平家物語 巻第二
小松教訓の事
西八条に押し込められた成親を、清盛は西光の白状を突きつけてののしり、庭に引き落とさせて責める。遅れて来た重盛は成親を慰め、父には死罪の先例の恐ろしさと積善の教えを説いて、成親の処刑を思いとどまらせる。一方、成親の北の方は幼い子どもたちを連れて北山の雲林院に逃れ、主を失った邸は一夜にして荒れ果てた。
- 1新新しん大大だい納納な言言ごんははは一一ひと間間まなるなるなる所所ところにににおしおしおしこめこめこめられられられててて、、、汗汗あせ水水みずににになりなりなりつゝつゝつつ、、、あはれあはれあわれこれこれこれははは、、、日日ひ頃頃ごろのののあらましあらましあらまし事事ごとののの、、、もれもれもれ聞聞きこえええけるけるけるにににこそこそこそ、、、誰誰たれ洩洩もらしらしらしぬぬぬらんらんらん、、、定定さだめめめててて北北ほく面面めんののの輩輩ともがらののの中中なかにににぞぞぞあるあるあるらんらんらんなんどなんどなんど、、、思思おもははわじじじ事事ことなうなうのう、、、案案あんじじじ續續つづけけけててておはしおはしおわしけるけるける所所ところににに、、、後後うしろよりよりより足足あし音音おとののの高高たからからからかにににしししけれけれければばば、、、すはすはすわたゞたゞただ今今いま、、、わがわがわが命命いのち失失うしなははわんんんとてとてとて、、、武武もの士士のうどもどもどもののの参参まいるるるにににこそこそこそととと思思おもははわれれれけれけれければばば、、、
- 2さささはははなくなくなくしてしてして入入にゅう道道どう、、、板板いた敷敷じきたからかたからかたからかににに蹈蹈ふみみみ鳴鳴ならしらしらし、、、大大だい納納な言言ごんのののおはしおはしおわしけるけるける後後うしろののの障障しょう子子じををを、、、さつとさつとさっと引引ひき開開あけけけててて出出いでででられられられたりたりたり。。。素素そ絹絹けんののの衣衣ころもののの短短みじからからからかなるなるなるににに、、、白白しろききき大大おお口口くち蹈蹈ふみみみくゝみくゝみくくみ、、、聖聖ひじり柄柄ずかののの刀刀かたなおしおしおしくつろげくつろげくつろげててて差差さすすす儘儘ままににに、、、以以もってててののの外外ほかににに怒怒いかれれれるるる氣氣け色色しきにににててて、、、大大だい納納な言言ごんをををしばししばししばし睨睨にらまへまへまえててて、、、
- 3「「「抑抑そもそも御御ご邊邊へんははは、、、平平へい治治じにににももも既既すでににに誅誅ちゅうせせせらるらるらるべかりべかりべかりしししををを、、、内内だい府府ふががが身身みにににかへかへかへててて申申もうししし受受うけけけ、、、首首くびををを繼繼つぎぎぎ奉奉たてまつりりりしししはははいかにいかにいかに。。。然然しかるるるにににそのそのその恩恩おんををを忘忘わすれれれててて、、、何何なにののの遺遺い恨恨こんあつあつあってててかかか、、、當當とう家家け傾傾かたぶけけけうううとととはははししし給給たまふふうなるなるなるぞぞぞ。。。恩恩おんををを知知しるるるををを以以もっててて人人ひとととといふいふいうぞぞぞ。。。恩恩おんををを知知しらららざるざるざるをををばばば畜畜ちく生生しょうとととこそこそこそいへいへいえ。。。されどもされどもされども當當とう家家けののの運運うん命命めい未未いまだだだ盡盡つきききざるざるざるににに依依よつつっててて、、、これこれこれまでまでまでははは迎迎むかへへえたんたんたんなりなりなり。。。日日ひ頃頃ごろのののあらましあらましあらましののの次次し第第だい、、、ぢきぢきじきににに承承うけたまわらららんんん。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、
- 4大大だい納納な言言ごん、、、「「「全全まったくくくさるさるさることことこと候候そうらははわずずず。。。いかさまいかさまいかさまにににももも人人ひとののの讒讒ざん言言げんにににてててぞぞぞ候候そうろうらんらんらん。。。よく〳〵よく〳〵よくよく御御おん尋尋たずねねね候候そうろうべしべしべし。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、入入にゅう道道どういはいはいわせせせもももはてはてはてずずず、、、「「「人人ひとやややあるあるある、、、人人ひとやややあるあるある。。。」」」ととと召召めささされれれけれけれければばば、、、貞貞さだ能能よしつとつとつとまゐりまゐりまいりたりたりたり。。。「「「西西さい光光こうががが白白はく狀狀じょう取取とつつっててて参参まいれれれ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、持持もつつっててて参参まいりりりたりたりたり。。。入入にゅう道道どう之之これををを取取とりりりててて、、、おしおしおし返返かえしししおしおしおし返返かえししし、、、二二に三三さん返返べん高高たからからからかににに讀讀よみみみ聞聞きかかかせせせ、、、「「「あなあなあなにくにくにくややや、、、このこのこの上上うえをををばばば何何なにとととかかか陳陳ちんずずずべかべかべかなるなるなるぞぞぞ。。。」」」とてとてとて、、、大大だい納納な言言ごんののの顏顏かおにににさつとさつとさっと投投なげげげかけかけかけ、、、障障しょう子子じをををちやうちやうちょうととと引引ひき立立たてててててて出出いでででられられられけるけるけるががが、、、なほなほなお腹腹はらをををすゑすゑすえかねかねかねててて、、、「「「經經つね遠遠とお、、、兼兼かね康康やす。。。」」」ととと召召めすすす。。。難難なん波波ばののの次次じ郎郎ろう、、、妹妹せの尾尾おののの太太た郎郎ろう參參まいりりりたりたりたり。。。