平家物語 巻第二
座主流しの事
治承元年五月、神輿入洛の張本とされた天台座主明雲は、西光父子の讒言によって座主を解かれ、伊豆への流罪と決まる。延暦寺の衆徒は十禅師権現の託宣を得て粟津に押し寄せ、護送の役人を追い散らして明雲を奪い返す。ためらう明雲を、悪僧祐慶がにらみつけて輿に乗せ、山へ担ぎ上げた。
- 1治治じ承承しょう元元がん年年ねん五五ご月月がつ五五いつ日日かののの日日ひ、、、天天てん台台だい座座ざ主主す明明めい雲雲うん大大だい僧僧そう正正じょう、、、公公くををを停停ちょう止止じせせせらるゝらるゝらるるうへうへうえ、、、藏藏くら人人うどををを御御おん使使つかいにににててて、、、如如にょ意意い輪輪りんののの御御ご本本ほん尊尊ぞんををを召召めし返返かえいいいててて、、、御御ご持持じ僧僧そうををを改改かい易易えきせせせらるらるらる。。。すなはちすなはちすなわち使使し廳廳ちょうののの使使つかいをををつけつけつけててて、、、今今こん度度ど神神しん輿輿よ内内だい裏裏りへへへ振振ふりりり奉奉たてまつりりりししし、、、衆衆しゅ徒徒とののの張張ちょう本本ほんををを召召めささされれれけりけりけり。。。
- 2加加か賀賀がののの國國くにににに座座ざ主主すののの御御ご坊坊ぼう領領りょうありありあり。。。國國こく司司し師師もろ高高たかこれこれこれををを停停ちょう廢廢はいののの間間あいだ、、、そのそのその宿宿しゅく意意いににに依依よつつっててて、、、大大だい衆衆しゅををを語語かたらひらひらい、、、訴訴そ訟訟しょうををを致致いたさささるるる。。。既既すでににに朝朝ちょう家家かののの御御おん大大だい事事じににに及及およぶぶぶべきべきべき由由よし、、、西西さい光光こう法法ほっ師師し父父ふ子子しががが讒讒ざん奏奏そうににに依依よつつっててて、、、法法ほう皇皇おう大大おおきききににに逆逆げき鱗鱗りんありありありけりけりけり。。。ことことことににに重重じゅう科科かににに行行おこなははわるるるべしべしべしととと聞聞きこゆゆゆ。。。明明めい雲雲うんははは院院いんののの御御ご氣氣き色色しょくあしかりあしかりあしかりけれけれければばば、、、印印いん鑰鑰やくををを返返かへししし奉奉たてまつつつっててて、、、座座ざ主主すををを辭辭じししし申申もうささされれれけりけりけり。。。
- 3同同おなじきじきじき十十じゅう一一いち日日にち、、、鳥鳥と羽羽ばののの院院いんののの七七しちののの宮宮みや覺覺かく快快かい法法ほっ親親しん主主しゅ、、、天天てん台台だい座座ざ主主すにににならならならせせせ給給たまふふう。。。これこれこれははは靑靑しょう蓮蓮れん院院いんののの大大だい僧僧そう正正じょう行行ぎょう玄玄げんののの御御おん弟弟で子子しなりなりなり。。。あくるあくるあくる十十じゅう二二に日日にち、、、先先せん座座ざ主主す所所しょ職職しょくををを沒沒もっ收收しゅせせせらるゝらるゝらるる上上うえ、、、檢檢けん非非び違違い使使し二二ふた人人りをををつけつけつけててて、、、井井いににに蓋蓋ふたをををししし、、、火火ひににに水水みずをををかけかけかけててて、、、火火か水水すいののの責責せめににに行行おこなははわるるるべきべきべきよしよしよし聞聞きこゆゆゆ。。。これこれこれににに依依よつつっててて、、、大大だい衆衆しゅなほなほなお参参さん洛洛らくすすすととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、京京きょう中中じゅうまたまたまた騒騒さわぎぎぎあへあへあえりりり。。。
