言言ごんののの北北きたののの方方かたははは、、、都都みやこののの北北きた山山やま雲雲うん林林りん院院いんののの邊邊へんににに忍忍しのびびびててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、さらぬさらぬさらぬだにだにだに住住すみみみ馴馴なれれれぬぬぬ所所ところはははものものものうきうきうきににに、、、いとゞいとゞいとど忍忍しのばばばれれれけれけれければばば、、、過過すぎぎぎゆくゆくゆく月月つき日日ひをををあかしあかしあかしかねかねかね、、、暮暮くらしししわづらふわづらふわずらう樣樣さまなりなりなりけりけりけり。。。宿宿しゅく所所しょにににははは女女にょう房房ぼう、、、侍侍さぶらい多多おおかりかりかりけれけれけれどもどもども、、、或或あるいははは世世よををを恐恐おそれれれ、、、或或あるいははは人人ひと目目めをををつゝむつゝむつつむほどほどほどににに、、、問問とひひいとぶらふとぶらふとぶらう者者もの一一いち人人にんもももなしなしなし。。。されどもされどもされどもそのそのその中中なかににに、、、源源げん左左さ衞衞え門門もんののの尉尉じょう信信のぶ俊俊としととといふいふいう侍侍さぶらい一一ひと人人り、、、なさけなさけなさけあるあるある者者ものにににててて、、、常常つねにににとぶらひとぶらひとぶらい奉奉たてまつるるる。。。
- 6あるあるある時時とき北北きたののの方方かた、、、信信のぶ俊俊としををを召召めしししててて、、、「「「まことまことまことやややこれこれこれにににははは、、、備備び前前ぜんののの兒兒こ島島じまにににおはしおはしおわしけるけるけるががが、、、このこのこの程程ほど聞聞きけけけばばば、、、有有あり木木きののの別別べっ所所しょとととかやかやかやにににおはすおはすおわすなりなりなり。。。あはれあはれあわれいかにいかにいかにもももしてしてして、、、はかなきはかなきはかなき筆筆ふでのののあとあとあとをををももも奉奉たてまつりりり、、、御御おん返返へん事事じをををももも今今いま一一いち度度ど見見みばやばやばやととと思思おもふふうははは如如い何何かににに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、信信のぶ俊俊とし涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「われわれわれ幼幼よう少少しょうののの時時ときよりよりより、、、御御おんあはれみあはれみあわれみををを蒙蒙こうぶつつっててて、、、召召めし使使つかははわれれれ、、、片片かた時時ときももも離離はなれれれまゐらせまゐらせまいらせ候候そうらははわずずず。。。召召めささされれれ參參まいらせらせらせししし御御おん聲聲こえののの耳耳みみにににとまりとまりとまり、、、諫諫いさめめめられられられまゐらせまゐらせまいらせししし御御おんことばことばことばののの肝肝きもににに銘銘めいじじじててて、、、忘忘わするゝるゝるる事事ことももも候候そうらははわずずず。。。西西さい國國こくへへへ御御おん下下くだりりり候候そうらひひいししし時時ときももも、、、御御おん供供とも仕仕つかまつるるるべうべうびょう候候そうらひひいしかしかしかどもどもども、、、六六ろく波波は羅羅らよりよりより許許ゆるささされれれなけれなけれなければばば、、、力力ちから及及およびびび候候そうらははわずずず。。。たとひたとひたとい今今こん度度どはははいかなるいかなるいかなる憂憂うききき目目めにににもももあひあひあい候候そうらへへえ、、、御御おん文文ふみ賜賜たまはつはつわっててて參參まいりりり候候そうらははわんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、
- 7北北きたののの方方かたなのめなのめなのめならならならずずずににに喜喜よろこびびび、、、やがてやがてやがて書書かいいいてててぞぞぞたうたうとうでででけるけるける。。。若若わか君君ぎみ、、、姫姫ひめ君君ぎみももも面面めん々々めん御御おん文文ふみありありあり。。。信信のぶ俊俊としこのこのこの御御おん文文ふみどもどもどもををを賜賜たまはつはつわっててて、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと備備び前前ぜんののの國國くに有有あり木木きののの別別べっ所所しょへへへ尋尋たずねねね下下くだりりり、、、あづかりあづかりあずかりののの武武ぶ士士し難難なん波波ばののの次次じ郎郎ろう經經つね遠遠とおににに、、、案案あん内内ないをををいひいひいい入入いれれれたりたりたりけれけれければばば、、、經經つね遠遠とお志志こころざしのののほどほどほどををを感感かんじじじててて、、、やがてやがてやがて御御ご見見げん參參ざんににに入入いれれれてててけりけりけり。。。
