平家物語 巻第二
教訓の事
謀議の黒幕を後白河法皇と見た清盛は、腹巻を着け、法皇を鳥羽殿に移そうと兵を集める。知らせを聞いた重盛は烏帽子直衣のまま駆けつけ、清盛はあわてて腹巻の上に衣を着る。重盛は涙ながらに、出家の身で甲冑をまとう非礼と、四恩の中でもっとも重い朝恩を説き、法皇に背くことの非を諫める。
- 1太太だい政政じょうののの入入にゅう道道どうはははかやうかやうかようににに、、、人人ひと々々びとあまたあまたあまた縛縛いましめめめ置置おきききてててももも、、、なほなほなお心心こころゆかゆかゆかずずずややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、既既すでににに赤赤あか地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに、、、黑黑くろ絲絲いと緘緘おどしののの腹腹はら巻巻まきののの、、、白白しろ金金かな物物ものうつうつうつたるたるたる胸胸むな板板いたせめせめせめ、、、先先せん年年ねん安安あ藝藝きののの守守かみたりたりたりししし時時とき、、、神神じん拜拜ぱいのののついでついでついでににに靈靈れい夢夢むををを蒙蒙こうぶつつっててて、、、嚴嚴いつく島島しまののの大大だい明明みょう神神じんよりよりよりうつゝうつゝうつつににに賜賜たまはらはらわられれれたりたりたりけるけるける、、、銀銀しろがねののの蛭蛭ひる巻巻まきしししたるたるたる小小こ長長なぎ刀刀なた、、、常常つねののの枕枕まくらををを放放はなたたたずずず立立たてててられられられしししををを脇脇わきにににはさみはさみはさみ、、、中中ちゅう門門もんののの廊廊ろうにににぞぞぞ出出いでででられられられたるたるたる。。。大大おお方方かたそのそのその氣氣き色色しょく、、、ゆゝしうゆゝしうゆゆしゅうぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 2「「「貞貞さだ能能よし」」」ととと召召めすすす。。。筑筑ちく後後ごののの守守かみ貞貞さだ能能よしははは木木もく蘭蘭らん地地じののの直直ひた垂垂たれににに、、、緋緋ひ緘緘おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、御御ご前前ぜんににに畏畏かしこまつまつまってててぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。
- 3入入にゅう道道どう宣宣のたまひひいけるけるけるははは、、、「「「いかにいかにいかに貞貞さだ能能よし、、、このこのこの事事こといかゞいかゞいかが思思おもふふうぞぞぞ。。。保保ほう元元げんににに平平へい右右う馬馬まののの助助すけををを始始はじめめめとととしてしてして一一いち門門もんなかばなかばなかば過過すぎぎぎててて、、、新新しん院院いんののの御御み方方かたににに參參まいりりりにににききき。。。一一いちののの宮宮みやののの御御おん事事ことははは故故こ刑刑ぎょう部部ぶ卿卿きょうののの殿殿とのののの養養よう君君くんにににてててましましましましましましかかかばばば、、、かた〴〵かた〴〵かたがた見見みはなちはなちはなち參參まいらららせせせ難難がたかりかりかりしかしかしかどもどもども、、、故故こ院院いんののの御御ご遺遺ゆい誡誡かいにににまかせまかせまかせててて御御み方方かたにににててて先先さきをををかけかけかけたりたりたりききき。。。これこれこれ一一ひとつつつののの奉奉ほう公公こう。。。
- 4次次つぎににに平平へい治治じ元元がん年年ねん十十じゅう二二に月月がつ、、、信信のぶ賴賴より、、、義義よし朝朝ともががが謀謀む叛叛ほんののの時時とき、、、院院いん、、、内内うちををを取取とりりり奉奉たてまつつつっててて、、、大大だい内内だいににに立立たて籠籠こもりりり、、、天天てん下下か暗暗くら闇闇やみとととなつなつなったりたりたりしししにににももも、、、入入にゅう道道どう隨隨ずい分分ぶん身身みををを棄棄すてててててて、、、兇兇きょう徒徒とををを追追おひひい落落おとししし、、、經經つね宗宗むね、、、維維これ方方かたををを召召めし縛縛いましめめめしししににに至至いたるるるまでまでまで、、、君君きみののの御御おん爲爲ためににに既既すでににに命命いのちををを失失うしなははわんんんとととするするする事事こと、、、度度ど度度どににに及及およぶぶぶ。。。さればさればされば人人ひと何何なにととと申申もうすすすともともとも、、、いかでいかでいかで此此こののの一一いち門門もんをををばばば七七しち代代だいまでまでまではははおぼしめしおぼしめしおぼしめし捨捨すてててさせさせさせ給給たまふふうべきべきべき。。。