- 4同同おなじきじきじき十十じゅう八八はち日日にち、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん以以い下下げののの公公く卿卿ぎょう十十じゅう三三さん人人にん参参さん内内だいしししててて、、、陣陣じんののの座座ざにににつきつきつき、、、前前さきののの座座ざ主主す罪罪ざい科科かのののことことこと議議ぎ定定じょうありありあり。。。八八はち條條じょうののの中中ちゅう納納な言言ごん長長なが方方かたののの卿卿きょう、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ左左さ大大だい辨辨べんののの宰宰さい相相しょうにににててて、、、末末まつ座座ざににに候候さぶらははわれれれけるけるけるががが、、、進進すすみみみ出出いでででててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、
- 5「「「法法ほっ家家けののの勘勘かん狀狀じょうにににまかせまかせまかせててて、、、死死し罪罪ざい一一いっ等等とうををを減減げんじじじててて、、、遠遠おん流流るせせせらるらるらるべしべしべしとととははは見見みえええててて候候そうらへへえどもどもども、、、先先せん座座ざ主主す明明めい雲雲うん大大だい僧僧そう正正じょうははは顯顯けん密密みつ兼兼けん學學がくしししててて、、、淨淨じょう行行ぎょう持持じ律律りつののの上上うえ、、、大大だい乘乘じょう妙妙みょう經經きょうををを公公く家家げににに授授さずけけけ奉奉たてまつりりり、、、菩菩ぼ薩薩さつ正正しょう戒戒かいををを法法ほう皇皇おうににに保保たもたたたせせせ奉奉たてまつるるる。。。御御おん經經きょうののの師師し、、、御御おん戒戒かいののの師師し、、、重重じゅう科科かににに行行おこなははわれれれんんん事事ことははは、、、冥冥みょうののの照照しょう覽覽らんはかりはかりはかり難難がたししし。。。還還げん俗俗ぞく、、、遠遠おん流流るををを宥宥なだめめめらるらるらるべきべきべきかかか。。。」」」ととと、、、憚憚はばかるるる所所ところもももなうなうのう申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、
- 6當當とう座座ざののの公公く卿卿ぎょう、、、みなみなみな長長なが方方かたののの議議ぎににに同同どうずずずととと申申もうししし合合あははわれれれけれけれけれどもどもども、、、法法ほう皇皇おう御御おん憤憤いきどおりりり深深ふかかりかりかりけれけれければばば、、、なほなほなお遠遠おん流流るににに定定さだめめめらるらるらる。。。太太だい政政じょうののの入入にゅう道道どうもももこのこのこの事事こと申申もうさささんんんとてとてとて、、、院院いん参参さんせせせられられられたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、法法ほう皇皇おう御御おん風風かぜののの氣氣けとてとてとて、、、御御ご前前ぜんへへへももも召召めささされれれ給給たまははわねねねばばば、、、本本ほ意意いなげなげなげにににててて退退たい出出しゅつせせせらるらるらる。。。僧僧そうををを罪罪つみするするするならひならひならいとてとてとて度度どををを召召めししし返返かへししし、、、還還げん俗俗ぞくせせせさせさせさせ奉奉たてまつりりり、、、大大だい納納な言言ごんののの大大たい夫夫ふ藤藤ふじ井井いののの松松まつ枝枝えととといふいふいう俗俗ぞく名名みょうをををこそこそこそつけつけつけられられられけれけれけれ。。。
- 7このこのこの明明めい雲雲うんととと申申もうすすすははは、、、かけまくかけまくかけまくももも忝忝かたじけなくくく村村むら上上かみ天天てん皇皇のうののの第第だい七七しちののの皇皇おう子子じ、、、具具ぐ平平へい親親しん王王のうよりよりより六六ろく代代だいののの御御おん末末すえ、、、久久こ我我がののの大大だい納納な言言ごん顯顯あき通通みちののの卿卿きょうののの御御おん子子こなりなりなり。。。まことまことまことににに無無ぶ雙雙そうののの碩碩せき德德とく、、、天天てん下下か第第だい一一いちののの高高こう僧僧そうにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、君君きみももも臣臣しんももも尊尊とうとみみみ給給たまひひいててて、、、天天てん王王おう寺寺じ、、、六六ろく勝勝しょう寺寺じののの別別べっ當當とうをををもももかけかけかけ給給たまへへえりりり。。。
