平家物語 巻第二
新大納言の流されの事
六月二日、成親は重盛の取りなしで死罪を免れ、備前の児島へ流されることになる。重盛にもう一度会うことも、従者を一人連れることも許されず、見送る者もいない中、成親は鳥羽から船に乗せられる。重盛は命を請い受けたことを伝える手紙と旅の支度を送り、成親は児島の粗末な柴の庵に入れられた。
- 1さるさるさるほどほどほどににに六六ろく月月がつ二二ふつ日日かののの日日ひ、、、新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょうをををばばば公公く卿卿ぎょうののの座座ざににに出出いだししし奉奉たてまつつつっててて、、、御御おん物物もの參參まいらせらせらせけれけれけれどもどもども、、、胸胸むねせきせきせき塞塞ふさがつがつがっててて、、、御御おん箸箸はしをををだにだにだにももも立立たてててられられられずずず。。。あづかりあづかりあずかりののの武武ぶ士士し難難なん波波ばののの次次じ郎郎ろう經經つね遠遠とお、、、御御み車車くるまををを寄寄よせせせててて、、、「「「とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、大大だい納納な言言ごん心心こころならならならずずずぞぞぞ乘乘のりりり給給たまふふう。。。
- 2あはれあはれあわれ如如い何何かにににもももしてしてして今今いま一一いち度度ど、、、小小こ松松まつ殿殿どのににに見見みえええ奉奉たてまつらららばやばやばやととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、それそれそれももも叶叶かなははわずずず。。。見見みまはせまはせまわせばばば軍軍ぐん兵兵びょうどもどもども、、、前前ぜん後後ご左左さ右右ゆうにににうちうちうち圍圍かこんんんででで、、、わがわがわが方方かたざまざまざまののの者者ものははは一一いち人人にんもももなしなしなし。。。たとひたとひたとい重重じゅう科科かををを蒙蒙こうぶつつっててて遠遠おん國國ごくへへへ行行ゆくくく者者ものももも、、、人人ひと一一ひと人人り身身みににに添添そへへえざるざるざるべきべきべき事事ことやややあるあるあるととと、、、車車くるまののの内内うちにににてててかきかきかきくどかくどかくどかれれれけれけれければばば、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しどもどもどもももも皆皆みな鎧鎧よろいののの袖袖そでをををぞぞぞ濡濡ぬらしらしらしけるけるける。。。
- 3西西にしののの朱朱しゅ雀雀じゃかををを南南みなみへへへ行行ゆけけけばばば、、、大大おお内内うち山山やまをををももも今今いまはははよそよそよそにににぞぞぞ見見み給給たまひひいけるけるける。。。年年とし頃頃ごろ見見みなれなれなれ奉奉たてまつりりりししし雜雜ぞう色色しき、、、牛牛うし飼飼かいににに至至いたるるるまでまでまで、、、皆皆みな涙涙なみだををを流流ながししし、、、袖袖そでををを濡濡ぬらさらさらさぬぬぬははは無無なかりかりかりけりけりけり。。。ましてましてまして都都みやこににに殘殘のこりりり止止とどまりまりまり給給たまふふう北北きたののの方方かた、、、をさなきをさなきおさなき人人ひと々々びとののの心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 4鳥鳥と羽羽ば殿殿どのををを過過すぎぎぎ給給たまふふうにににももも、、、このこのこの御御ご所所しょへへへ御御ご幸幸こうなりなりなりしししにににははは、、、一一いち度度どももも御御おん供供ともにににははははづれはづれはずれざりざりざりしししものものものをををとてとてとて、、、わがわがわが山山さん莊莊そう、、、洲洲す濱濱はま殿殿どのとてとてとてありありありしししをををももも、、、よそよそよそににに見見みてててこそこそこそ通通とおららられれれけれけれけれ。。。鳥鳥と羽羽ばののの南南みなみののの門門もん出出いでででててて、、、船船ふねおそしおそしおそしとととぞぞぞ急急いそがががせせせけるけるける。。。