「「「あのあのあの男男おのこ取取とつつっててて、、、庭庭にはへへへ引引ひき落落おとせせせ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、これらこれらこれらさうなうさうなうそうのうもももししし奉奉たてまつらららずずず、、、「「「小小こ松松まつ殿殿どのののの御御ご氣氣き色色しょく、、、いかゞいかゞいかが候候そうらははわんんんずるずるずるやらやらやらんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、入入にゅう道道どう、、、「「「よし〳〵よし〳〵よしよしおのれらおのれらおのれらははは、、、内内だい府府ふががが命命いのちををを重重おもんんんじじじててて、、、入入にゅう道道どうががが仰仰おおせせせをををばばば輕輕かろうううしししけるけるける、、、ござんなれござんなれござんなれ、、、このこのこの上上うえははは力力ちから及及およばばばずずず。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、これらこれらこれら惡惡あしかりしかりしかりなななんんんとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、立立たちちちあがりあがりあがり、、、大大だい納納な言言ごんののの左左さ右右ゆうののの手手てををを取取とつつっててて、、、庭庭にはへへへ引引ひき落落おとししし奉奉たてまつるるる。。。
- 5そのそのその時時とき入入にゅう道道どう、、、心心ここちちちよげよげよげにににててて、、、「「「取取とつつっててて伏伏ふせせせててて、、、をめかをめかおめかせせせよよよ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。二二ふた人人りののの者者もの共共ども、、、大大だい納納な言言ごんののの左左さ右右ゆうののの耳耳みみににに口口くちをををあてあてあてててて、、、「「「いかさまいかさまいかさまにににももも御御おん聲聲こえののの出出いづづずべうべうびょう候候そうろう。。。」」」とととさゝやいさゝやいささやいててて引引ひき伏伏ふせせせ奉奉たてまつれれればばば、、、二二ふた聲聲こえ三三み聲聲こえをををめかめかめかれれれけるけるける。。。そのそのその體體てい、、、冥冥めい途途どにににててて娑娑しゃ婆婆ば世世せ界界かいののの罪罪ざい人人にんををを、、、或或あるいははは業業ごうののの秤秤はかりにににかけかけかけ、、、或或あるいははは淨淨じょう玻玻は璃璃りののの鏡鏡かがみににに引引ひき向向むけけけててて、、、罪罪つみののの輕輕きょう重重じゅうにににまかせまかせまかせつゝつゝつつ、、、阿阿あ房房ぼう羅羅ら刹刹せつががが呵呵か責責しゃくすすすらんらんらんももも、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 6蕭蕭しょう樊樊はんとらはれとらはれとらわれててて、、、韓韓かん彭彭ほうにらぎにらぎにらぎすさすさすされれれたりたりたり。。。鼂鼂ちょう錯錯そ戮戮りくををを受受うけけけ、、、周周しゅう魏魏ぎ罪罪つみせせせらるらるらる。。。たとへばたとへばたとえば蕭蕭しょう何何か、、、樊樊はん噲噲かい、、、韓韓かん信信しん、、、彭彭ほう越越えつ、、、これらこれらこれらはははみなみなみな、、、高高こう祖祖そののの忠忠ちゅう臣臣しんたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、小小しょう人人じんののの讒讒ざんににに依依よつつっててて、、、禍禍か敗敗はいののの恥恥はじををを受受うくくくともともとも、、、かやうかやうかようののの事事ことをををややや申申もうすすすべきべきべき。。。新新しん大大だい納納な言言ごんはははわがわがわが身身みののの、、、斯斯かくくくなるなるなるにににつけつけつけてててももも、、、子子し息息そく丹丹たん波波ばののの少少しょう將將しょう成成なり經經つね以以い下下げ、、、幼幼おさなききき者者もの共共どもののの、、、いかなるいかなるいかなる憂憂うききき目目めにににあふあふあうらんらんらんととと思思おもひひいやるやるやるにににもももおぼつかなしおぼつかなしおぼつかなし。。。さばかりさばかりさばかり暑暑あつききき六六ろく月月がつににに、、、裝裝しょう束束ぞくをををだにだにだにもももくつろげくつろげくつろげられられられずずず、、、暑暑あつさささももも堪堪たへへえ難難がたけれけれければばば、、、胸胸むねもももせきせきせきあぐるあぐるあぐる心心ここちちちしししててて、、、汗汗あせももも涙涙なみだももも、、、あらそひあらそひあらそいてててぞぞぞ流流ながれれれけるけるける。。。さりともさりともさりとも小小こ松松まつ殿殿どのははは思思おぼし召召めししし放放はなたたたじじじものものものをををととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、誰誰たれしもしもしも申申もうすすすべしべしべしとととももも覺覺おぼえええ給給たまははわずずず。。。