- 8されどもされどもされども陰陰おん陽陽ようののの頭頭かみ安安あ倍倍べののの泰泰やす親親ちかががが申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「さばかりさばかりさばかりののの智智ち者者しゃののの、、、明明めい雲雲うんととと名名な乘乘のりりり給給たまふふうこそこそこそ心心こころ得得えねねね。。。上上うえにににははは日日じつ月月げつののの光光ひかりををを雙雙ならべべべ、、、下下したににに雲雲くもありありあり。。。」」」とととぞぞぞ難難なんじじじけるけるける。。。
- 9仁仁にん安安あん元元がん年年ねん二二に月月がつ二二は十十つ日日かののの日日ひ、、、天天てん台台だい座座ざ主主すにににならならならせせせ給給たまふふう。。。同同おなじきじきじき三三さん月月がつ十十じゅう五五ご日日にち御御ご拜拜はい堂堂どうありありあり。。。中中ちゅう堂堂どうののの寶寶ほう藏藏ぞうををを開開ひらかかかれれれけるけるけるににに、、、種種しゅ々々じゅののの重重ちょう寶寶ほうどもどもどもののの中中なかににに、、、方方ほう一一いっ尺尺しゃくののの箱箱はこありありあり。。。白白しろいいい布布ぬのにににててて包包つつまままれれれたりたりたり。。。一一いっ生生しょう不不ふ犯犯ぼんののの座座ざ主主す、、、かのかのかの箱箱はこをををあけあけあけててて見見み給給たまふふうににに、、、黃黃おう紙紙しににに書書かけけけるるる文文ふみ一一ひと巻巻まきありありあり。。。傳傳でん教教きょう大大だい師師し、、、未未み來來らいののの座座ざ主主すののの名名みょう字字じををを、、、かねてかねてかねて記記しるししし置置おかかかれれれたりたりたり。。。
- 10わがわがわが名名なのののあるあるあるところところところまでまでまでははは見見みててて、、、それそれそれよりよりより奧奧おくをををばばば見見み給給たまははわずずず、、、もともともとののの如如ごとくくくににに巻巻まききき返返かへしししててて置置おかかかるゝるゝるるならひならひならいなりなりなり。。。さればさればさればこのこのこの僧僧そう正正じょうももも、、、さこそさこそさこそはははおはしましおはしましおわしましけめけめけめ。。。斯斯かかるかるかる尊尊とうとききき人人ひとなれなれなれどもどもども、、、前前ぜん世世ぜののの宿宿しゅく業業ごうをををばばば免免まぬかれれれ給給たまははわずずず、、、あはれあはれあわれなりなりなりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
- 11同同おなじきじきじき二二に十十じゅう一一いち日日にち、、、配配はい所所しょ伊伊い豆豆ずののの國國くにととと定定さだめめめらるらるらる。。。人人ひと々々びとやう〳〵やう〳〵ようようににに申申もうささされれれけれけれけれどもどもども、、、西西さい光光こう法法ほっ師師し父父ふ子子しががが讒讒ざん奏奏そうににに依依よつつっててて、、、斯斯か樣樣ようにににははは行行おこなははわれれれけるけるけるなりなりなり。。。今日今日きょう軈軈やがててて都都みやこののの内内うちををを追追おひひい出出いださささるるるべしべしべしとてとてとて、、、追追おっ立立たてののの官官かん人人にん、、、白白しら河河かわののの御御ご坊坊ぼうににに行行ゆききき向向むかつつっててて追追おひひい奉奉たてまつるるる。。。僧僧そう正正じょう泣泣なく〳〵く〳〵くなく御御ご坊坊ぼうををを出出いでででつゝつゝつつ、、、粟粟あわ田田た口口ぐちののの邊邊ほとり、、、一一いっ切切さい經經きょうののの別別べっ所所しょににに入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。