- 5それそれそれににに成成なり親親ちかととといふいふいう無無む用用ようのののいたづらいたづらいたずらものものもの、、、西西さい光光こうととと申申もうすすす下下げ賤賤せんののの不不ふ當當とう人人にんががが申申もうすすす事事ことににに、、、君君きみのののつかつかつかせせせ給給たまひひいててて、、、やゝやゝややもももすれすれすればばばこのこのこの一一いち門門もん亡亡ほろぼさぼさぼさるるるべきべきべき由由よしののの御御ご結結けっ構構こうこそこそこそ、、、然然しかるるるべからべからべからねねね。。。このこのこの後後のちももも讒讒ざん奏奏そうするするする者者ものあらあらあらばばば、、、當當とう家家け追追つい討討とうののの院院いん宣宣ぜんををを下下くだささされれれつつつととと覺覺おぼゆるゆるゆるぞぞぞ。。。朝朝ちょう敵敵てきとととなつなつなっててて後後のちははは、、、いかにいかにいかに悔悔くゆゆゆともともとも益益えきあるあるあるまじまじまじ。。。
- 6しばらくしばらくしばらく世世よをををしづめしづめしずめんんんほどほどほど、、、法法ほう皇皇おうをををばばば鳥鳥と羽羽ばののの北北きた殿殿どのへへへ移移うつししし參參まいらするらするらするかかか、、、しからしからしからずずずばばばこれこれこれへへへまれまれまれ、、、御御ご幸幸こうをををなしなしなし參參まいらららせせせんんんととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。そのそのその儀儀ぎならならならばばば、、、定定さだめめめててて北北ほく面面めんののの者者ものどもどもどもががが中中なかよりよりより、、、矢矢やをををももも一一ひとつつつ射射いんんんずずずらんらんらん。。。そのそのその用用よう意意いせよせよせよととと、、、侍侍さぶらいどもどもどもににに觸觸ふるるるべしべしべし。。。大大おお方方かたははは入入にゅう道道どう、、、院院いん方方がたののの奉奉ほう公公こう思思おもひひい切切きつつったりたりたり。。。馬馬うまににに鞍鞍くら置置おかかかせせせよよよ、、、きせながきせながきせなが取取とりりり出出いだせせせ。。。」」」とととこそこそこそのたまひのたまひのたまいけれけれけれ。。。
- 7主主しゅ馬馬めののの判判ほう官官がん盛盛もり國國くに、、、急急いそぎぎぎ小小こ松松まつ殿殿どのへへへ馳馳はせせせ參參まいつつっててて、、、「「「世世よははははやはやはやかうかうこう候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、大大おと臣臣ど聞聞ききききもももあへあへあえ給給たまははわずずず、、、「「「あゝあゝああはやはやはや成成なり親親ちかののの卿卿きょうののの頭頭こうべののの刎刎はねねねられられられたんたんたんななな。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「そのそのその儀儀ぎにににてててははは候候そうらははわねねねどもどもども、、、入入にゅう道道どう殿殿どのののの御御おんきせながきせながきせながををを召召めささされれれ候候そうろう上上うえははは、、、侍侍さぶらいどもどもどもももも、、、みなみなみなうちうちうち立立たつつっててて、、、たゞたゞただ今今いま院院いんののの御御ご所所しょ、、、法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのへへへ寄寄よせせせんんんとととこそこそこそ出出いででで立立たちちち候候そうらひひいつれつれつれ。。。しばらくしばらくしばらく世世よをををしづめしづめしずめんんんほどほどほど、、、法法ほう皇皇おうをををばばば鳥鳥と羽羽ばののの北北きた殿殿どのへへへ移移うつししし參參まいらするらするらするかかか、、、然然しからららずずずばばばこれこれこれへへへまれまれまれ、、、御御ご幸幸こうをををなしなしなし參參まいらららせせせうううとととははは候候そうらへへえどもどもども、、、内内ない々々ないははは鎭鎭ちん西西ぜいののの方方かたへへへ流流ながししし參參まいらららせせせんんんとととこそこそこそ、、、議議ぎせせせられられられ候候そうらひひいつれつれつれ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、
