平家物語 巻第二
阿古屋の松の事
鹿ケ谷の謀議に加わった人々はそれぞれ諸国へ流される。成経も清盛に呼び出され、幼いわが子に別れを告げて福原から備中へ流された。父成親がわずか五十町先の有木の別所にいると知らずに尋ねる成経に、妹尾兼康は「片道十二三日」と偽る。成経は藤原実方が阿古屋の松を尋ねた故事を引き、兼康の偽りを見抜いて、それ以上は問わなかった。
- 1およそおよそおよそ新新しん大大だい納納な言言ごん一一ひと人人りにににももも限限かぎらららずずず、、、いましめいましめいましめををを蒙蒙こうぶるるる輩輩ともがら多多おおかりかりかりききき。。。近近おう江江みののの中中ちゅう將將じょう入入にゅう道道どう蓮蓮れん淨淨じょう佐佐さ渡渡どののの國國くに、、、山山やま城城しろののの守守かみ基基もと兼兼かね伯伯ほう耆耆きののの國國くに、、、式式しき部部ぶののの大大たい輔輔ふ正正まさ綱綱つな播播はり磨磨まののの國國くに、、、宗宗そう判判ほう官官がん信信のぶ房房ふさ河河あ波波わののの國國くに、、、新新しん平平ぺい判判ほう官官がん資資すけ行行ゆきははは美美み作作まさかののの國國くにとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 2折折おりふしふしふし入入にゅう道道どう相相しょう國國こくははは福福ふく原原はらののの別別べつ業業ぎょうにににおはしおはしおわしけるけるけるががが、、、同同おなじきじきじき二二は十十つ日日かののの日日ひ、、、攝攝つ津津のののの左左さ衞衞え門門もん盛盛もり澄澄ずみををを使使し者者しゃにににててて、、、門門かど脇脇わき殿殿どののののもともともとへへへ、、、「「「それそれそれににに預預あずけけけ置置おききき奉奉たてまつつつったるたるたる丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょうををを、、、急急いそぎぎぎこれこれこれへへへたべたべたべ、、、存存ぞんずるずるずる旨旨むねありありあり。。。」」」ととと宣宣のたまひひい遣遣つかはさはさわされれれたりたりたりけれけれければばば、、、宰宰さい相相しょう、、、「「「さらばさらばさらばたゞたゞただありありありししし時時とき、、、ともかうともかうともこうもももなりなりなりたりたりたりせせせばばば、、、いかにいかにいかにかかかせせせんんん。。。復復ふたびびびものものものををを思思おもははわせせせんんんずるずるずることことことののの悲悲かなしさしさしさよよよ。。。」」」とてとてとて、、、急急いそぎぎぎ福福ふく原原はらへへへ下下くだりりり給給たまふふうべきべきべき由由よしのたまへのたまへのたまえばばば、、、少少しょう將將しょう泣泣なく〳〵く〳〵くなく出出いででで立立たたたたれれれけりけりけり。。。
- 3北北きたののの方方かた以以い下下げののの女女にょう房房ぼうたちたちたちははは、、、「「「かなはかなはかなわざらざらざらんんんものものもの故故ゆえににに、、、なほなほなおももも宰宰さい相相しょうののの、、、よきよきよきやうやうようににに申申もうさささせせせ給給たまへへえかしかしかし。。。」」」ととと歎歎なげかかかれれれけれけれければばば、、、宰宰さい相相しょう、、、「「「存存ぞんずるずるずる程程ほどののの事事ことをををばばば申申もうしししつつつ。。。今今いまははは世世よををを捨捨すてててんんんよりよりより外外ほか、、、またまたまた何何なに事事ごとをををかかか申申もうすすすべきべきべき。。。たとひたとひたといいづくいづくいずくののの浦浦うらにににもももおはせおはせおわせよよよ、、、わがわがわが命命いのちのののあらあらあらんんん限限かぎりりりははは、、、とぶらひとぶらひとぶらい奉奉たてまつるるるべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 4少少しょう將將しょうははは今今こ年年とし三三みつつつににになりなりなり給給たまふふう、、、をさなきをさなきおさなき人人ひとのののおはしおはしおわしけれけれけれどもどもども、、、日日ひ頃頃ごろははは若若わかききき人人ひとにににててて、、、君君きんだちだちだちなどなどなどののの事事ことをををばばば、、、さしもさしもさしもこまやかこまやかこまやかにににもももおはせおはせおわせざりざりざりしかしかしかどもどもども、、、今今いまはははののの時時ときにににもももなりなりなりぬれぬれぬればばば、、、さすがさすがさすがなつかしうなつかしうなつかしゅうややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、幼幼おさなききき者者ものををを今今いま一一いち度度ど見見みばやばやばやとととのたまへのたまへのたまえばばば、、、乳乳めの母母と抱抱いだいいいててて參參まいりりりたりたりたり。。。