- 12山山さん門門もんにににははは、、、詮詮せんずるずるずる所所ところははは、、、われらわれらわれらががが敵敵かたきははは西西さい光光こう法法ほっ師師し父父ふ子子しににに過過すぎぎぎたるたるたる者者ものなしなしなしとてとてとて、、、かれらかれらかれら父父ふ子子しががが名名みょう字字じををを書書かいいいててて、、、根根こん本本ぽん中中ちゅう堂堂どうにににおはしますおはしますおわします十十じゅう二二に神神じん將將じょうののの中中うち、、、金金こん比比ぴ羅羅ら大大たい將將しょうののの左左ひだりののの御御おん足足あしののの下下したににに蹈蹈ふままませせせ奉奉たてまつりりり、、、「「「十十じゅう二二に神神じん將將じょう、、、七七しち千千せん夜夜や叉叉しゃ、、、時時じ刻刻こくををを廻廻めぐらさらさらさずずず、、、西西さい光光こう法法ほっ師師し父父ふ子子しががが命命いのちををを召召めし取取とりりり給給たまへへえややや。。。」」」ととと、、、をめきをめきおめき叫叫さけんんんででで呪呪じゅ詛詛そしししけるけるけるこそこそこそ、、、聞聞きくくくももも恐恐おそろしけれろしけれろしけれ。。。
- 13同同おなじきじきじき二二に十十じゅう三三さん日日にち、、、一一いっ切切さい經經きょうののの別別べっ所所しょよりよりより配配はい所所しょへへへ赴赴おもむききき給給たまひひいけりけりけり。。。さばかりさばかりさばかりののの法法ほう務務むののの大大だい僧僧そう正正じょうほどほどほどののの人人ひとののの、、、追追おっ立立たてののの鬱鬱うつががが先先さきににに蹴蹴け立立たてててられられられててて、、、今日今日きょうをををかぎりかぎりかぎりににに都都みやこををを出出いでででててて、、、關關せきののの東東ひがしへへへ赴赴おもむかかかれれれけんけんけん心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。大大おお津津つののの打打うち出出でののの濱濱はまにににもももなりなりなりぬれぬれぬればばば、、、文文もん珠珠じゅ樓樓ろうののの軒軒のき端端ばのののしろじろしろじろしろじろとととしてしてして見見みえええけるけるけるををを、、、二二ふた目目めともともとも見見み給給たまははわずずず、、、袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて涙涙なみだにににむせびむせびむせび給給たまひひいけりけりけり。。。
- 14山山さん門門もんにににははは宿宿しゅく老老ろう、、、碩碩せき德德とく多多おおしししととといへいへいえどもどもども、、、澄澄ちょう憲憲けん法法ほう印印いん、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ僧僧そう都都ずにににててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、あまりあまりあまりににに名名な殘殘ごりををを惜惜おしみしみしみ奉奉たてまつりりり、、、粟粟あわ津津ずまでまでまで送送おくりりり参参まいらららせせせててて、、、それそれそれよりよりより暇暇いとま乞乞こうううててて歸歸かえららられれれけるけるけるににに、、、僧僧そう正正じょう志志こころざしののの切切せつなるなるなることことことををを感感かんじじじててて、、、年年とし頃頃ごろ御御ご心心しん中中ちゅうににに祕祕ひせせせられられられたりたりたりししし、、、一一いっ心心しん三三さんののの血血けち脈脈みやく相相そう承承じょうををを授授さずけけけらるらるらる。。。