- 5大大だい納納な言言ごん、、、「「「同同おなじくじくじく失失うしなははわるるるべくべくべくばばば、、、都都みやこ近近ちかきききこのこのこの邊邊へんにににてててもももあれあれあれかしかしかし。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいけるけるけるこそこそこそ、、、せめてせめてせめてののの事事ことなれなれなれ。。。近近ちこううう添添そひひい奉奉たてまつつつったるたるたる武武ぶ士士しををを、、、「「「誰誰たそそそ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「難難なん波波ばののの次次じ郎郎ろう經經つね遠遠とお。。。」」」ととと、、、名名な乘乘のりりり申申もうすすす。。。「「「もしもしもしこのこのこの邊邊へんにににわがわがわが方方かたざまざまざまののの者者ものやややあるあるある、、、一一ひと人人り尋尋たずねねねててて參參まいらせらせらせよよよ。。。船船ふねににに乘乘のらららぬぬぬさきさきさきにににいひいひいい置置おくくくべきべきべきことことことありありあり。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、經經つね遠遠とおそのそのその邊邊ほとりりり走走はしりりりまはりまはりまわりててて尋尋たずねねねけれけれけれどもどもども、、、われわれわれこそこそこそ大大だい納納な言言ごん殿殿どのののの御御おん方方かたなれなれなれととと申申もうすすす者者もの、、、一一いち人人にんもももなしなしなし。。。
- 6そのそのその時時とき大大だい納納な言言ごん、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「さりともさりともさりともわがわがわが世世よにににありありありししし時時ときははは、、、從從したがひひいつきつきつきししし者者ものどもどもども、、、一一いち二二に千千せん人人にんもももありありありつらんつらんつらんににに、、、今今いまはははよそよそよそにににてててだにだにだに、、、このこのこの有有あり樣樣さまををを見見み送送おくるるる者者もののののなかりなかりなかりけるけるける悲悲かなしさしさしさよよよ。。。」」」とてとてとて泣泣なかかかれれれけれけれければばば、、、たけきたけきたけき武武もの士士のうどもどもどもももも、、、みなみなみな鎧鎧よろいののの袖袖そでをををぞぞぞぬらしぬらしぬらしけるけるける。。。たゞたゞただ身身みににに添添そふふうものものものとてとてとてははは、、、つきつきつきせせせぬぬぬ涙涙なみだばかりばかりばかりなりなりなり。。。
- 7熊熊くま野野の詣詣もうででで、、、天天てん王王おう寺寺じ詣詣もうでででなどなどなどにににははは、、、二二ふたつつつ瓦瓦がわらののの三三みつつつ棟棟むねににに造造つくりりりたるたるたる船船ふねににに乘乘のりりり、、、つぎつぎつぎののの船船ふね二二に三三さん十十じっ艘艘そう、、、漕漕こぎぎぎつゞけつゞけつづけてててこそこそこそありありありしししににに、、、今今いまはははけしかるけしかるけしかる、、、かきかきかきすゑすゑすえ屋屋や形形かた船船ぶねににに、、、大大おお幕幕まく引引ひかかかせせせ、、、見見みもももなれなれなれぬぬぬ兵兵つわものどもどもどもににに具具ぐせせせられられられててて、、、今日今日きょうをををかぎりかぎりかぎりににに都都みやこををを出出いでででててて、、、波波なみ路路じはるかはるかはるかににに赴赴おもむかかかれれれけんけんけん心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 8新新しん大大だい納納な言言ごんははは死死し罪罪ざいににに行行おこなははわるるるべかりべかりべかりししし人人ひとののの、、、流流る罪罪ざいににになだめなだめなだめられられられけるけるける事事ことははは、、、ひとへひとへひとえににに小小こ松松まつ殿殿どののののやう〳〵やう〳〵ようようににに申申もうささされれれけるけるけるににに依依よつつってててなりなりなり。。。そのそのその日日ひははは攝攝つ津津のののの國國くにののの大大だい物物もつののの浦浦うらにににぞぞぞ著著つききき給給たまふふう。。。
- 9あくるあくるあくる三三みつ日日かののの日日ひ、、、大大だい物物もつののの浦浦うらへへへははは京京きょうよりよりより御御おん使使つかいありありありとてとてとて犇犇ひしきききけりけりけり。。。大大だい納納な言言ごんそこそこそこにににててて失失うしなへへえとととにににやややととと聞聞ききききたまへたまへたまえばばば、、、さささはははなくなくなくしてしてして備備び前前ぜんののの兒兒こ島島じまへへへ流流ながすすすべしべしべしとととののの御御おん使使つかいなりなりなり。。。又又また小小こ松松まつ殿殿どのよりよりよりののの御御おん文文ふみありありあり、、、「「「あはれあはれあわれいかにいかにいかにもももしてしてして、、、都都みやこ近近ちかききき片片かた山山やま里里ざとにににももも置置おききき奉奉たてまつらららばやばやばやととと、、、さしもさしもさしも申申もうしししつるつるつる事事ことののの叶叶かなははわざりざりざりけるけるける事事ことこそこそこそ、、、世世よにににあるあるあるかひかひかいももも候候そうらははわねねね。。。