少少しょう將將しょう膝膝ひざののの上上うえににに置置おききき、、、髪髪かみかきかきかきなでなでなで、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「哀哀あわれれれ汝汝なんじ七七なな歳歳つにににならならならばばば、、、男男おとこににになしなしなしててて、、、君君きみへへへまゐらせまゐらせまいらせんんんとととこそこそこそ思思おもひひいしししににに、、、されどもされどもされども今今いまはははいふいふいうかひかひかいなしなしなし。。。もしもしもし不不ふ思思し議議ぎににに命命いのち生生いきききててて、、、おひおひおい立立たちちちたらたらたらばばば、、、法法ほっ師師しににになつなつなっててて、、、わがわがわが後後のちののの世世よをををよくよくよくとぶらへとぶらへとぶらえよよよ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 5未未いまだだだ稚稚いとけなききき御御み心心こころににに、、、何何なに事事ごとをををかかか聞聞ききききわきわきわき給給たまふふうべきべきべきなれなれなれどもどもども、、、うちうちうちうなづきうなづきうなずき給給たまへへえばばば、、、少少しょう將將しょうををを始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて、、、母母はは上上うえ、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう、、、そのそのその座座ざにににいくらいくらいくらももも竝竝なみみみゐゐいたまへたまへたまえるるる人人ひと々々びと、、、心心こころあるあるあるももも心心こころなきなきなきももも、、、みなみなみな袖袖そでをををぞぞぞぬらさぬらさぬらされれれけるけるける。。。
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- 8さるさるさる程程ほどににに新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょうははは、、、備備び前前ぜんののの兒兒こ島島じまにににおはしおはしおわしけるけるけるををを、、、これこれこれはははなほなほなお船船ふなつきつきつき近近ちこうううてててあしかりあしかりあしかりなななんんんとてとてとて、、、他他ほかへへへ渡渡わたししし奉奉たてまつりりり、、、備備び前前ぜん備備びっ中中ちゅうののの境境さかい、、、庭庭にわ瀨瀨せののの鄕鄕ごう、、、吉吉き備備びののの中中なか山山やま、、、有有あり木木きののの別別べっ所所しょととといふいふいう山山やま寺寺でらににに置置おききき奉奉たてまつるるる。。。
- 9それそれそれよりよりより少少しょう將將しょうのののおはしおはしおわしけるけるける備備びっ中中ちゅうののの妹妹せの尾尾おととと、、、有有あり木木きののの別別べっ所所しょとととののの間間あいだははは、、、わづかわづかわずか五五ご十十じっ町町ちょうににに足足たらららぬぬぬ所所ところなれなれなればばば、、、少少しょう將將しょうさすがさすがさすがそなたそなたそなたののの風風かぜもももなつかしうなつかしうなつかしゅうややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、あるあるある時時とき兼兼かね康康やすををを召召めしししててて、、、「「「これこれこれよりよりより父父ちち大大だい納納な言言ごん殿殿どのののの御御おんわたりわたりわたりあるあるあるなるなるなる、、、有有あり木木きののの別別べっ所所しょとととかやかやかやへへへはははいかいかいか程程ほどあるあるあるぞぞぞ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、兼兼かね康康やすすぐすぐすぐににに知知しらららせせせ奉奉たてまつつつってててははは、、、あしかりあしかりあしかりなななんんんとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、「「「片片かた道道みち十十じゅう二二に三三さん日日にち候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、