- 15このこのこの法法ほうははは釋釋しゃく尊尊そんののの附附ふ囑囑ぞく、、、波波は羅羅ら奈奈ない國國こくののの馬馬め鳴鳴みょう比比び丘丘く、、、南南なん天天てん竺竺じくののの龍龍りゅう樹樹じゅ菩菩ぼ薩薩さつよりよりより次次し第第だいににに相相そう傳傳でんししし來來きたれれれるるるををを今日今日きょうのののなさけなさけなさけににに授授さずけけけらるらるらる。。。さすがさすがさすがわがわがわが朝朝ちょうははは粟粟ぞく散散さん邊邊へん地地じののの境境さかい、、、濁濁じょく世世せ末末まつ代代だいとととはははいひいひいいながらながらながら、、、澄澄ちょう憲憲けんこれこれこれををを附附ふ囑囑ぞくしししててて、、、法法ほう衣衣えののの袂袂たもとをををしぼりしぼりしぼりつゝつゝつつ、、、都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼららられれれけんけんけん、、、心心こころののの中中うちこそこそこそ尊尊とうとけれけれけれ。。。
- 16さるさるさる程程ほどににに山山さん門門もんにににははは、、、大大だい衆衆しゅ起起おこつつっててて、、、僉僉せん議議ぎすすす。。。「「「抑抑そもそも義義ぎ眞眞しん和和か尙尙しょうよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、天天てん台台だい座座ざ主主すはじまつはじまつはじまっててて、、、五五ご十十じゅう五五ご代代だいににに至至いたるるるまでまでまで、、、未未いまだだだ流流る罪罪ざいののの例例れいををを聞聞きかかかずずず。。。つら〳〵つら〳〵つらつら事事ことののの意意こころををを按按あんずるずるずるににに、、、延延えん曆曆りやくのののころほひころほひころおい、、、皇皇こう帝帝ていははは帝帝てい都都とををを立立たててて、、、大大だい師師しははは當當とう山山ざんににに攀攀よぢぢじ上上のぼりりりててて、、、四四し明明めいののの教教きょう法法ぼうをををこゝこゝここににに廣廣ひろめめめたまひたまひたまいしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、五五ご障障しょうののの女女にょ人人にん跡跡あとたえたえたえててて、、、三三さん千千ぜんののの淨淨じょう侶侶りょ居居きょををを占占しめめめたりたりたり。。。
- 17峯峯みねにににははは一一いち乘乘じょう讀讀どく誦誦じゅ年年としふりふりふりててて、、、麓麓ふもとにににははは七七しち社社しゃののの靈靈れい驗驗げん日日ひ新新あらたなりなりなり。。。かのかのかの月月がっ氏氏しののの靈靈りょう山山ぜんははは、、、王王おう城城じょうののの東東とう北北ほく、、、大大だい聖聖しょうののの幽幽ゆう窟窟くつなりなりなり。。。このこのこの日日じち域域いきののの叡叡えい岳岳がくももも、、、帝帝てい都都とののの鬼鬼き門門もんににに峙峙そばだちちちててて護護ご國國こくののの靈靈れい地地ちなりなりなり。。。代代だい々々だいののの賢賢けん王王おう、、、智智ち臣臣しん、、、こゝこゝここににに壇壇だん場場じょうををを占占しむむむ。。。末末まつ代代だいならならならんんんからからからんんんににに、、、いかでいかでいかでかかか當當とう山山ざんににに傷傷きずをををばばばつくつくつくべきべきべき。。。こここははは心心こころ憂憂うししし。。。」」」とてとてとて、、、をめきをめきおめき叫叫さけぶぶぶととといふいふいう程程ほどこそこそこそありありありけれけれけれ。。。滿滿まん山山ざんののの大大だい衆衆しゅ、、、殘殘のこりりり止止とどまるまるまる者者ものもももなくなくなく、、、みなみなみな東東ひがし坂坂さか本本もとへへへ下下おりりりくだるくだるくだる。。。