さりながらさりながらさりながら御御おん命命いのちばかりばかりばかりをををばばば、、、請請こひひい受受うけけけ奉奉たてまつつつっててて候候そうろうぞぞぞ、、、御御み心心こころやすうやすうやすうおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて難難なん波波ばがががもともともとへへへももも、、、「「「よく〳〵よく〳〵よくよく宮宮みや仕仕づかへへえ奉奉たてまつれれれ。。。相相あい構構かまへへえててて御御み心心こころにににばしばしばし違違たがふふうななな。。。」」」などなどなどのたまひのたまひのたまいつかはしつかはしつかわし、、、旅旅たびのののよそほひよそほひよそおい、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと沙沙さ汰汰たししし送送おくららられれれたりたりたり。。。
- 10新新しん大大だい納納な言言ごんはははさしもさしもさしも忝忝かたじけのううう思思おぼし召召めささされれれつるつるつる君君きみにににもももはなれはなれはなれまゐらせまゐらせまいらせ、、、つかつかつかののの間間まももも去去さりりりがたうがたうがとうおもはおもはおもわれれれけるけるける北北きたののの方方かた、、、幼幼おさなききき人人ひと々々びとにににももも、、、みなみなみな別別わかれれれはてはてはてててて、、、こここはははいづちいづちいずちへへへとてとてとて行行ゆくくくらんらんらん。。。復復ふたびびび故故こ鄕鄕きょうににに歸歸かえつつっててて、、、妻妻さい子子しををを相相あい見見みんんん事事こともももありがたしありがたしありがたし。。。一一ひと年年とせ山山さん門門もんののの訴訴そ訟訟しょうににに依依よつつっててて、、、既既すでににに流流ながささされれれしししをををももも、、、君君きみ惜惜おしましましませせせ給給たまひひいててて、、、西西にしののの七七しち條條じょうよりよりより召召めし返返かえささされれれぬぬぬ。。。さればさればさればこれこれこれははは君君きみののの御御おん誡誡いましめめめにににもももあらあらあらずずず、、、こここはははいかにいかにいかにしししつるつるつる事事ことどもどもどもぞぞぞやややととと、、、天天てんににに仰仰あおぎぎぎ地地ちににに俯俯ふしししててて泣泣なききき悲悲かなしめしめしめどもどもども、、、かひかひかいぞぞぞなきなきなき。。。
- 11あけあけあけけれけれければばば船船ふねおしおしおし出出いだしししててて下下くだりりり給給たまふふうににに、、、道道みちすがらすがらすがらたゞたゞただ涙涙なみだにににのみのみのみむせびむせびむせびててて、、、ながらふながらふながらうべしべしべしとととももも覺覺おぼえええねねねどもどもども、、、さすがさすがさすが露露つゆののの命命いのちははは消消きえええやらやらやらずずず。。。跡跡あとののの白白しら波波なみへだつれへだつれへだつればばば、、、都都みやこははは次次し第第だいににに遠遠とおざかりざかりざかり、、、日日ひ數數かずやう〳〵やう〳〵ようよう重重かさぬれぬれぬればばば、、、遠遠おん國國ごくははは既既すでににに近近ちかづきづきづきぬぬぬ。。。
- 12備備び前前ぜんののの兒兒こ島島じまににに漕漕こぎぎぎ寄寄よせせせててて、、、民民たみののの家家やのののあさましげあさましげあさましげなるなるなる柴柴しばののの庵庵いおりににに入入いれれれ奉奉たてまつるるる。。。島島しまのののならひならひならい、、、後後うしろははは山山やま、、、前前まえははは海海うみ、、、磯磯いそののの松松まつ風風かぜ、、、浪浪なみののの音音おと、、、いづれいづれいずれもももあはれあはれあわれつきつきつきせせせずずず。。。
現代語訳
そうしているうちに六月二日、新大納言成親卿を公卿の座にお出し申して食膳を差し上げたけれども、胸がふさがって、お箸を取ることさえできない。預かりの武士の難波次郎経遠が御車を寄せて「早く、早く」と申したので、大納言は心ならずもお乗りになった。
ああ、何とかしてもう一度小松殿にお会いしたいと思われたけれども、それもかなわない。見回すと兵どもが前後左右を取り囲んで、自分の味方の者は一人もいない。たとえ重い罪を受けて遠国へ流される者でも、一人の供もつけないということがあるだろうかと、車の中で嘆き訴えられたので、護衛の武士どもも、みな鎧の袖を濡らした。
西の朱雀大路を南へ行くと、大内裏も今はよそごとのようにご覧になった。長年見慣れていた雑色や牛飼に至るまで、みな涙を流し、袖を濡らさない者はなかった。まして都に残っておられる北の方や幼い子どもたちの心のうちは、推し量られてあわれである。