- 10そのそのその時時とき少少しょう將將しょう、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「日日にっ本本ぽんむかしむかしむかし三三さん十十じゅう三三さん箇箇か國國こくにににてててありありありしししををを、、、中中なか頃頃ごろ六六ろく十十じゅう六六ろく箇箇か國國こくにににははは分分わけけけられられられたたたなりなりなり。。。さささいふいふいう備備び前前ぜん、、、備備びっ中中ちゅう、、、備備び後後ごももも、、、もともともとははは一一いっ國國こくにににてててありありありけるけるけるなりなりなり。。。またまたまた東東あずまににに聞聞きこゆるゆるゆる出出で羽羽は、、、陸陸み奥奥ちののの國國くにももも、、、昔昔むかしははは六六ろく十十じゅう六六ろく郡郡ぐんががが一一いっ國國こくににになりなりなりしししををを、、、十十じゅう二二に郡郡ぐんににに割割さききき分分わかつつっててて後後のち、、、出出で羽羽はののの國國くにとととははは立立たてててられられられたたたなりなりなり。。。
- 11さればさればされば實實さね方方かたののの中中ちゅう、、、奧奧おう州州しゅうへへへ流流ながささされれれしししときときとき、、、當當とう國國ごくののの名名めい所所しょ、、、阿阿あ古古こ屋屋やののの松松まつををを見見みんんんとてとてとて、、、國國くにののの内内うちををを尋尋たずねねねまはるまはるまわるににに、、、求求もとめめめかねかねかねててて、、、既既すでににに空空むなしうしうしゅう歸歸かえらららんんんとととしししけるけるけるががが、、、道道みちにににてててあるあるある老老ろう翁翁おうににに行行ゆきききあひあひあいたりたりたり。。。中中ちゅう將將じょう、、、『『『やゝやゝやや御御ご邊邊へんはははふるいふるいふるい人人ひととととこそこそこそ見見みれれれ。。。當當とう國國ごくののの名名めい所所しょ、、、阿阿あ古古こ屋屋やののの松松まつととといふいふいうところところところややや知知しりりりたるたるたる。。。』』』ととと問問とふふうににに、、、『『『全全まったくくく國國くにののの内内うちにににははは候候そうらははわずずず、、、出出で羽羽はののの國國くににににぞぞぞ候候そうろうらんらんらん。。。』』』ととと申申もうしししけれけれければばば、、、『『『偖偖さてははは汝汝なんじももも知知しらららざりざりざりけりけりけり。。。今今いまははは世世よ末末すえににになりなりなりててて、、、國國くにののの名名めい所所しょをををももも、、、はやはやはやみなみなみな呼呼よびびび失失うしなひひいけるけるけるにににこそこそこそ。。。』』』とてとてとて、、、既既すでににに過過すぎぎぎんんんとととししし給給たまへへえばばば、、、老老ろう翁翁おう中中ちゅう將將じょうののの袖袖そでをををひかへひかへひかえててて、、、『『『あはれあはれあわれ君君きみははは、、、
- 12みちのくみちのくみちのくののの阿阿あ古古こ屋屋やののの松松まつににに木木こがくれがくれがくれててて出出いづづずべきべきべき月月つきののの出出いでででもももやらやらやらぬぬぬかかか
- 13ととといふいふいう歌歌うたののの意意こころををを以以もっててて、、、當當とう國國ごくののの名名めい所所しょ、、、阿阿あ古古こ屋屋やののの松松まつとととははは御御おん尋尋たずねねね候候そうろうかかか。。。それそれそれははは昔昔むかし、、、兩兩りょう國國ごくががが一一いっ國國こくなりなりなりししし時時とき、、、詠詠よみみみはべりはべりはべりししし歌歌うたなりなりなり。。。十十じゅう二二に郡郡ぐん割割さききき分分わかつつっててて後後のちははは、、、出出で羽羽はののの國國くににににぞぞぞ候候そうろうらんらんらん。。。』』』ととと申申もうしししけれけれければばば、、、さらばさらばさらばとてとてとて實實さね方方かたののの中中ちゅう將將じょうももも、、、出出で羽羽はののの國國くにににに越越こえええてててこそこそこそ、、、阿阿あ古古こ屋屋やののの松松まつをををばばば見見みてててけれけれけれ。。。