- 18十十じゅう禪禪ぜん師師じ權權ごん現現げんののの御御おん前前まえにににててて、、、大大だい衆衆しゅまたまたまた僉僉せん議議ぎすすす。。。「「「抑抑そもそもわれらわれらわれら粟粟あわ津津ずへへへ行行ゆききき向向むかつつっててて、、、貫貫かん首首じゅをををばばば奪奪うばひひい止止とどめめめ奉奉たてまつるるるべしべしべし。。。但但ただししし追追おっ立立たてののの鬱鬱うつ使使し、、、兩兩りょう送送そう使使しあるあるあるなれなれなればばば、、、さうなうさうなうそうのう取取とりりり得得え奉奉たてまつらららんんん事事ことありがたしありがたしありがたし。。。今今いまははは山山さん王王おう大大だい師師しののの御御おん力力ちからののの外外ほか、、、またまたまた賴賴たのみみみ奉奉たてまつるるる方方かたなしなしなし。。。まことまことまことににに別別べつののの仔仔し細細さいなくなくなく、、、取取とりりり得得え奉奉たてまつるるるべくべくべくばばば、、、こゝこゝここにににてててまづまづまず一一ひとつつつののの瑞瑞ずい相相そうををを見見みせせせしめしめしめ給給たまへへえ。。。」」」ととと、、、老老ろう僧僧そうどもどもども肝肝かん膽膽たんををを碎碎くだいいいててて祈祈き念念ねんしししけりけりけり。。。
- 19こゝこゝここににに無無む動動どう寺寺じ法法ほっ師師し乘乘じょう圓圓えん律律りつ師師しががが召召めしししつかひつかひつかいけるけるける、、、鶴鶴つる丸丸まるととといふいふいう童童わらわありありあり。。。生生しょう年年ねん十十じゅう八八はっ歳歳さいににになりなりなりけるけるけるががが、、、心心しん身身じんををを苦苦くるしめしめしめ、、、五五ご體體たいににに汗汗あせををを流流ながいいいててて、、、俄俄にはかににに狂狂くるひひい出出いでででたりたりたり。。。「「「わがわがわが十十じゅう禪禪ぜん師師じ權權ごん現現げん乘乘のりりりゐゐいさせさせさせ給給たまへへえりりり。。。末末まつ代代だいととといふいふいうともともとも、、、爭爭いかでででかかかわがわがわが山山やまののの貫貫かん首首じゅをををばばば他他た國國こくへへへははは遷遷うつさささるるるべきべきべき。。。生生しょう々々じょう世世せ々々せににに心心こころ憂憂うししし。。。さらさらさらんんんににに取取とつつってててははは、、、われわれわれこのこのこの麓麓ふもとににに跡跡あとををを止止とどめめめてててももも何何なににににかかかはははせせせんんん。。。」」」とてとてとて、、、左左そ右右うののの袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、さめ〴〵さめ〴〵さめざめととと泣泣なきききけれけれければばば、、、
- 20大大だい衆衆しゅこれこれこれををを怪怪あやしみしみしみててて、、、「「「まことまことまことににに十十じゅう禪禪ぜん師師じ權權ごん現現げんののの御御ご託託たく宣宣せんにににててておはしまさおはしまさおわしまさばばば、、、われらわれらわれらしるししるししるしををを参参まいらららせせせんんん。。。一一いち々々いちにににもともともとののの主主ぬしににに返返かへししし給給たまへへえ。。。」」」とてとてとて、、、老老ろう僧僧そうどもどもども四四し五五ご百百ひゃく人人にん、、、手手てんんん手手でににに持持もつつったるたるたる數數じゅ珠珠ずどもどもども、、、十十じゅう禪禪ぜん師師じ權權ごん現現げんののの大大おお床床ゆかののの上上うえへへへぞぞぞ投投なげげげ上上あげげげたるたるたる。。。かのかのかの物物もの狂狂ぐるい走走はしりりりまはりまはりまわり、、、拾拾ひろひひい集集あつめめめててて、、、少少すこしししももも違違たがへへえずずず、、、一一いち々々いちにににみなみなみな、、、もともともとののの主主ぬしにににぞぞぞ配配くばりりりけるけるける。。。大大だい衆衆しゅ神神しん明明めいののの靈靈れい驗驗げんあらたあらたあらたなるなるなる事事ことののの尊尊とうとさささににに、、、みなみなみな掌掌たなごころををを合合あははわせせせててて、、、隨隨ずい喜喜きののの感感かん涙涙るいをををぞぞぞ催催もよおしししけるけるける。。。