- 7小小こ松松まつののの大大おと臣臣どははは、、、例例れいののの善善ぜん惡惡あくににに騒騒さわぎぎぎ給給たまははわぬぬぬ人人ひとにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、遙遙はるかかかににに日日ひたけたけたけててて後後のち、、、嫡嫡ちゃく子子し權權ごんののの佐佐すけ少少しょう將將しょう維維これ盛盛もりををを、、、車車くるまのののしりしりしりににに乘乘のせせせつゝつゝつつ、、、衞衞え府府ふ四四し五五ご人人にん、、、隨隨ずい身身じん二二に三三さん人人にん召召めししし具具ぐしししててて、、、軍軍ぐん兵兵びょうどもどもどもをををばばば一一ひと人人りももも具具ぐせせせられられられずずず、、、まことまことまことににに大大おおやうやうようげげげにににててておはしおはしおわしたれたれたればばば、、、入入にゅう道道どうををを始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて、、、一一いち門門もんののの人人ひと人人びと、、、みなみなみな思思おもははわずずずげげげにににぞぞぞ見見み給給たまひひいけるけるける。。。
- 8大大おと臣臣ど中中ちゅう門門もんののの口口くちにににててて、、、御御おん車車くるまよりよりよりおりおりおり給給たまふふう所所ところへへへ、、、貞貞さだ能能よしつとつとつと参参まいつつっててて、、、「「「などなどなどこれこれこれほどほどほどののの御御おん大大だい事事じににに、、、軍軍ぐん兵兵びょうをををばばば一一ひと人人りももも召召めししし具具ぐせせせられられられ候候そうらははわぬぬぬやらやらやらんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、大大おと臣臣ど、、、「「「大大だい事事じとととははは天天てん下下かののの事事ことをををこそこそこそいへいへいえ。。。かやうかやうかようののの私私わたくし事事ごとををを、、、大大だい事事じととといふいふいうやうやうようやややあるあるある。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、兵兵ひょう仗仗じょうををを帶帶たいしししたりたりたりけるけるける兵兵つわものどもどもども、、、みなみなみなそゞろいそゞろいそぞろいてててぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。
- 9そのそのその後後のち大大おと臣臣ど、、、大大だい納納な言言ごんをををばばばいづくいづくいずくににに置置おききき奉奉たてまつりりりたるたるたるやらやらやらんんんととと、、、こゝこゝここかしこかしこかしこををを引引ひきききあけ〳〵あけ〳〵あけあけ見見みたまふたまふたまうににに、、、あるあるある障障しょう子子じののの上上うえににに、、、蜘蜘く蛛蛛も手手でゆうゆうゆうたるたるたる所所ところありありあり。。。こゝこゝここやらやらやらんんんとてとてとて開開あけけけられられられたれたれたればばば、、、大大だい納納な言言ごんおはしおはしおわしけりけりけり。。。涙涙なみだにににむせびむせびむせび、、、うつうつうつ伏伏ぶしししててて、、、目目めももも見見みあげあげあげ給給たまははわずずず。。。いかにいかにいかにやややととと宣宣のたまへへえばばば、、、そのそのその時時とき見見みつけつけつけ奉奉たてまつつつっててて、、、うれしうれしうれしげげげににに思思おもははわれれれたるたるたる氣氣け色色しき、、、地地じ獄獄ごくにににててて罪罪ざい人人にんどもどもどもががが、、、地地じ藏藏ぞう菩菩ぼ薩薩さつををを見見み奉奉たてまつるるるらんらんらんももも、、、かくかくかくやややととと覺覺おぼえええてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 10「「「何何なに事事ごとにににててて候候そうろうやらやらやらんんん、、、今今け朝朝さよりよりより斯斯かかるかるかる憂憂うききき目目めにににあひあひあい候候そうろう。。。さてさてさてわたらわたらわたらせせせ給給たまへへえばばば、、、さりともさりともさりともとととこそこそこそ、、、深深ふこううう賴賴たのみみみ奉奉たてまつつつっててて候候そうらへへえ。。。平平へい治治じにににももも既既すでににに誅誅ちゅうせせせらるらるらるべかりべかりべかりしししををを、、、御御ご恩恩おんををを以以もっててて首首くびをををつがつがつがれれれ參參まいらららせせせ、、、あまつさへあまつさへあまつさえ正正じょう二二に位位いののの大大だい納納な言言ごんまでまでまで經經へ上上あがつつっててて、、、年年とし既既すでににに四四し十十じゅうにににあまりあまりあまり候候そうろう。。。御御ご恩恩おんこそこそこそ生生しょう々々じょう世世せ々々せにににももも報報ほうじじじつくしつくしつくしがたうがたうがとう候候そうらへへえどもどもども、、、このこのこの度度たびもももまたまたまた、、、かひかひかいなきなきなき命命いのちををを助助たすけけけさせさせさせおはしませおはしませおわしませ。。。沙沙さ汰汰たにににももも候候そうらははわばばば、、、出出しゅっ家家け入入にゅう道道どう仕仕つかまつりりり、、、いかならいかならいかならんんん片片かた山山やま里里ざとにににももも籠籠こもりりりゐゐいててて、、、一一ひとすぢすぢすじににに後後ご世世せ菩菩ぼ提提だいののの勤勤つとめめめをををいとなみいとなみいとなみ候候そうらははわんんん。。。」」」とととぞぞぞ申申もうささされれれけるけるける。。。
- 11大大おと臣臣ど、、、「「「さささ候候そうらへへえばばばとてとてとて、、、御御おん命命いのち失失うしなひひい奉奉たてまつるるるまでまでまでののの事事ことははは、、、よもよもよも候候そうらははわじじじ。。。たとひたとひたといさささ候候そうろうともともとも、、、重重しげ盛盛もりかうかうこうててて候候そうらへへえばばば、、、御御おん命命いのちにににははは代代かわりりりまゐらせまゐらせまいらせ候候そうろうべしべしべし。。。御御み心心こころやすうやすうやすうおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、父父ちちののの禪禪ぜん門門もんののの御御おん前前まえにににおはしおはしおわしててて、、、