- 8大大おと臣臣ど何何なにににによつよつよっててて、、、只只ただ今今いまさるさるさる事事ことのののおはすおはすおわすべきべきべきとととははは思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、今今け朝朝さののの禪禪ぜん門門もんののの氣氣き色色しょく、、、さるさるさる物物ものぐるほしきぐるほしきぐるおしき事事こともももやややおはすおはすおわすらんらんらんとてとてとて、、、急急いそぎぎぎ車車くるまををを飛飛とばばばせせせててて、、、西西にし八八はち條條じょう殿殿どのへへへぞぞぞおはしおはしおわしたるたるたる。。。門門もん前前ぜんにににててて車車くるまよりよりより下下おりりり、、、門門もんののの中中うちへへへさしさしさし入入いりりりててて見見み給給たまふふうににに、、、入入にゅう道道どう腹腹はら巻巻まきををを著著き給給たまふふう上上うえ、、、一一いち門門もんののの卿卿けい相相しょう雲雲うん客客かく數數す十十じゅう人人にん、、、各各おのおの色色いろ々々いろののの直直ひた垂垂たれににに、、、おもひ〳〵おもひ〳〵おもいおもいののの鎧鎧よろい著著きててて、、、中中ちゅう門門もんののの廊廊ろうににに二二に行行ぎょうににに著著つかせせせられられられたりたりたり。。。そのそのその外外ほか諸諸しょ國國こくののの受受じゅ領領りょう、、、衞衞え府府ふ、、、諸諸しょ司司しなどなどなどははは緣緣えんにににゐゐいこぼれこぼれこぼれ、、、庭庭にはにににもももひしとひしとひしと竝竝なみみみゐゐいたりたりたり。。。旗旗はた竿竿ざおなどなどなど引引ひきききそばめくそばめくそばめく、、、馬馬うまののの腹腹はら帶帶おびをををかためかためかため、、、兜兜かぶとののの緖緖ををををしめしめしめ、、、たゞたゞただ今今いまみなみなみなうちうちうち立立たたたたんんんずるずるずる氣氣け色色しきどもどもどもなるなるなるににに、、、小小こ松松まつ殿殿どの烏烏え帽帽ぼ子子し直直なお衣衣しににに、、、大大だい紋紋もんののの指指さし貫貫ぬきのののそばそばそば取取とつつっててて、、、さやめきさやめきさやめき入入いりりり給給たまへへえばばば、、、殊殊ことののの外外ほかにににぞぞぞ見見みえええられられられけるけるける。。。
- 9入入にゅう道道どうふしふしふしめめめににになつなつなっててて、、、あはれあはれあわれ例例れいののの内内だい府府ふががが、、、世世よをををへうするへうするひょうする樣樣ようにににふるまふふるまふふるまうものものものかなかなかな。。。大大おおきききににに諫諫いさめめめばやばやばやととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、さすがさすがさすが子子こながらながらながらももも、、、内内うちにににははは五五ご戒戒かいををを保保たもつつっててて慈慈じ悲悲ひををを先先さきとととししし、、、外外そとにににははは五五ご常常じょうををを亂亂みだらららずずず、、、禮禮れい儀儀ぎををを正正ただしうしうしゅうししし給給たまふふう人人ひとなれなれなればばば、、、あのあのあの姿姿すがたににに腹腹はら巻巻まきををを著著きててて向向むかははわんんん事事こと、、、さすがさすがさすがおもはゆうおもはゆうおもわゆう、、、恥恥はずかしうかしうかしゅうややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、障障しょう子子じををを少少すこししし引引ひき立立たててて、、、腹腹はら巻巻まきののの上上うえににに素素そ絹絹けんののの衣衣ころもををを、、、あわてあわてあわて著著ぎににに著著きたまひたまひたまいたりたりたりけるけるけるががが、、、胸胸むな板板いたののの金金かな物物ものののの、、、少少すこしししはづれはづれはずれててて見見みえええけるけるけるををを隱隱かくさささうううととと、、、頻頻しきりりりににに衣衣ころもののの胸胸むねををを引引ひきききちがへ〳〵ちがへ〳〵ちがえちがえぞぞぞしししたまひたまひたまいけるけるける。。。