- 8大大だい納納な言言ごん入入にゅう道道どう殿殿どのはははたゞたゞただ今今いましもしもしも、、、都都みやこののの事事ことをををのみのみのみ宣宣のたまひひい出出いだしししててて、、、歎歎なげききき沉沉しずんんんでででおはしおはしおわしけるけるける所所ところににに、、、「「「京京きょうよりよりより信信のぶ俊俊としがががまゐつまゐつまいっててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、大大だい納納な言言ごん起起おききき上上あがつつっててて、、、「「「いかにいかにいかにやややいかにいかにいかに、、、夢夢ゆめかかかやうやうようつゝつゝつつかかか、、、これこれこれへ〳〵へ〳〵へこれへ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。信信のぶ俊俊とし御御おん側側そば近近ちこうううまゐつまゐつまいっててて、、、御御おん有有あり樣樣さまををを見見み奉奉たてまつるるるににに、、、まづまづまず御御おん住住すま居居ひ所所どころのののものものものうさうさうさはははさるさるさる事事ことなりなりなり、、、墨墨すみ染染ぞめののの御御おん袖袖そでををを見見み奉奉たてまつるるるににに、、、目目めもももくれくれくれ、、、心心こころももも消消きえええはてはてはてててて、、、涙涙なみだももも更更さらににに止止とまらまらまらずずず。。。
- 9やゝやゝややあつあつあっててて涙涙なみだををを抑抑おさへへえててて、、、北北きたののの方方かたののの仰仰おおせせせ蒙蒙こうぶつつっししし次次し第第だい、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと語語かたりりり申申もうししし、、、そのそのその後後のち御御おん文文ふみ取取とりりり出出いでででててて奉奉たてまつるるる。。。これこれこれをををあけあけあけててて見見み給給たまふふうににに、、、水水みず莖莖ぐきのののあとあとあとははは涙涙なみだにににかきかきかきくれくれくれててて、、、そこはかとはそこはかとはそこはかとは見見みえええねねねどもどもども、、、稚稚いとけなききき人人ひと々々びとのののあまりあまりあまりににに戀戀こひひい悲悲かなしみしみしみたまふたまふたまう有有あり樣樣さま、、、わがわがわが身身みもももつきつきつきせせせぬぬぬものものものおもひおもひおもいににに、、、堪堪たへへえ忍忍しのぶぶぶべうべうびょうもももなしなしなしなどなどなど書書かかかかれれれたれたれたればばば、、、日日ひごろごろごろののの戀戀こいしさしさしさははは事事ことののの數數かずならならならずずずとととぞぞぞ悲悲かなしみしみしみ給給たまひひいけるけるける。。。
- 10かくてかくてかくて四四し五五ご日日にちももも過過すぎぎぎしかしかしかばばば、、、信信のぶ俊俊としこれこれこれににに候候さぶらひひいててて、、、御御ご最最さい後後ごののの御御おん有有あり樣樣さまをををももも見見み參參まいらせらせらせんんんととと申申もうしししけれけれければばば、、、預預あずかりりりののの武武ぶ士士し、、、いかにいかにいかにもももかなふかなふかなうまじきまじきまじき由由よしををを申申もうすすす間間あいだ、、、大大だい納納な言言ごん、、、「「「いくいくいくほどほどほどももも延延のびびびざらざらざらんんんものものもの故故ゆえににに、、、たゞたゞただとうとうとう歸歸かえれれれ。。。」」」とととこそこそこそ宣宣のたまひひいけれけれけれ。。。「「「われわれわれははは近近ちこううう失失うしなははわれれれんんんととと覺覺おぼゆるゆるゆるぞぞぞ。。。このこのこの世世よににになきなきなき者者ものととと聞聞きかかかばばば、、、わがわがわが後後のちののの世世よをををよくよくよく弔弔とぶらへへえよよよ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。御御おん返返へん事事じ書書かきききてててたうだりたうだりとうだりけれけれければばば、、、「「「信信のぶ俊俊としこれこれこれををを賜賜たまはつはつわっててて、、、またまたまたこそこそこそ參參まいりりり候候そうらははわめめめ。。。」」」とてとてとて、、、暇暇いとま申申もうしししててて出出いでででけれけれければばば、、、「「「汝汝なんじがががまたまたまた來來こんんん度度たびををを待待まちちちつくつくつくべしべしべしとととももも覺覺おぼえええぬぬぬぞぞぞ。。。あまりあまりあまりににに名名な殘殘ごり惜惜おしうしうしゅう覺覺おぼゆるゆるゆるににに、、、しばししばししばし、、、〳〵〳〵しばし。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいててて、、、度度たび々々たび呼呼よびびびぞぞぞ返返かえささされれれけるけるける。。。