- 12「「「あのあのあの大大だい納納な言言ごん失失うしなははわれれれんんん事事ことははは、、、よく〳〵よく〳〵よくよく御御ご思思し惟惟ゆい候候そうろうべしべしべし。。。そのそのその故故ゆえははは先先せん祖祖ぞ修修しゅ理理りののの大大たい夫夫ふ顯顯あき季季すえ、、、白白しら河河かわののの院院いんににに召召めしししつかはつかはつかわれれれ參參まいらららせせせしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、家家いえにににそのそのその例例れいなきなきなき正正じょう二二に位位いののの大大だい納納な言言ごんににに經經へ上上あがつつっててて、、、あまつさへあまつさへあまつさえ當當とう時時じ、、、君君きみ無無ぶ雙雙そうののの御御おんいとほしみいとほしみいとおしみ、、、頭頭こうべををを刎刎はねねねられられられんんん事事ことしかるしかるしかるべうべうびょうももも候候そうらははわずずず。。。唯唯ただ都都みやこののの外外ほかへへへ出出いだささされれれたらたらたらんんんににに、、、事事こと足足たりりり候候そうらひひいなななんんんずずず。。。
- 13北北きた野野のののの天天てん神神じんははは時時し平平へいののの大大おと臣臣どののの讒讒ざん奏奏そうにににててて、、、うきうきうき名名なををを西西さい海海かいののの浪浪なみににに流流ながししし、、、西西にしののの宮宮みやののの大大おと臣臣どははは、、、多多た田田だののの滿滿まん仲仲じゅうののの讒讒ざん言言げんににに依依よつつっててて、、、恨恨うらみみみををを山山せん陽陽ようののの雲雲くもににに寄寄よすすす。。。各各おのおの無無む實實じつなりなりなりしかしかしかどもどもども、、、流流る罪罪ざいせせせられられられ給給たまひひいにににききき。。。これこれこれみなみなみな延延えん喜喜ぎののの聖聖せい代代だい、、、安安あん和和なののの御御み門門かどののの御御おんひがごとひがごとひがごととととぞぞぞ申申もうししし傳傳つたへへえたるたるたる。。。上上じょう古古こなほなほなおかくかくかくののの如如ごとししし。。。況況いわんんんややや末末まつ代代だいにににおいおいおいてててをををややや。。。賢賢けん王王おうなほなほなお御御おん誤誤あやまりりりありありあり、、、況況いわんんんややや凡凡ぼん人人にんににに於於おいてててをををややや。。。既既すでににに召召めししし置置おかかかれれれぬるぬるぬる上上うえははは、、、急急いそぎぎぎ失失うしなははわれれれずずずともともとも何何なにののの恐恐おそれれれかかか候候そうろうべきべきべき。。。刑刑けいののの疑疑うたがははわしきしきしきをををばばば輕輕かろんんんぜよぜよぜよ、、、功功こうののの疑疑うたがははわしきしきしきをををばばば重重おもんんんぜよぜよぜよとととこそこそこそ見見みえええててて候候そうらへへえ。。。
- 14ことことこと新新あたらしきらしきらしき申申もうしししごとごとごとにににててて候候そうらへへえどもどもども、、、重重しげ盛盛もりかのかのかの大大だい納納な言言ごんががが妹妹いもうとににに相相あい具具ぐしししててて候候そうろう、、、維維これ盛盛もりまたまたまた壻壻むこなりなりなり、、、かやうかやうかようににに親親したしうしうしゅうまかりまかりまかりなりなりなりててて候候そうらへへえばばば、、、申申もうすすすとととややや思思おぼし召召めささされれれ候候そうろうらんらんらん。。。一一いっ向向こうそのそのその儀儀ぎでででははは候候そうらははわずずず。。。たゞたゞただ君君きみののの爲爲ため、、、國國くにののの爲爲ため、、、世世よののの爲爲ため、、、家家いえののの爲爲ためののの事事ことををを思思おもつつっててて申申もうししし候候そうろう。。。
- 15一一ひと年年とせ故故こ小小しょう納納な言言ごん入入にゅう道道どう信信しん西西ぜいががが執執しっ權權けんののの時時ときににに相相あい當當あたつつっててて、、、わがわがわが朝朝ちょうにににははは嵯嵯さ峨峨がののの皇皇こう帝帝ていののの御御おん時時とき、、、右右う兵兵ひょう衞衞えののの督督かみ藤藤ふじ原原はらののの仲仲なか成成なりををを誅誅ちゅうせせせられられられてててよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、保保ほう元元げんまでまでまで君君きみ二二に十十じゅう五五ご代代だいののの間間あいだ行行おこなははわれれれざりざりざりししし死死し罪罪ざいををを、、、始始はじめめめててて取取とり行行おこなひひい、、、宇宇う治治じののの惡惡あく左左さ府府ふののの死死し骸骸がいををを掘掘ほりりり起起おこいいいててて、、、實實じっ檢檢けんせせせられられられたりたりたりししし事事ことなんどなんどなんどまでまでまでははは、、、あまりあまりあまりなるなるなる御御おん政政まつりごととととこそこそこそ存存ぞんじじじ候候そうらへへえ。。。さればさればされば古古いにしえののの人人ひとももも、、、死死し罪罪ざいををを行行おこなへへえばばば、、、海海かい内内だいににに謀謀む叛叛ほんののの輩輩ともがら絶絶たえええずずずとととこそこそこそ申申もうししし傳傳つたへへえててて候候そうらへへえ。。。