- 10大大おと臣臣どははは舍舍しゃ弟弟てい宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうののの座座ざ上上しょうにににつきつきつきたまふたまふたまう。。。入入にゅう道道どう宣宣のたまひひい出出いださささるゝるゝるる事事こともももなくなくなく、、、大大おと臣臣どもももまたまたまた申申もうししし上上あげげげらるゝらるゝらるる旨旨むねもももなしなしなし。。。やゝやゝややあつあつあっててて入入にゅう道道どう宣宣のたまひひいけるけるけるははは、、、「「「あのあのあの成成なり親親ちかののの卿卿きょうががが謀謀む叛叛ほんははは、、、事事ことののの數數かずにににももも候候そうらははわずずず。。。一一いっ向向こう法法ほう皇皇おうののの御御ご結結けっ構構こうにににててて候候そうらひひいけるけるけるぞぞぞややや。。。しばらくしばらくしばらく世世よをををしづめしづめしずめんんんほどほどほど、、、法法ほう皇皇おうをををばばば鳥鳥と羽羽ばののの北北きた殿殿どのへへへ遷遷うつししし參參まいらするらするらするかかか、、、しからしからしからずずずばばばこれこれこれへへへまれまれまれ、、、御御ご幸幸こうをををなしなしなし參參まいらららせせせんんんとととおもふおもふおもうははは如如い何何かににに。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、大大おと臣臣ど聞聞ききききもももあへあへあえ給給たまははわずずず、、、はら〳〵はら〳〵はらはらとととぞぞぞ泣泣なかかかれれれけるけるける。。。入入にゅう道道どう、、、「「「さてさてさていかにいかにいかにやややいかにいかにいかに。。。」」」とととあきれあきれあきれ給給たまへへえばばば、、、
- 11やゝやゝややあつあつあっててて大大おと臣臣ど涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて、、、「「「このこのこの仰仰おおせせせ承承うけたまわりりり候候そうろうににに、、、御御ご運運うんははははやはやはや末末すえににになりなりなりぬぬぬととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。人人ひとののの運運うん命命めいののの傾傾かたぶかかかんんんとてとてとてははは、、、必必かならずずず惡惡あく事事じをををおもひおもひおもい立立たちちち候候そうろうなりなりなり。。。またまたまた御御おん有有あり樣樣さまををを見見み參參まいらららせせせ候候そうろうににに、、、さらにさらにさらにうつゝうつゝうつつとととももも覺覺おぼえええずずず候候そうろう。。。さすがさすがさすがわがわがわが朝朝ちょうははは、、、邊邊へん地地ち粟粟ぞく散散さんののの境境さかいとととははは申申もうしししながらながらながら、、、天天てん照照しょう大大だい神神じんののの御御ご子子し孫孫そん國國くにののの主主あるじとととしてしてして、、、天天あめ兒兒の屋屋こや根根ね命命のみことののの御御おん末末すえ、、、朝朝ちょうののの政政まつりごとををを掌掌つかさどらららせせせ給給たまひひいしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じんののの官官かんににに至至いたるるる人人ひとののの甲甲かっ冑冑ちゅうををを鎧鎧よろふふう事事こと、、、禮禮れい儀儀ぎををを背背そむくくくにににあらあらあらずずずややや。。。なかんづくなかんづくなかんずく御御ご出出しゅっ家家けののの御御おん身身みなりなりなり。。。
- 12それそれそれ三三さん世世ぜののの諸諸しょ佛佛ぶつ、、、解解げ脫脫だっ幢幢どう相相そうののの法法ほう衣衣えをををぬぎぬぎぬぎ棄棄すてててててて、、、忽忽たちまちちちににに甲甲かっ冑冑ちゅうををを鎧鎧よろひひい、、、弓弓きゅう箭箭せんををを帶帶たいしししましまさましまさましまさんんん事事こと、、、内内うちにににははは破破は戒戒かい無無む慙慙ざんののの罪罪つみををを招招まねくくくのみのみのみならならならずずず、、、外外そとにににははは仁仁じん義義ぎ禮禮れい智智ち信信しんののの法法ほうにににももも背背そむききき候候そうらひひいなななんんんずずず。。。かた〴〵かた〴〵かたがた恐恐おそれれれあるあるある申申もうししし事事ごとにににててて候候そうらへへえ共共ども、、、心心こころののの底底そこににに旨旨し趣趣しゅををを殘殘のこすすすべきべきべきにににももも候候そうらははわずずず。。。