- 11さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、信信のぶ俊俊とし淚淚なみだをををおさへおさへおさえつゝつゝつつ、、、都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼりりりけりけりけり。。。北北きたののの方方かたににに、、、御御おん返返へん事事じ取取とりりり出出いでででててて奉奉たてまつるるる。。。これこれこれをををあけあけあけててて見見み給給たまへへえばばば、、、はやはやはや御御おん樣樣さまかへかへかへさせさせさせ給給たまひひいたりたりたりとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、御御おん文文ふみののの奧奧おくににに御御み髪髪ぐしののの一一ひとふさふさふさありありありけるけるけるををを、、、二二ふた目目めともともとも見見み給給たまははわずずず、、、かたみかたみかたみこそこそこそ今今いまはははなか〳〵なか〳〵なかなかあだあだあだなれなれなれとてとてとて、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ伏伏ふししし給給たまふふう。。。若若わか君君ぎみももも姫姫ひめ君君ぎみももも、、、聲聲こえ々々ごえにににをめきをめきおめき叫叫さけびびび給給たまひひいけりけりけり。。。
- 12さるさるさる程程ほどににに同同おなじきじきじき八八はち月月がつ十十じゅう九九く日日にち、、、大大だい納納な言言ごん入入にゅう道道どう殿殿どのをををばばば、、、備備び前前ぜん、、、備備びっ中中ちゅうののの境境さかい、、、庭庭にわ瀨瀨せののの鄕鄕ごう、、、吉吉き備備びののの中中なか山山やま、、、有有あり木木きののの別別べっ所所しょにににてててぞぞぞ遂遂ついににに失失うしなひひい奉奉たてまつるるる。。。そのそのその最最さい後後ごののの有有あり樣樣さまやう〳〵やう〳〵ようようにににぞぞぞ聞聞きこえええけるけるける。。。始始はじめめめははは酒酒さけににに毒毒どくををを入入いれれれててて參參まいらせらせらせけれけれけれどもどもども、、、叶叶かなははわざりざりざりけれけれければばば、、、二二に丈丈じょうばかりばかりばかりありありありけるけるける岸岸きしののの下下したににに菱菱ひしををを植植うゑゑえててて、、、突突つききき落落おとししし奉奉たてまつれれればばば、、、菱菱ひしににに貫貫つらぬかかかつつってててぞぞぞ失失うせせせられられられけるけるける、、、むげむげむげにににうたてきうたてきうたてき事事ことどもどもどもなりなりなり。。。例例ためし少少すくなうなうのうぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 13北北きたののの方方かたこのこのこの由由よしををを傳傳つたへへえ聞聞きききき給給たまひひいててて、、、「「「あはれあはれあわれいかにいかにいかにもももしてしてして變變かわらららぬぬぬ姿姿すがたををを、、、今今いま一一いち度度ど見見みもももししし、、、見見みえええばやばやばやととと思思おもひひいてててこそこそこそ、、、今日今日きょうまでまでまで樣樣さまをををばばばかへかへかへざりざりざりつれつれつれ。。。今今いまははは何何なににににかかかはははせせせんんん。。。」」」とてとてとて、、、菩菩ぼ提提だい院院いんととといふいふいう寺寺てらにににおはしおはしおわしててて、、、御御おん樣樣さまをををかへかへかへ、、、形形かたののの如如ごとくくく佛佛ぶつ事事じいとなみいとなみいとなみ給給たまふふうぞぞぞあはれあはれあわれなるなるなる。。。このこのこの北北きたののの方方かたととと申申もうすすすははは、、、山山やま城城しろののの守守かみ敦敦あつ方方かたののの女女むすめ、、、後後ご白白しら河河かわののの法法ほう皇皇おうののの御御おん思思おもひひい人人びと、、、ならびならびならびなきなきなき美美び人人じんにににててておはしおはしおわしけるけるけるををを、、、このこのこの大大だい納納な言言ごんありがたきありがたきありがたき御御ご寵寵ちょう愛愛あいののの人人ひとにににててて、、、下下くだししし賜賜たまはりはりわりたりたりたりけるけるけるとととかやかやかや。。。