- 21「「「そのそのその儀儀ぎならならならばばば、、、行行ゆききき向向むかつつっててて、、、奪奪うばひひい止止とどめめめ奉奉たてまつれれれややや。。。」」」ととといふいふいう程程ほどこそこそこそありありありけれけれけれ、、、雲雲うん霞霞かののの如如ごとくくくににに發發はっ向向こうすすす。。。或或あるいははは滋滋し賀賀が、、、唐唐から崎崎さきののの濱濱はま路路じににに歩歩あゆみみみつゞけるつゞけるつづける大大だい衆衆しゅもももありありあり。。。或或あるいははは山山やま田田だ、、、矢矢やばせばせばせののの湖湖こ上上しょうににに舟舟ふねおしおしおし出出いだすすす衆衆しゅ徒徒ともももありありあり。。。これこれこれををを見見みててて、、、さしもさしもさしもきびしげきびしげきびしげなりなりなりつるつるつる追追おっ立立たてののの鬱鬱うつ使使し、、、兩兩りょう送送そう使使し、、、ちり〴〵ちり〴〵ちりじりにににみなみなみな逃逃にげげげ去去さりりりぬぬぬ。。。
- 22大大だい衆衆しゅ國國こく分分ぶん寺寺じへへへ参参まいりりり向向むかふふう。。。先先せん座座ざ主主す大大おおきききににに驚驚おどろかかかせせせ給給たまひひいててて、、、「「「およそおよそおよそ敕敕ちょっ勘勘かんののの者者ものははは、、、月月つき日日ひののの光光ひかりりりにににだにだにだに當當あたらららずずずとととこそこそこそ承承うけたまわれれれ。。。いかにいかにいかに況況いわんんんややや、、、時時じ刻刻こくををを廻廻めぐらさらさらさずずず。。。急急いそぎぎぎ追追おひひい下下くださささるるるべしべしべしととと、、、院院いん宣宣ぜん、、、宣宣せん旨旨じのののなりなりなりたるたるたるににに、、、少少すこしししもももやすらふやすらふやすらうべからべからべからずずず。。。衆衆しゅ徒徒と疾疾とう〳〵う〳〵うとう歸歸かえりりり上上のぼりりり給給たまふふうべしべしべし。。。」」」ととと端端はし近近ちかくくく出出いでででててて宣宣のたまひひいけるけるけるははは、、、
- 23「「「三三さん台台たい槐槐かい門門もんののの家家いえををを出出いでででててて、、、四四し明明めい幽幽ゆう溪溪けいののの窓窓まどににに入入いりりりしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、廣廣ひろくくく圓圓えん宗宗しゅうののの教教きょう法法ぼうををを學學がくしししててて、、、顯顯けん密密みつ兩兩りょう宗宗しゅうををを學學まなびびび、、、たゞたゞただわがわがわが山山やまののの興興こう隆隆りゅうをををのみのみのみ思思おもへへえりりり。。。またまたまた國國こく家家かををを祈祈いのりりり奉奉たてまつるるる事事こともももおろそかおろそかおろそかならならならずずず。。。衆衆しゅ徒徒とをををはぐゝむはぐゝむはぐくむ志志こころざしももも深深ふかかりかりかりききき。。。兩兩りょう所所しょ三三さん聖聖じょう定定さだめめめててて照照しょう覽覽らんししし給給たまふふうらんらんらん、、、身身みににに過過あやまつつつ事事ことなしなしなし。。。無無む實實じつののの罪罪つみににに依依よつつっててて、、、遠遠おん流流るののの重重じゅう科科かををを蒙蒙こうぶれれればばば、、、世世よをををももも人人ひとをををももも、、、神神かみをををももも佛佛ほとけをををももも、、、恨恨うらみみみ奉奉たてまつるるるかたかたかたなしなしなし。。。まことまことまことにににはる〴〵はる〴〵はるばるととと、、、これこれこれまでまでまで訪訪とぶらひひい來來きたりりり給給たまふふう衆衆しゅ徒徒とののの芳芳ほう志志しこそこそこそ、、、生生しょう々々じょう世世せ々々せにににももも報報ほうじじじ盡盡つくしししがたけれがたけれがたけれ。。。」」」とてとてとて香香こう染染ぞめののの御御おん衣衣ころもののの袖袖そでをををしぼりしぼりしぼりもももあへあへあえさせさせさせ給給たまははわねねねばばば、、、大大だい衆衆しゅもももみなみなみな鎧鎧よろいののの袖袖そでをををぞぞぞぬらしぬらしぬらしけるけるける。。。