- 13まづまづまず世世よににに四四し候候そうろう。。。天天てん地地ちののの恩恩おん、、、國國こく王王おうののの恩恩おん、、、父父ぶ母母もののの恩恩おん、、、衆衆しゅ生生じょうののの恩恩おんこれこれこれなりなりなり。。。そのそのその中中なかににに最最もっとももも重重おもきききははは朝朝ちょう恩恩おんなりなりなり。。。普普ふ天天てんののの下下した、、、王王おう地地じにににあらあらあらずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。さればさればさればかのかのかの穎穎えい川川せんののの水水みずににに耳耳みみををを洗洗あらひひい、、、首首しゅ陽陽よう山山ざんににに薇薇わらびををを折折おりりりししし賢賢けんももも、、、敕敕ちょく命命めいののの背背そむききき難難がたききき禮禮れい儀儀ぎをををばばば存存ぞん知知じすすすとととこそこそこそ承承うけたまわれれれ。。。
- 14いかにいかにいかに況況いわんんんややや先先せん祖祖ぞにににももも未未いまだだだ聞聞きかかかざつざつざっししし太太だい政政じょう大大だい臣臣じんををを極極きわめめめさせさせさせ給給たまふふう。。。いはゆるいはゆるいわゆる重重しげ盛盛もりががが無無む才才さい愚愚ぐ闇闇あんののの身身みををを以以もっててて、、、蓮蓮れん府府ぷ槐槐かい門門もんののの位位くらいににに至至いたるるる。。。しかのみならずしかのみならずしかのみならず國國こく郡郡ぐん、、、半半なかばばばははは一一いち門門もんののの所所しょ領領りょうとととなつなつなっててて、、、田田でん園園えん悉悉ことごとくくく一一いっ家家けののの進進しん止止じたりたりたり。。。これこれこれ希希き代代たいののの朝朝ちょう恩恩おんにににあらあらあらずずずややや。。。今今いまこれらこれらこれらののの莫莫ばく大大たいののの御御ご恩恩おんををを思思おぼし召召めししし忘忘わすれれれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、みだりがはしくみだりがはしくみだりがわしく法法ほう皇皇おうををを傾傾かたぶけけけ參參まいらららせせせ給給たまははわんんんことことこと、、、天天てん照照しょう大大だい神神じん、、、正正しょう八八はち幡幡まん宮宮ぐうののの神神しん慮慮りょにににももも背背そむかかかせせせ給給たまひひい候候そうらひひいなななんんんずずず。。。それそれそれ日日にっ本本ぽんははは神神しん國國こくなりなりなり。。。神神かみははは非非ひ禮禮れいををを受受うけけけ給給たまふふうべからべからべからずずず。。。
- 15しかれしかれしかればばば君君きみのののおぼしめしおぼしめしおぼしめし立立たたたたせせせ給給たまふふう所所ところ、、、道道どう理理り半半なかばばばなきなきなきにににあらあらあらずずず。。。中中なかにににもももこのこのこの一一いち門門もんははは、、、代代だい々々だいののの朝朝ちょう敵敵てきををを平平たいらげらげらげててて、、、四四し海海かいののの逆逆げき浪浪ろうををを靜靜しずむるむるむる事事ことははは、、、無無ぶ雙雙そうののの忠忠ちゅうなれなれなれどもどもども、、、そのそのその賞賞しょうににに誇誇ほこるるる事事ことははは、、、傍傍ぼう若若じゃく無無ぶ人人じんともともとも申申もうしししつつつべしべしべし。。。聖聖しょう德德とく太太たい子子し十十じゅう七七しち個個か條條じょうののの御御おん憲憲けん法法ぽうににに、、、『『『人人ひとみなみなみな心心こころありありあり、、、心心こころおの〳〵おの〳〵おのおの執執しゅうありありあり。。。かれかれかれををを是是ぜししし、、、われわれわれををを非非ひししし、、、われわれわれををを是是ぜししし、、、かれかれかれををを非非ひすすす。。。是是ぜ非非ひののの理理ことわり、、、誰誰たれかかかよくよくよく定定さだむむむべきべきべき。。。相相あい共共ともににに賢賢けん愚愚ぐなりなりなり、、、環環たまきののの如如ごとくくくにににしてしてして端端はしなしなしなし。。。こゝこゝここををを以以もっててて、、、たとひたとひたとい人人ひと怒怒いかるるるととといふいふいうともともとも、、、卻卻かえつつってててわがわがわが咎咎とがををを恐恐おそれれれよよよ。。。』』』とととこそこそこそ見見みえええててて候候そうらへへえ。。。