鳥羽殿を通り過ぎられるにつけても、この御所へ法皇がお出ましになったときには、一度もお供から外れたことはなかったのにと思い、自分の山荘の洲浜殿というのがあったのも、よそごとのように見て通られた。鳥羽の南の門を出て、船が遅いと急がせた。
大納言は「同じく殺されるのなら、都に近いこのあたりであってほしい」とおっしゃったのは、せめてもの願いである。そばに付き添っている武士に「だれだ」とお尋ねになると、「難波次郎経遠」と名のり申した。「もしこのあたりに私の味方の者がいるか、一人探して連れてきてくれ。船に乗る前に言い残しておくことがある」とおっしゃったので、経遠はそのあたりを走り回って探したけれども、私こそ大納言殿の味方ですと申す者は一人もいなかった。
そのとき大納言は涙をはらはらと流して、「それでも私が世にあったときは、従いついていた者どもが一、二千人もいただろうに、今はよそからでさえ、この有様を見送る者がいないことの悲しさよ」といって泣かれたので、たけだけしい武士どもも、みな鎧の袖を濡らした。ただ身に添うものといっては、尽きない涙だけである。
熊野詣でや天王寺詣でなどの折には、二重の瓦屋根の三つ棟に造った船に乗り、従う船二、三十艘を漕ぎ連ねていたのに、今は粗末な、担ぎ据えたような屋形船に大幕を引かせ、見慣れない兵どもに連れられて、今日を限りに都を出て、波路はるかに向かわれたであろう心のうちは、推し量られてあわれである。
新大納言が死罪になるはずであったのに流罪に緩められたのは、ひとえに小松殿がいろいろと申されたからである。その日は摂津国の大物の浦にお着きになった。
翌三日、大物の浦へ京から使いが来るといって騒がしかった。大納言は「ここで殺せということか」と聞いておられたが、そうではなくて、備前の児島へ流せという使いであった。また小松殿からのお手紙があって、「ああ、何とかして都に近い片田舎の山里にでもお置き申したいと、あれほど申したことがかなわなかったのは、世に生きているかいもありません。けれどもお命だけはもらい受けましたので、ご安心ください」とあった。難波のところへも「よくよくお仕えせよ。決してお心に背くな」などと言い送り、旅の支度をこまごまと整えて送られた。
新大納言は、あれほどもったいなく目をかけてくださった君にもお別れし、片時も離れがたく思っておられた北の方や幼い子どもたちにも、みな別れ果てて、いったいどこへ行くのだろう。再び故郷に帰って妻子に会うこともむずかしい。先年、延暦寺の訴えによって流されそうになったのも、君が惜しまれて、西の七条から召し返された。だからこれは君のお咎めでもない。これはいったいどうしたことかと、天を仰ぎ地に伏して泣き悲しんだけれども、かいのないことであった。
夜が明けたので船を出して下って行かれたが、道中ただ涙にむせんで、生き長らえられようとも思われないけれども、さすがに露のような命は消えきらない。後ろに引く白波が隔てていくので、都は次第に遠ざかり、日数がしだいに重なると、遠い国はもう近づいた。
備前の児島に漕ぎ寄せて、民家のみすぼらしい柴の庵にお入れ申した。島の常として、後ろは山、前は海、磯の松風や波の音、どれもあわれは尽きない。
意訳
鹿ケ谷事件の首謀者として捕らえられた藤原成親が、都を追われて備前の児島へ流される章段である。かつては熊野詣でにも豪華な船を何十艘も連ねた権勢の人が、粗末な屋形船に乗せられ、見送る者も一人もいない。「さりともわが世にありし時は、従ひつきし者ども、一二千人もありつらんに」という成親の嘆きは、権勢を失った人のもとからいかに人が去っていくかを痛切に伝えている。
その中で重盛だけは、手紙を送って命を請い受けたことを伝え、旅の支度を整え、護送の武士にも心遣いを命じる。成親の流罪は重盛の取りなしの結果であったが、物語は、成親自身が後白河院の寵臣でありながら、院の力ではなく平家の情けによって命をつないでいる皮肉も描いている。
語釈・文法注
文法
- 「せめての事なれ」
- せめてもの願いである、の意。殺されるなら都の近くで、という悲痛な望みをいう。
- 「相構へて御心にばし違ふな」
- 「ばし」は強意の副助詞「ば」+「し」で、禁止の「な」と呼応して、決してお心に背くな、の意。
- 「けしかる」
- 異様な、粗末な、の意。
解説
藤原成親は備前の児島に流されたが、やがて有木の別所に移され、そこで殺される(「新大納言の死去の事」)。成親の配流地は、平家の勢力圏である西国であり、都から遠ざけるとともに、平家の監視下に置く意図があったと考えられる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、333–336頁(コマ195–197)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日