- 16このこのこのことばことばことばにににつきつきつきててて、、、中中なか二二に年年ねんあつあつあっててて、、、平平へい治治じにににまたまたまた世世よ亂亂みだれれれててて、、、信信しん西西ぜいががが埋埋うずまままれれれたりたりたりしししををを掘掘ほりりり起起おこしししててて、、、頭頭こうべををを刎刎はねねねててて大大おお路路じををを渡渡わたささされれれたまひたまひたまいききき。。。保保ほう元元げんににに申申もうししし行行おこなひひいししし事事ことののの、、、いくいくいく程程ほどもももなくなくなくててて、、、はやはやはや身身みののの上上うえににに報報むくははわれれれにににきききととと思思おもへへえばばば、、、おそろしうおそろしうおそろしゅうこそこそこそ候候そうらへへえ。。。これこれこれはははさせるさせるさせる朝朝ちょう敵敵てきにににてててももも候候そうらははわずずず、、、かた〴〵かた〴〵かたがたおそれおそれおそれあるあるあるべしべしべし。。。御御ご榮榮えい華華が殘殘のこるるる所所ところなけれなけれなければばば、、、おぼしめさおぼしめさおぼしめさるるるるるる事事ことはははあるあるあるまじけれまじけれまじけれどもどもども、、、子子し々々し孫孫そん々々そんまでまでまで、、、繁繁はん昌昌じょうこそこそこそあらあらあらまほしうまほしうまほしゅうははは候候そうらへへえ。。。さればさればされば父父ふ祖祖そののの善善ぜん惡惡あくははは、、、必必かならずずず子子し孫孫そんににに及及およぶぶぶとととこそこそこそ見見みえええててて候候そうらへへえ。。。積積せき善善ぜんののの家家いえにににははは餘餘よ慶慶けいありありあり、、、積積せき惡惡あくののの門門かどにににははは餘餘よ殃殃おう止止とどまるまるまるとととこそこそこそ見見みえええててて候候そうらへへえ。。。いかさまいかさまいかさまにににももも今今こ夜夜よい頭頭こうべををを刎刎はねねねられられられんんん事事ことははは、、、しかるしかるしかるべうべうびょうももも候候そうらははわずずず。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、入入にゅう道道どうげにげにげにもももやややととと思思おもははわれれれけんけんけん、、、死死し罪罪ざいをををばばば思思おもひひい止止とどまりまりまり給給たまひひいけりけりけり。。。
- 17そのそのその後後のち大大おと臣臣ど中中ちゅう門門もんににに出出いでででててて、、、侍侍さぶらいどもどもどもににに宣宣のたまひひいけるけるけるははは、、、「「「仰仰おおせせせなれなれなればばばとてとてとてあのあのあの大大だい納納な言言ごん失失うしなははわんんん事事こと、、、さうなうさうなうそうのうあるあるあるべからべからべからずずず。。。入入にゅう道道どう腹腹はらののの立立たつつつまゝまゝままににに、、、ものものものさわがしきさわがしきさわがしき事事ことししし給給たまひひいててて、、、後後のちにににははは必必かならずずず悔悔くやみみみたまふたまふたまうべしべしべし。。。ひがごとひがごとひがごとしししてててわれわれわれ怨怨うらむむむななな。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、兵兵ひょう仗仗じょうををを帶帶たいしししたりたりたりけるけるける兵兵つわものどもどもども、、、みなみなみな舌舌したをををふるつふるつふるっててて恐恐おそれれれをのゝくをのゝくおののく。。。「「「さてさてさてももも今今け朝朝さ經經つね遠遠とお、、、兼兼かね康康やすがががあのあのあの大大だい納納な言言ごんににになさけなさけなさけなうなうのう當當あたりりり奉奉たてまつつつったるたるたるこそこそこそ、、、かへす〴〵かへす〴〵かえすがえすももも奇奇き怪怪かいなれなれなれ。。。などなどなど重重しげ盛盛もりがががかへりかへりかえり聞聞きかかかんんんずるずるずるところところところをををばばば憚憚はばからららざりざりざりけるけるけるぞぞぞ。。。片片かた田田い舎舎なかののの侍侍さぶらいはははみなみなみな斯斯かかるかるかるぞぞぞとととよよよ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、難難なん波波ばももも妹妹せの尾尾おももも、、、共共ともににに恐恐おそれれれ入入いつつったりたりたりけりけりけり。。。大大おと臣臣どはははかやうかやうかようにににのたまひのたまひのたまいててて、、、小小こ松松まつ殿殿どのへへへぞぞぞ歸歸かえららられれれけるけるける。。。
- 18さるさるさる程程ほどににに大大だい納納な言言ごんののの侍侍さぶらいどもどもども、、、急急いそぎぎぎ中中なかののの御御み門門かど、、、烏烏からす丸丸まるののの宿宿しゅく所所しょににに歸歸かえりりり参参まいつつっててて、、、このこのこの由由よしかくかくかくととと申申もうしししけれけれければばば、、、北北きたののの方方かた以以い下下げののの女女にょう房房ぼうたちたちたち、、、聲聲こえ々々ごえにににをめきをめきおめき叫叫さけびびび給給たまひひいけりけりけり。。。「「「少少しょう將將しょう殿殿どのををを始始はじめめめ參參まいらららせせせててて、、、幼幼おさなききき人人ひと々々びともももみなみなみな捕捕とらははわれれれさせさせさせ給給たまふふうべきべきべき由由よし承承うけたまわりりりててて候候そうらへへえ。。。急急いそぎぎぎいづいづいず方方かたへへへももも忍忍しのばばばせせせ給給たまふふうべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、北北きたののの方方かた、、、「「「今今いまはははこれこれこれ程程ほどににになりなりなりててて、、、殘殘のこりりり止止とどまるまるまる身身みとてとてとてももも、、、安安あん穩穩おんにににててて何何なににににかかかはははせせせんんんなれなれなればばば、、、たゞたゞただ同同おなじじじ一一ひと夜夜よののの露露つゆとととももも消消きえええんんんことことことこそこそこそ本本ほ意意いなれなれなれ。。。さてさてさてももも今今け朝朝さををを限限かぎりりりととと知知しらららざりざりざりつるつるつる事事ことののの悲悲かなしさしさしさよよよ。。。」」」とてとてとて、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ伏伏ふししし給給たまふふう。。。