- 16然然しかれれれどもどもども當當とう家家けののの運運うん命命めい、、、未未いまだだだ盡盡つきききざるざるざるににに依依よつつっててて、、、御御ご謀謀む叛叛ほん既既すでにににあらはれあらはれあらわれさせさせさせ給給たまひひい候候そうらひひいぬぬぬ。。。そのそのその上上うえ仰仰おおせせせあはせあはせあわせらるゝらるゝらるる成成なり親親ちかののの卿卿きょうををを、、、召召めししし置置おかかかれれれぬるぬるぬる上上うえははは、、、たとひたとひたとい君君きみいかなるいかなるいかなる不不ふ思思し議議ぎををを思思おぼし召召めししし立立たたたたせせせ給給たまふふうともともとも、、、何何なにののの恐恐おそれれれかかか候候そうろうべきべきべき。。。所所しょ當當とうののの罪罪ざい科科か行行おこなははわれれれぬるぬるぬる上上うえははは、、、退退しりぞいいいててて事事ことののの由由よしををを陳陳ちんじじじ申申もうさささせせせ給給たまひひいててて、、、君君きみののの御御おん爲爲ためにににははは、、、いよ〳〵いよ〳〵いよいよ奉奉ほう公公こうののの忠忠ちゅう勤勤きんをををつくしつくしつくし、、、民民たみののの爲爲ためにににははは、、、ます〳〵ます〳〵ますます撫撫ぶ育育いくののの愛愛あい憐憐れんををを致致いたさささせせせたまはたまはたまわばばば、、、神神しん明明めいののの加加か護護ごににに預預あずかつつっててて、、、佛佛ぶつ陀陀だののの冥冥みょう慮慮りょににに背背そむくくくべからべからべからずずず。。。神神しん明明めい、、、佛佛ぶつ陀陀だ感感かん應應おうあらあらあらばばば、、、君君きみもももおぼしめしおぼしめしおぼしめしなほすなほすなおすことことこと、、、などなどなどかかか候候そうらははわざるざるざるべきべきべき。。。君君きみととと臣臣しんとととをををくらぶるくらぶるくらぶるににに、、、親親しん疎疎そわくわくわく方方かたなしなしなし。。。道道どう理理りとととひがことひがことひがことををを竝竝ならべべべんんんににに、、、いかでいかでいかでかかか道道どう理理りにににつかつかつかざるざるざるべきべきべき。。。」」」
現代語訳
太政入道はこのように多くの人々を縛り置いても、なお気が済まないと思われたのであろうか、もう赤地の錦の直垂に、黒糸縅の腹巻の白金物を打った胸板を締め、先年安芸守であったときに参詣したついでに霊夢を受けて、厳島の大明神から現実に賜った銀の蛭巻をした小長刀を、いつも枕元から離さずに立てておられたのを脇にはさんで、中門の廊にお出になった。その様子は、たいそう恐ろしげに見えた。
「貞能」とお呼びになる。筑後守貞能は木蘭地の直垂に緋縅の鎧を着て、御前にかしこまって控えていた。
入道がおっしゃるには、「どうだ貞能、このことをどう思う。保元の乱では、平右馬助(忠正)をはじめとして一門の半分以上が新院(崇徳院)の味方についた。一の宮(重仁親王)は故刑部卿殿(忠盛)が養育申し上げた方であったので、あれこれと見捨て申しがたかったけれども、故院(鳥羽院)のご遺言どおりに天皇方について先陣をつとめた。これが一つ目の奉公である。
次に平治元年(1159)十二月、信頼・義朝が謀反を起こしたとき、院と天皇を取り押さえ申して大内裏に立てこもり、天下が真っ暗になったときにも、入道は精一杯身を捨てて凶徒を追い落とし、経宗・惟方を捕らえるまで、君のためにすでに命を落としそうになったことはたびたびである。だから人が何と申そうとも、どうしてこの一門を七代まではお見捨てになるはずがあろうか。
それなのに成親という役に立たないろくでなし、西光という卑しい不届き者の申すことに君がお乗りになって、ともすればこの一門を滅ぼそうというお企てこそけしからん。これからも讒言する者があれば、平家追討の院宣を下されるにちがいないと思う。朝敵となってからでは、どれほど悔やんでも益はあるまい。