- 14筑筑つく紫紫しののの太太だ宰宰ざい府府ふよりよりより都都みやこへへへ、、、腹腹はら赤赤かのののののの上上のぼるるるこそこそこそ、、、徒徒かち路路じ十十じゅう五五ご日日にちとととははは定定さだめめめたるたるたるなれなれなれ。。。すでにすでにすでに十十じゅう二二に三三さん日日にちととと申申もうすすすははは、、、これこれこれよりよりより殆殆ほとんどどど鎭鎭ちん西西ぜいへへへ下下げ向向こう、、、ござんなれござんなれござんなれ、、、遠遠とおしししととといふいふいうともともとも、、、備備び前前ぜん、、、備備びっ中中ちゅう、、、備備び後後ごののの間間あいだははは、、、兩兩りょう三三さん日日にちにににはははよもよもよも過過すぎぎぎじじじ。。。近近ちかいいいををを遠遠とおううう申申もうすすすははは、、、父父ちち大大だい納納な言言ごん殿殿どのののの御御おんわたりわたりわたりあるあるあるなるなるなる所所ところををを、、、成成なり經經つねににに知知しらららせせせじじじとてとてとてこそこそこそ申申もうすすすらめらめらめ。。。」」」とてとてとて、、、そのそのその後後のちはははこひしけれこひしけれこいしけれどもどもども、、、問問とひひい給給たまははわずずず。。。
現代語訳
そもそも新大納言一人に限らず、処罰を受けた者は多かった。近江中将入道蓮浄は佐渡国、山城守基兼は伯耆国、式部大輔正綱は播磨国、宗判官信房は阿波国、新平判官資行は美作国へ流されたということである。
ちょうど入道相国は福原の別荘においでになったが、同じ月の二十日、摂津左衛門盛澄を使いとして門脇殿のもとへ、「そちらに預け置き申した丹波少将を急いでこちらへよこせ。考えがある」と言い送られたので、宰相は「それならあのとき、どうにでもなっていたなら、どうしようもなかったのに。またつらい思いをさせることの悲しさよ」といって、少将に急いで福原へ下るようにとおっしゃったので、少将は泣く泣く出立された。
北の方以下の女房たちは、「かなわないことでも、なお宰相殿がよいようにおとりなしくださいませ」と嘆かれたので、宰相は「申せるだけのことは申しました。今は世を捨てるよりほかに、何を申し上げられましょう。たとえどこの浦においでになっても、私の命のある限りはお見舞い申し上げましょう」とおっしゃった。
少将には今年三歳になる幼い子がいらっしゃったが、ふだんは若い人のことで、子どもたちのことなどにはそれほど細やかでもなかったけれども、いよいよの時になったので、さすがに恋しく思われたのだろうか、「幼い子をもう一度見たい」とおっしゃると、乳母が抱いて参った。少将は膝の上に置いて髪をなで、涙をはらはらと流して、「ああ、おまえが七歳になったら元服させて君にお仕えさせようと思っていたのに、今はもう言ってもしかたがない。もし不思議に命を長らえて成人したなら、法師になって、私の後世をよく弔ってくれ」とおっしゃった。
まだ幼いお心に、何をお聞き分けになれるはずもないのに、うなずかれたので、少将をはじめとして、母上や乳母の女房、その座に大勢並んでおられた人々は、心ある者もない者も、みな袖を濡らされた。
福原の使いが、今夜のうちに鳥羽までお出になるようにと申す。少将は「いくらも延びない命だから、今夜だけは都の中で明かしたい」とおっしゃったが、どうしても許されないとしきりに申すので、仕方なくその夜、鳥羽へお出になった。宰相はあまりのつらさに、今度は同乗もなさらず、少将だけがお乗りになった。
同じ月の二十二日、少将は福原に着かれた。入道相国は備中国の住人の妹尾太郎兼康に命じて、備中国へ流された。兼康は宰相が後で聞かれることを恐れて、それほど厳しくも当たらず、道中いろいろといたわり申し上げたけれども、少将は少しも慰められることなく、夜も昼もただ仏の御名ばかりを唱えて、ひたすら父のことを祈られた。
そうしているうちに新大納言成親卿は備前の児島においでになったが、ここはやはり船着き場に近くてよくないということで、ほかへお移し申し、備前と備中の境、庭瀬の郷、吉備の中山の有木の別所という山寺にお置き申した。
そこから少将のおられる備中の妹尾と有木の別所との間は、わずか五十町足らずの所であったので、少将はさすがにそちらから吹く風も懐かしく思われたのだろうか、あるとき兼康を呼んで、「ここから父の大納言殿がおられるという有木の別所とかいう所までは、どれほどあるのか」とお尋ねになると、兼康は正直にお知らせしてはまずいと思ったのだろうか、「片道十二、三日でございます」と申したので、