若若わか君君ぎみ、、、姫姫ひめ君君ぎみももも、、、面面めん々々めんににに花花はなををを手手た折折おりりり、、、閼閼あ伽伽かののの水水みずをををむすんむすんむすんででで、、、父父ちちののの後後ご世世せををを弔弔とぶらひひい給給たまふふうぞぞぞあはれあはれあわれなるなるなる。。。かくてかくてかくて時時とき移移うつりりり事事こと去去さりりりててて、、、世世よのののかはりかはりかわりゆくゆくゆく有有あり樣樣さまははは、、、たゞたゞただ天天てん人人にんののの五五ごににに異異ことならならならずずず。。。
現代語訳
そうしているうちに、法勝寺の執行俊寛僧都、丹波少将成経、平判官康頼の三人を、薩摩潟の鬼界が島へ流された。その島へは都を出て、はるばると多くの波路を越えて行く所である。めったなことでは船も通わず、島には人がまれであった。
たまに人はいるけれども、衣服がないので本土の人にも似ず、言う言葉も聞き取れない。体にはしきりに毛が生えていて、色は黒くて牛のようである。男は烏帽子もかぶらず、女は髪も垂らしていない。食べるものもないので、いつもただ狩りや漁ばかりしている。身分の低い者が山田を耕さないので米や穀物の類もなく、園の桑を摘まないので絹の類もない。
島の中には高い山がある。絶えず火が燃え、硫黄というものが満ちている。だから硫黄が島と名づけたのである。雷がいつも鳴り上り鳴り下り、麓には雨が激しく降る。一日片時でも人の命が保てそうにもない。
新大納言は少しは気楽になることもあろうかと思っておられたが、子息の丹波少将成経以下三人が薩摩潟の鬼界が島へ流されたと聞いて、今は何を期待できようかといって、出家の志があることを、つてを頼って小松殿に申し上げたところ、法皇にお伺いして許しが出た。栄華の袂を引き換えて、つらい世をよそに見る墨染の袖にやつれられた。
そうしているうちに大納言の北の方は、都の北山の雲林院のあたりに忍んでおられたが、そうでなくても住み慣れない所はつらいのに、いっそう人目を忍んでおられたので、過ぎていく月日を明かしかね、暮らしかねる様子であった。宿所には女房や侍が大勢いたけれども、あるいは世を恐れ、あるいは人目をはばかって、訪ねてくる者は一人もいない。けれどもその中に、源左衛門尉信俊という侍が一人、情けのある者で、いつも訪ねてきていた。
あるとき北の方が信俊を呼んで、「本当だろうか、あの方は備前の児島においでになったが、このごろ聞くと、有木の別所とかいう所においでになるそうだ。ああ、何とかしてつたない手紙でもさしあげて、お返事をもう一度見たいと思うがどうだろう」とおっしゃると、信俊は涙をはらはらと流して、「私は幼少のときからお情けを受けて召し使われ、片時もお離れしたことはございません。お呼びくださったお声が耳に残り、お諫めくださったお言葉が肝に銘じて、忘れることもございません。西国へお下りになったときもお供をするつもりでしたが、六波羅から許されなかったので、どうにもなりませんでした。たとえ今度はどのようなつらい目にあおうとも、お手紙をいただいて参りましょう」と申したので、
北の方はたいそう喜んで、すぐに書いてお渡しになった。若君や姫君も、それぞれお手紙を書かれた。信俊はこれらのお手紙をいただいて、はるばると備前国の有木の別所へ尋ねて下り、預かりの武士の難波次郎経遠に取り次ぎを頼んだところ、経遠はその志の深さに感じて、すぐに大納言にお会わせした。
大納言入道殿は、ちょうどそのとき都のことばかりを口にして嘆き沈んでおられたところに、「京から信俊が参りました」と申したので、大納言は起き上がって、「どうした、どうした、夢か現か、こちらへ、こちらへ」とおっしゃった。信俊がおそば近く参ってご様子を拝見すると、まずお住まいのみすぼらしさは言うまでもなく、墨染の御袖を拝見すると、目の前が暗くなり、心も消え果てて、涙も止まらない。
しばらくして涙をおさえ、北の方から仰せを受けた次第を詳しく語り申し、その後お手紙を取り出して差し上げた。大納言がこれを開けてご覧になると、筆の跡は涙にかき暗れて、はっきりとは見えないけれども、「幼い子どもたちがあまりに恋い悲しんでいる有様、私自身も尽きない物思いに耐え忍べそうもない」などと書かれていたので、日ごろの恋しさなどはものの数ではないほどに悲しまれた。