しばらく世の中を鎮める間、法皇を鳥羽の北殿へお移し申すか、そうでなければこちらへでも御幸をお願いしようと思うがどうだ。そうなれば、きっと北面の者どもの中から矢の一本も射てくるだろう。その用意をせよと侍どもに触れ回れ。入道はもう院への奉公はきっぱり思い切った。馬に鞍を置かせよ。鎧を取り出せ」とおっしゃった。
主馬判官盛国は急いで小松殿へ駆けつけて、「世の中はもうこのようになっております」と申したので、大臣は聞き終わりもしないうちに、「ああ、もう成親卿の首がはねられたのか」とおっしゃると、「そうではございませんが、入道殿が鎧をお召しになったので、侍どももみな出立して、今にも院の御所の法住寺殿へ押し寄せようと支度しておりました。しばらく世を鎮める間、法皇を鳥羽の北殿へお移し申すか、そうでなければこちらへでも御幸をお願いしようとはおっしゃっていますが、内々には九州の方へお流し申そうと評議しておられました」と申したので、
大臣は、どうして今そのようなことがあるはずがあろうと思われたけれども、今朝の禅門の様子では、そのような狂気じみたこともなさるかもしれないと思って、急いで車を飛ばして西八条殿へおいでになった。門前で車から降りて門の中へ入ってご覧になると、入道は腹巻をお着けになっているうえ、一門の公卿・殿上人数十人が、めいめい色とりどりの直垂に思い思いの鎧を着て、中門の廊に二列に着座しておられた。そのほか諸国の受領・衛府・諸司などは縁からあふれ、庭にもぎっしりと並んでいた。旗竿などを手元に引き寄せ、馬の腹帯を締め、兜の緒を締めて、今にもみな出立しようという様子であるのに、小松殿が烏帽子直衣に、大紋の指貫の裾をつまんで、衣ずれの音をさせて入ってこられたので、ことのほか場違いに見えた。
入道は伏し目になって、「ああ、いつもの内府が世の中を軽んじるようにふるまうことよ。うんと叱ってやりたい」と思われたけれども、さすが子ではあっても、内には五戒を守って慈悲を第一とし、外には五常を乱さず礼儀を正しくなさる人なので、あの姿に腹巻を着て向かい合うことは、さすがに気恥ずかしく思われたのだろうか、障子を少し閉めて、腹巻の上に素絹の衣をあわてて着られたが、胸板の金物が少しはみ出して見えるのを隠そうと、しきりに衣の胸元を引き合わせ引き合わせなさった。
大臣は弟の宗盛卿の上座に着かれた。入道は何もおっしゃらず、大臣も申し上げることもない。しばらくして入道がおっしゃるには、「あの成親卿の謀反は問題にもならない。もっぱら法皇のお企てであったのだ。しばらく世を鎮める間、法皇を鳥羽の北殿へお移し申すか、そうでなければこちらへでも御幸をお願いしようと思うがどうだ」とおっしゃると、大臣は聞き終わりもしないうちに、はらはらと泣かれた。入道が「さて、どうした、どうした」とあきれておられると、
しばらくして大臣は涙をおさえて、「このお言葉を承りますと、ご運はもう末になったと思われます。人の運命が傾こうとするときには、必ず悪事を思い立つものです。またご様子を拝見しますと、まったく正気とも思われません。わが国は辺境の粟粒のような小国とは申しながら、天照大神の御子孫が国の主として、天児屋根命の子孫(藤原氏)が朝廷の政治をつかさどってこられてからこのかた、太政大臣の位に至った人が甲冑を着ることは、礼儀に背くことではありませんか。とりわけご出家の御身です。
そもそも三世の諸仏の、解脱のしるしである法衣を脱ぎ捨てて、たちまち甲冑を着、弓矢を帯びられることは、内には戒律を破る恥知らずの罪を招くだけでなく、外には仁義礼智信の道にも背いてしまうでしょう。あれこれと恐れ多い申し上げようではございますが、心の底に思うことを残しておくべきではございません。
まず世の中には四恩があります。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩がこれです。その中でもっとも重いのは朝廷の恩です。天のおおう下で、王の土地でないところはありません。だから、あの穎川の水で耳を洗い、首陽山で薇を摘んだ賢人たちでさえ、勅命には背きがたいという礼儀はわきまえていたと承っております。
まして父上は、先祖にもまだ聞いたことのない太政大臣を極められました。いわゆる重盛のような才能もなく愚かな身でさえ、大臣の位にまで至りました。そればかりか、国や郡の半分は一門の所領となって、田園はことごとく一家の支配下にあります。これは世にも稀な朝廷の恩ではありませんか。今これらの莫大なご恩をお忘れになって、みだりに法皇を倒し申されることは、天照大神や正八幡宮のお心にもお背きになることでしょう。そもそも日本は神の国です。神は非礼を受け入れられることはありません。