そのとき少将は涙をはらはらと流して、「日本は昔三十三か国であったのを、中ごろ六十六か国に分けたのだ。その備前・備中・備後も、もとは一つの国であった。また東国で聞こえた出羽・陸奥の国も、昔は六十六郡で一国であったのを、十二郡を分けて出羽の国と立てたのだ。
だから実方中将が奥州へ流されたとき、その国の名所の阿古屋の松を見ようとして国中を尋ね回ったが、見つけられず、もうむなしく帰ろうとしたところ、道である老翁に行き会った。中将が『もし、あなたは昔のことを知っている人と見える。この国の名所の阿古屋の松という所を知っているか』と問うと、『まったくこの国の中にはございません。出羽の国にあるのでしょう』と申したので、『さてはおまえも知らないのだな。今は末世になって、国の名所までもう呼び失ってしまったのだな』といって通り過ぎようとなさると、老翁は中将の袖を引きとめて、『ああ、あなた様は、
陸奥の阿古屋の松に木隠れて、出るはずの月がまだ出てこないのだろうか。
という歌の意味で、この国の名所の阿古屋の松とお尋ねになったのですか。それは昔、二つの国が一国であったときに詠まれた歌です。十二郡を分けて後は、出羽の国にあるのでしょう』と申したので、それならと実方中将も出羽の国に越えて、阿古屋の松を見たのである。
筑紫の太宰府から都へ腹赤の使いが上るのにさえ、徒歩で十五日と定めているのだ。それを十二、三日と申すのは、ここからほとんど九州へ下る距離ということになる。いくら遠いといっても、備前・備中・備後の間なら、二、三日を越えることはまさかあるまい。近いのを遠いと申すのは、父大納言殿のおられる所を成経に知らせまいとして申しているのだろう」といって、その後は恋しかったけれども、お尋ねにならなかった。
意訳
鹿ケ谷事件の関係者がそれぞれ配流される中で、成経は幼いわが子と別れ、備中の妹尾へ流される。三歳の子に「法師になつて、わが後の世をよくとぶらへよ」と言い残す場面は、父となった若い公達の悲しみを伝えている。
この章段の中心は、成経が父の居場所を尋ねる場面である。父成親はわずか五十町(約5キロ)先の有木の別所にいたが、護送役の妹尾兼康は、それを知らせてはまずいと「片道十二三日」と偽る。成経は、かつて陸奥と出羽が一国であったことを知らずに阿古屋の松を探した藤原実方の故事を引き、国の大きさから考えれば十二、三日もかかるはずはないと、兼康の嘘を見抜く。しかし成経はそれ以上は問わない。父に会いたい思いを胸に秘め、相手の立場も思いやる成経の姿が、静かな哀しみを誘う。
語釈・文法注
- 實方の中將
- 藤原実方(?〜998)。歌人として知られ、宮中で藤原行成と争ったことから陸奥守に左遷されたと伝えられる。任地で没した。
- 腹赤の使
- 毎年正月、筑紫から朝廷に献上する腹赤(鱒の一種)を運ぶ使者。
文法
- 「急ぎこれへたべ」
- 「たぶ」は「賜ぶ」で、与える、の意の尊敬語。ここでは、よこせ、の意。
- 「ともかうもなりたりせば、いかにかせん」
- 反実仮想で、あのときどうにでもなっていたら(あきらめもついたのに)、の意。
- 「ござんなれ」
- …というわけだな、の意。片道十二、三日ならほとんど九州までの距離だ、と皮肉をこめて言う。
和歌
みちのくの阿古屋の松に木がくれて出づべき月の出でもやらぬか
- 詠者
- (古歌)
- 状況
- 陸奥の名所阿古屋の松を探す藤原実方に、老翁が、この歌が陸奥と出羽が一国であったころの歌であることを教える場面で引かれる。
修辞
- 趣向
- 阿古屋の松の茂みに隠れて、出るはずの月がなかなか出てこない、と詠む。成経の、会えるはずの父に会えない思いと重ね合わされている。
解説
阿古屋の松は、出羽国(今の山形県)の千歳山にあったとされる歌枕である。和銅五年(712)に陸奥国から出羽国が分立したため、陸奥の歌枕として詠まれた阿古屋の松は、のちには出羽国にあることになった。この故事は、陸奥守として下った藤原実方の話として『源平盛衰記』などにも見える。
成経が配された備中の妹尾と、成親のいた有木の別所は、いずれも今の岡山市の西部にあたる。成経はついに父と会うことなく、まもなく鬼界が島へ流されることになる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、336–339頁(コマ197–198)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日