こうして四、五日も過ぎたので、信俊は「ここにおりまして、ご最期のご様子も見届けたい」と申したが、預かりの武士がどうしても許されないと申すので、大納言は「いくらも延びない命なのだから、ただ早く帰れ」とおっしゃった。「私は近いうちに殺されると思う。この世にいない者と聞いたら、私の後世をよく弔ってくれ」とおっしゃった。お返事を書いてお渡しになったので、信俊は「これをいただいて、また参りましょう」といって暇を告げて出ると、「おまえがまた来るときまで待っていられるとも思えない。あまりに名残惜しく思われるので、しばらく、しばらく」とおっしゃって、何度も呼び返された。
そうしてばかりもいられないので、信俊は涙をおさえながら都へ帰り上った。北の方にお返事を取り出して差し上げた。北の方がこれを開けてご覧になると、もう出家なさったと思われて、お手紙の奥に髪がひと房入っていたのを、二度とはご覧にならず、「形見こそ今はかえってつらいものだ」といって、衣を引きかぶって伏してしまわれた。若君も姫君も、声々にわめき叫ばれた。
そうしているうちに同じ年の八月十九日、大納言入道殿を、備前と備中の境、庭瀬の郷、吉備の中山の有木の別所で、ついに殺し申した。その最期の有様はいろいろに伝えられている。初めは酒に毒を入れて差し上げたが、うまくいかなかったので、二丈ほどある崖の下に菱を植えて突き落とし申したところ、菱に体を貫かれて亡くなられたという。まったくひどいことである。めったに聞かない例であった。
北の方はこのことを伝え聞かれて、「ああ、何とかして変わらない姿をもう一度見もし、見せもしたいと思ったからこそ、今日まで出家しなかったのに。今は何になろう」といって、菩提院という寺においでになって出家し、形どおりの仏事を営まれたのはあわれである。この北の方と申す方は山城守敦方の娘で、後白河法皇のご寵愛の人で、比べるもののない美人でいらっしゃったのを、この大納言が並々ならぬご寵愛を受けていたので、法皇から下し賜ったのだという。若君や姫君も、それぞれ花を手折り、閼伽の水をすくって、父の後世を弔われたのはあわれである。こうして時が移り事が過ぎて、世の中が変わっていく有様は、まさに天人の五衰と異ならない。
意訳
鹿ケ谷事件の首謀者藤原成親の最期を語る章段である。前半では、俊寛・成経・康頼の流された鬼界が島が、人も言葉が通じず、火山が火を吹き雷が鳴りやまない、都の人には想像もつかない地として描かれる。次の巻の俊寛の物語の舞台がここで示されている。
中心となるのは、北の方の使いとして有木の別所を訪ねる侍信俊と、成親との再会と別れである。幼いころから成親に仕えた信俊は、六波羅の許しを得られずに西国への供ができなかったことを悔い、どんな目にあっても手紙を届けると誓う。成親は「しばし、しばし」と何度も信俊を呼び返して名残を惜しみ、その直後に、崖下の菱の上に突き落とされるという残酷な方法で殺される。主従の情の深さと、最期のむごたらしさとの対比が胸を打つ。
結びでは、北の方が「変はらぬ姿を今一度見もし、見えばや」と思って出家せずにいたことを語り、夫の死を知って尼となる。「天人の五衰」は、天人でさえ寿命が尽きるときには五つの衰えの相が現れるという仏教の教えで、栄華を極めた成親一家の没落を、無常の理として締めくくっている。
語釈・文法注
- 鬼界が島
- 薩摩の南方の海上にある島。今の鹿児島県の硫黄島とされる。流人の島として知られた。
- 天人の五衰
- 天人が死を迎えるときに現れる五つの衰えの相。衣服が汚れ、頭上の花がしぼみ、体が臭くなり、脇の下に汗が出て、座を楽しまなくなるという。
文法
- 「書いてぞたうでける」
- 「たうで」は「賜びて」のウ音便「たうで」。お渡しになった、の意。
- 「しばし、〳〵」
- くの字点は前の「しばし」をくり返す。しばらく、しばらく、と呼び止める言葉。
- 「菱に貫かつてぞ失せられける」
- 底本は「貫かつて」と刷る。菱の実のとげに体を貫かれて、の意。
- 「見もし、見えばや」
- 「見え」は「見ゆ」で、見られる、姿を見せる、の意。夫の姿を見もし、自分の姿も見せたい、の意。
解説
藤原成親は治承元年(1177)七月に備前で殺された。『愚管抄』などによれば、食事を与えられずに死に至らしめられたともいわれ、殺害の方法は伝えによって異なる。物語の菱の上に突き落とすという凄惨な描写は、平家の残酷さを印象づけるものとなっている。
成親の北の方は、のちに建春門院に仕えた女房の一人とも伝えられる。また、成親の娘は維盛の妻となっており、平家の都落ち(巻第七)や維盛の入水(巻第十)の物語で、その姿が描かれることになる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、339–343頁(コマ198–200)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日