- 19既既すでににに武武ぶ士士しどもどもどもののの近近ちかづくづくづく由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、かくかくかくててて恥恥はじがましうがましうがましゅう、、、うたてきうたてきうたてき目目めををを見見みんんんもももさすがさすがさすがなれなれなればばばとてとてとて、、、十十とおににになりなりなりたまふたまふたまう女女にょ子子し、、、八八はっ歳歳さいののの男男なん子子し、、、一一ひとつつつ車車くるまににに取取とりりり乘乘のせせせててて、、、いづちいづちいずちををを指指さすすすともともともなくなくなく遣遣やりりり出出いだすすす。。。さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、大大おお宮宮みやをををのぼりのぼりのぼりににに、、、北北きた山山やまののの邊邊へん雲雲うん林林りん院院いんへへへぞぞぞおはしおはしおわしけるけるける。。。そのそのその邊邊へんなるなるなる僧僧そう坊坊ぼうににに下下おろししし置置おききき奉奉たてまつりりり、、、送送おくりりりののの者者ものどもどもどもははは、、、身身み々々みののの棄棄すてててがたさがたさがたさににに、、、みなみなみな暇暇いとま申申もうしししててて歸歸かえりりりにににけりけりけり。。。今今いまはははいとけなきいとけなきいとけなき人人ひと々々びとばかりばかりばかり殘殘のこりりりゐゐいててて、、、またまたまたことことこと問問とふふう人人ひともももなくなくなくしてしてしておはしおはしおわしけるけるける、、、北北きたののの方方かたののの心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 20暮暮くれれれゆくゆくゆく影影かげををを見見み給給たまふふうにににつけつけつけてててももも、、、大大だい納納な言言ごんののの露露つゆののの命命いのち、、、このこのこの夕夕ゆうべををを限限かぎりりりなりなりなりととと思思おもひひいやるやるやるにににももも消消きえええぬぬぬべしべしべし。。。宿宿しゅく所所しょにににははは女女にょう房房ぼう、、、侍侍さぶらい、、、多多おおかりかりかりけれけれけれどもどもども、、、ものものものをををだにだにだに取取とりりりしたゝめしたゝめしたためずずず、、、門門かどをををだにだにだにおしおしおしももも立立たてててずずず。。。廏廏うまやにににははは馬馬うまどもどもども多多おおくくく竝竝なみみみ立立たちちちたれたれたれどもどもども、、、草草くさ飼飼かふふう者者もの一一ひと人人りもももなしなしなし。。。夜夜よあくれあくれあくればばば馬馬うま車車くるま門門かどににに立立たち竝竝なみみみ、、、賓賓ひん客客かく座座ざににに列列つらなつなつなっててて、、、遊遊あそびびび戲戲たわぶれれれ舞舞まひひい躍躍おどりりり、、、世世よををを世世よととともももししし給給たまははわずずず。。。近近ちかきききあたりあたりあたりののの者者ものどもどもどもははは、、、ものものものをををだにだにだに高高たかくくくいはいはいわずずず、、、おぢおぢおじ恐恐おそれれれててて昨日昨日きのうまでまでまでもももありありありしししににに、、、夜夜よののの間間まにににかはるかはるかわるありさまありさまありさま、、、盛盛しょう者者じゃ必必ひっ衰衰すいののの理理ことわりははは目目めののの前前まえにににこそこそこそあらはれあらはれあらわれたりたりたり。。。「「「樂樂たのしみしみしみつきつきつきててて悲悲かなしみしみしみ來來きたるるる。。。」」」ととと書書かかかかれれれたるたるたる、、、江江ごう相相しょう公公こうののの筆筆ふでのののあとあとあと、、、今今いまこそこそこそ思思おもひひい知知しららられれれけれけれけれ。。。
現代語訳
新大納言は一間に押し込められて、汗まみれになりながら、「ああこれは、日ごろの計画が漏れたのだな。だれが漏らしたのだろう。きっと北面の者どもの中にいるのだろう」などと、思わないことはないほどあれこれと考え続けておられたところ、後ろから足音が高く聞こえたので、「さては今、私の命を奪おうとして武士どもが来たのだな」と思われたが、
そうではなくて入道が、板敷を高らかに踏み鳴らし、大納言のおられる後ろの障子をさっと引き開けて出てこられた。素絹の衣の丈の短いのに、白い大口袴を踏みくくみ、聖柄の刀を抜きやすくゆるめて差したまま、もってのほかに怒った様子で、大納言をしばらくにらみつけて、
「そもそもあなたは、平治の乱でもすでに斬られるはずであったのを、内府(重盛)が身に代えてお願いして首をつないでさしあげたのはどうだ。それなのにその恩を忘れて、何の恨みがあって平家を倒そうとなさるのか。恩を知るのが人というものだ。恩を知らない者を畜生というのだ。けれども平家の運命がまだ尽きていないので、こうしてお迎えしたのだ。日ごろの計画の次第を、じかにお聞きしよう」とおっしゃると、
大納言は「まったくそのようなことはございません。きっと人の讒言でございましょう。よくよくお調べください」と申されたので、入道は言わせも果てず、「だれかおらぬか、だれかおらぬか」とお呼びになると、貞能がさっと参った。「西光の白状を持って参れ」とおっしゃると、持って参った。入道はこれを取って、くり返しくり返し二、三度高らかに読み聞かせ、「ああ憎い、この上は何と弁解するつもりだ」といって、大納言の顔にさっと投げつけ、障子をぴしゃりと閉めて出て行かれたが、なお腹が収まらず、「経遠、兼康」とお呼びになる。難波次郎と妹尾太郎が参った。「あの男を捕らえて庭へ引き落とせ」とおっしゃったが、二人はすぐにはそうせず、「小松殿のお考えはいかがでございましょうか」と申したので、入道は「よしよし、おまえらは内府の命令を重んじて、入道の命令は軽んじるというわけか。それならしかたがない」とおっしゃるので、二人はこれはまずいと思ったのだろうか、立ち上がって、大納言の左右の手を取って庭へ引き落とし申した。