ですから君がお思い立ちになったことにも、道理がまったくないわけではありません。なかでもこの一門は、代々の朝敵を平らげて四海の逆巻く波を静めたことは比類のない忠義ですが、その恩賞に誇ることは傍若無人とも申すべきでしょう。聖徳太子の十七条の憲法に、「人にはみな心があり、心にはそれぞれ執着がある。彼を是としてわれを非とし、われを是として彼を非とする。是非の道理を、だれがよく定められようか。互いに賢くもあり愚かでもあって、環のように端がない。だから、たとえ人が怒っても、かえって自分の過ちを恐れよ」と書かれております。
けれども平家の運命がまだ尽きていないので、ご謀反はすでに露見なさいました。そのうえ相談相手の成親卿を召し置かれた以上は、たとえ君がどのような無茶をお思い立ちになっても、何の恐れがありましょう。しかるべき罪科が行われた以上は、退いて事の次第を弁明申し上げなさり、君のためにはいよいよ奉公の忠勤を尽くし、民のためにはますます慈しみ育てる愛情をお注ぎになれば、神のご加護を受け、仏のお心にも背くことはないでしょう。神仏が感応なされば、君もお考えを改められることがどうしてないでしょうか。君と臣とを比べれば、親しい疎いの区別はありません。道理とひがごとを並べたなら、どうして道理につかないことがありましょう」
意訳
鹿ケ谷事件の黒幕が後白河法皇であると確信した清盛は、法皇を鳥羽殿に幽閉するか、九州に流すことまで考え、自ら腹巻を着けて兵を集める。厳島明神から授かったという小長刀を脇にはさむ姿は、怒りに燃える清盛の恐ろしさを示している。
そこへ重盛が、武装した一門の中に烏帽子直衣という平服で入ってくる。清盛が息子の姿を見て、あわてて腹巻の上に衣を着込み、はみ出した胸板を隠そうと何度も衣を引き合わせる場面は、威圧的な清盛が、道理に生きる息子の前では気後れしてしまう姿をユーモラスに描いており、『平家物語』の名場面として知られる。
重盛の諫言は、出家の身で甲冑を着ることは仏法にも儒教にも背くという指摘から始まり、四恩の中で最も重い朝恩を説き、平家の栄華がすべて朝廷の恩によることを思い起こさせる。さらに聖徳太子の十七条憲法を引いて、是非は人によって異なるのだから、まず自らの過ちを恐れよと説く。理を尽くした言葉の積み重ねによって、父を説得しようとする重盛の姿が描かれている。
語釈・文法注
- 四恩
- 仏教でいう、人が受ける四つの恩。経典によって異なるが、ここでは天地・国王・父母・衆生の恩を挙げる。
- 穎川の水に耳を洗ひ、首陽山に薇を折りし賢人
- 帝位を譲ろうと言われて、汚れた話を聞いたと穎川で耳を洗った許由と、周の武王の不義を責めて首陽山にこもり、薇を食べて餓死した伯夷・叔斉。いずれも俗世の権力を拒んだ賢人の代表。
文法
- 「これへまれ」
- 「にもあれ」のつづまった形で、こちらへでも、の意。
- 「世をへうする」
- 「へうす」は、軽んじる、ないがしろにする、の意。
- 「さやめき入り給へば」
- 「さやめく」は、衣ずれの音をさせる、の意。
- 「蓮府槐門」
- 「蓮府」「槐門」はどちらも大臣の唐名。
- 「普天の下、王地にあらずといふ事なし」
- 『詩経』の「普天の下、王土に非ざるは莫し」による。
解説
この章段と次の「烽火の事」は、「小松教訓」の後半にあたり、覚一本などでは「教訓状」と題されて、重盛の諫言の章段として広く知られている。重盛の言葉は、儒教の礼と仏教の戒、神国思想を織り交ぜたもので、中世の人々の考える理想の臣下の姿を示している。
史実の重盛は、鹿ケ谷事件の処理において清盛の強硬策を抑えたとされるが、物語に描かれるほどの劇的な諫言があったかどうかは確かでない。物語は、重盛を「忠ならんと欲すれば孝ならず」という板ばさみに苦しむ人物として描き、その死(巻第三)が平家の転落の始まりになるという構想のもとで、重盛の存在を大きく扱っている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、324–329頁(コマ191–193)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日