そのとき入道は気持ちよさそうに、「取り押さえてわめかせよ」とおっしゃった。二人の者は大納言の左右の耳に口を当てて、「どうでもお声をお出しください」とささやいて引き伏せ申すと、大納言は二声三声わめかれた。そのさまは、冥途で娑婆世界の罪人を、あるいは業の秤にかけ、あるいは浄玻璃の鏡に向かわせて、罪の軽重に従って阿防羅刹が責めさいなむのも、これ以上ではあるまいと思われた。
蕭何・樊噲は捕らえられ、韓信・彭越は塩漬けにされた。鼂錯は殺され、周勃・魏其侯は罪に問われた。たとえば蕭何・樊噲・韓信・彭越は、みな漢の高祖の忠臣であったけれども、小人の讒言によって災いと失脚の恥を受けたというのも、このようなことをいうのであろうか。新大納言は、わが身がこのようになったにつけても、子息の丹波少将成経以下、幼い子どもたちが、どのようなつらい目にあうだろうかと思いやるにも気がかりである。あれほど暑い六月に装束さえゆるめられず、暑さも耐えがたいので、胸もせき上げる心地がして、汗も涙も争うように流れた。「それでも小松殿は見捨てはなさるまい」と思われたけれども、だれに頼んで申し伝えてもらえるとも思われない。
小松の大臣は、いつものように善悪どちらにも騒がない人でいらっしゃったので、ずっと日が高くなってから、嫡子の権佐少将維盛を車の後ろに乗せて、衛府の者四、五人、随身二、三人を連れて、兵は一人も連れず、まことにおおらかな様子でおいでになったので、入道をはじめとして一門の人々は、みな意外そうにご覧になった。
大臣が中門の口で御車からお降りになるところへ、貞能がさっと参って、「どうしてこれほどの大事に、兵を一人もお連れにならないのですか」と申したので、大臣は「大事というのは天下の事をいうのだ。このような私事を大事という言い方があるか」とおっしゃると、武器を持っていた兵どもは、みな気まずそうに見えた。
その後大臣は、大納言をどこに置き申しているのだろうと、あちらこちらの戸を開けては開けてご覧になると、ある障子の上に蜘蛛手に木を打ちつけた所がある。ここだろうと開けられると、大納言がおられた。涙にむせび、うつ伏して、目も上げられない。「いかがですか」とおっしゃると、そのとき大臣を見つけ申して、うれしそうに思われた様子は、地獄で罪人どもが地蔵菩薩を見申すのも、このようであろうかと思われて、あわれである。
「何事でございましょうか、今朝からこのようなつらい目にあっております。それでもあなた様がいらっしゃるので、いくら何でもと深く頼み申しておりました。平治にもすでに斬られるはずであったのを、ご恩によって首をつないでいただき、そのうえ正二位の大納言にまで昇って、年もすでに四十を越えました。ご恩は生々世々にも報いつくしがたいのですが、このたびもまた、かいのない命をお助けください。そうしていただけるなら、出家入道して、どんな片田舎の山里にでもこもって、ひたすら後世菩提の勤めをいたしましょう」と申された。
大臣は「そうかといって、お命を奪い申すまでのことは、まさかございますまい。たとえそうなっても、重盛がこうしておりますから、お命には代わって差し上げましょう。ご安心ください」といって、父の禅門の御前においでになって、
「あの大納言を殺されることは、よくよくお考えください。その理由は、先祖の修理大夫顕季が白河院に召し使われてからこのかた、家に例のない正二位の大納言にまで昇り、そのうえ現在、君の比べるもののないご寵愛を受けている者です。首をはねられることはよろしくありません。ただ都の外へ追放なさるだけで十分でしょう。
北野天神(菅原道真)は時平の大臣の讒言で浮き名を西海の波に流し、西宮の大臣(源高明)は多田満仲の讒言によって恨みを山陽道の雲に寄せました。それぞれ無実であったけれども、流罪になられたのです。これはみな延喜の聖代、安和の帝のお誤りと申し伝えております。昔でさえこのようです。まして末の世においてはなおさらです。賢王でさえお誤りがある。まして凡人においてはなおさらです。すでに召し置かれた以上は、急いで殺さなくても何の心配がありましょう。「刑の疑わしいものは軽くせよ、功の疑わしいものは重くせよ」とも書物に見えております。
今さら申し上げることですが、重盛はあの大納言の妹を妻としており、維盛もまた婿です。このように親しい間柄ですから、そのために申し上げているとお思いでしょうか。決してそうではございません。ただ君のため、国のため、世のため、家のためのことを思って申し上げるのです。
先年、故少納言入道信西が権力を握っていたとき、わが国では嵯峨天皇の御時に右兵衛督藤原仲成を処刑されてからこのかた、保元まで二十五代のあいだ行われなかった死罪を初めて行い、宇治の悪左府(頼長)の遺骸を掘り起こして検分させたことなどは、あまりにひどいご政道と存じます。だから昔の人も、「死罪を行えば国内に謀反の者が絶えない」と申し伝えております。
この言葉どおりに、中二年たって平治の乱でまた世が乱れ、信西が埋められていたのを掘り起こして、首をはねて大路を引き回されました。保元に信西が執り行ったことが、いくらもたたないうちに、早くもわが身に報いたのだと思うと恐ろしいことです。この大納言はさほどの朝敵でもございません。あれこれと恐れるべきことです。ご栄華は残るところがないので、お思いになることはないでしょうが、子々孫々まで繁栄してほしいものです。父祖の善悪は必ず子孫に及ぶといいます。「善を積む家には余慶があり、悪を積む家には余殃がとどまる」とも書物に見えております。どうしても今夜首をはねられることはよろしくありません」と申されたので、入道もなるほどと思われたのであろうか、死罪は思いとどまられた。
その後大臣は中門に出て、侍どもにおっしゃるには、「仰せだからといって、あの大納言を殺すことは軽々しくしてはならぬ。入道は腹立ちのままに乱暴なことをなさって、後で必ず後悔なさるだろう。間違ったことをして私を恨むな」とおっしゃると、武器を持っていた兵どもはみな舌を震わせて恐れおののいた。「それにしても今朝、経遠・兼康があの大納言に情けなく当たり申したことは、かえすがえすもけしからん。どうして重盛が後で聞くであろうことをはばからなかったのか。片田舎の侍はみなこうなのだ」とおっしゃると、難波も妹尾も、ともに恐れ入った。大臣はこのようにおっしゃって、小松殿へお帰りになった。
そうしているうちに、大納言の侍どもは急いで中御門烏丸の宿所に帰って、このことを申し上げたので、北の方以下の女房たちは、声々にわめき叫ばれた。侍が「少将殿をはじめ、幼い方々もみな捕らえられなさるということを承っております。急いでどこへでもお忍びになったほうがよいのではございませんか」と申したので、北の方は「今はこれほどになって、残りとどまる身だとしても、無事でいたとて何になろう。ただ同じ一夜の露と消えることこそ本望です。それにしても今朝を最後とは知らなかったことの悲しさよ」といって、衣を引きかぶって伏してしまわれた。
もう武士どもが近づくと聞こえたので、このまま恥をさらし、つらい目を見るのもさすがに忍びないということで、十歳になる娘と八歳の息子を一つの車に乗せて、どこへ向かうともなく出発した。そうしてばかりもいられないので、大宮大路を北へ上って、北山のあたりの雲林院へおいでになった。そのあたりの僧坊に降ろし申して、送りの者どもは、それぞれわが身を捨てがたくて、みな暇を告げて帰ってしまった。今は幼い子どもたちばかりが残って、訪ねてくる人もなくておられた北の方の心のうちは、推し量られてあわれである。
暮れていく日の光をご覧になるにつけても、大納言の露のような命は、この夕方が最後だろうと思いやるにつけても、北の方は消え入りそうである。宿所には女房や侍が大勢いたけれども、物を片づけることもせず、門さえも閉めない。廏には馬がたくさん並んでいたけれども、草をやる者は一人もいない。夜が明けると馬や車が門に立ち並び、客人が座に連なって、遊び戯れ舞い踊って、世の中を何とも思わずにおられた。近所の者どもは物さえ大声で言わず、恐れおののいていたのが昨日までのことであったのに、一夜のうちに変わる有様は、盛者必衰の道理が目の前に現れたのである。「楽しみ尽きて悲しみ来る」と書かれた江相公(大江朝綱)の筆の跡が、今こそ思い知られたのであった。
意訳
『平家物語』の中でも、清盛と重盛の対照がもっとも鮮やかに描かれる章段の一つである。清盛は、成親の恩知らずを責めて西光の白状を顔に投げつけ、命令をためらう侍たちを叱りつけて成親を庭に引き落とさせる。その怒りのすさまじさは、地獄の羅刹が罪人を責めるさまにたとえられている。
一方の重盛は、軍兵を一人も連れずに悠然と現れ、「大事とは天下の事をこそいへ」と言って侍たちの騒ぎを鎮める。成親には命を保証し、父には菅原道真や源高明の例、保元・平治の死罪の報いを挙げ、「積善の家には余慶あり」という教えを説いて処刑を思いとどまらせる。重盛の言葉は、儒教的な道理と仏教的な因果の思想に支えられており、物語は彼を平家の良心として描いている。
後半は一転して、成親の北の方と幼い子どもたちの逃避行を描く。昨日まで客がにぎわい、近所の者も声をひそめていた邸が、一夜にして門も閉ざされず、馬に草をやる者もいなくなる。「盛者必衰の理は目の前にこそあらはれたり」という言葉は、冒頭の祇園精舎の一節を思い起こさせ、栄華のはかなさを改めて印象づけている。
語釈・文法注
文法
- 「思はじ事なう」
- 思わないことはないほど、あれこれと思いめぐらして、の意。
- 「ござんなれ」
- 「にこそあるなれ」のつづまった形で、…というわけだな、の意。相手の態度を見定めて言う言葉。
- 「蕭樊とらはれて、韓彭にらぎすされたり」
- 漢の高祖の功臣の蕭何・樊噲・韓信・彭越が、讒言によって捕らえられたり殺されたりした故事。「にらぎす」は塩漬けにすること。
- 「刑の疑はしきをば輕んぜよ、功の疑はしきをば重んぜよ」
- 『書経』に見える言葉で、罪が疑わしいときは軽い刑に、功績が疑わしいときは重い賞にせよ、の意。
- 「積善の家には餘慶あり、積惡の門には餘殃止まる」
- 『易経』に見える言葉。善行を積んだ家には子孫に福が及び、悪行を積んだ家には子孫に災いが残る、の意。
解説
「小松教訓」は、成親の処刑を思いとどまらせる重盛の諫言として知られる。重盛が挙げる藤原仲成の処刑(810年)から保元の乱まで死罪が行われなかったという話は、平安時代に死刑が事実上停止されていたことを踏まえたものである。保元の乱で信西が死罪を復活させ、その信西が平治の乱で殺されたことを、重盛は因果応報として語っている。
成親の妹は重盛の妻(経子)、成親の娘は維盛の妻であり、重盛は成親と二重の姻戚関係にあった。重盛が成親の助命を「一向その儀では候はず」と断るのは、私情から出た願いではないことを強調するためである。成親は結局、死罪を免れて備前に流されたが、のちにそこで殺される(「新大納言の死去の事」)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、313–319頁(コマ185–188)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日