- 24既既すでににに御御み輿輿こしさしさしさし寄寄よせせせててて、、、「「「とう〳〵とう〳〵とうとう召召めさささるるるべうべうびょう候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、先先せん座座ざ主主すのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「昔昔むかしこそこそこそ三三さん千千ぜんののの衆衆しゅ徒徒とののの貫貫かん首首じゅたりたりたりしかしかしか、、、今今いまははは斯斯かかるかるかる流流る人人にんののの身身みとととなつなつなっててて、、、いかでいかでいかでかかかやんごとなきやんごとなきやんごとなき修修しゅ覺覺がく者者しゃ、、、智智ち慧慧え深深ふかききき大大だい衆衆しゅたちたちたちににに舁舁かききき捧捧ささげげげられられられてててははは上上のぼるるるべきべきべき。。。たとひたとひたとい上上のぼるるるべきべきべきなりなりなりともともとも、、、藁藁わら沓沓んずなどなどなどいふいふいうものものものををを縛縛しばりりりはいはいはいててて、、、同同おなじじじやうやうようににに歩歩あゆみみみつゞいつゞいつづいてててこそこそこそ上上のぼらららめめめ。。。」」」とてとてとて、、、乘乘のりりり給給たまははわずずず。。。
- 25こゝこゝここににに西西さい塔塔とうののの住住じゅう侶侶りょ、、、戒戒かい淨淨じょう坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り祐祐ゆう慶慶けいととといふいふいう惡惡あく僧僧そうありありあり。。。丈丈たけ七七しち尺尺しゃくばかりばかりばかりありありありけるけるけるががが、、、黑黑くろ革革かわ緘緘おどしののの鎧鎧よろいののの、、、大大おお荒荒あら目目めににに金金こがねまぜまぜまぜたるたるたるををを、、、草草くさ摺摺ずり長長ながににに著著きなしなしなし、、、兜兜かぶとをををばばばぬいぬいぬいででで、、、法法ほっ師師しばらばらばらににに持持もたたたせせせつゝつゝつつ、、、白白しら柄柄えののの薙薙なぎ刀刀なた杖杖つえにににつきつきつき、、、大大だい衆衆しゅののの中中なかをををおしおしおしわけ〳〵わけ〳〵わけわけ、、、先先せん座座ざ主主すののの御御おん前前まえにににまゐりまゐりまいり、、、大大だいののの眼眼まなこををを見見みいからしいからしいからし、、、先先せん座座ざ主主すをををしばししばししばしにらまへにらまへにらまえ奉奉たてまつつつっててて、、、「「「そのそのその御御み心心こころでででこそこそこそ、、、斯斯かかるかるかる御御おん目目めにににももも合合あははわせせせ給給たまひひい候候そうらへへえ。。。とう〳〵とう〳〵とうとう召召めさささるるるべうべうびょう候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、先先せん座座ざ主主すおそろしさおそろしさおそろしさににに、、、急急いそぎぎぎ乘乘のりりりたまふたまふたまう。。。
- 26大大だい衆衆しゅ取取とりりり得得え奉奉たてまつるるる事事ことのののうれしさうれしさうれしさににに、、、いやしきいやしきいやしき法法ほっ師師しばらばらばらにににはははあらあらあらずずず、、、やんごとなきやんごとなきやんごとなき修修しゅ覺覺がく者者しゃどもどもども舁舁かききき捧捧ささげげげ奉奉たてまつつつっててて上上のぼるるるほどほどほどににに、、、人人ひとはははかはれかはれかわれどもどもども祐祐ゆう慶慶けいははは代代かわらららずずず、、、先先さき輿輿ごし舁舁かいいいててて、、、輿輿こしののの轅轅ながえももも、、、薙薙なぎ刀刀なたののの柄柄えももも碎碎くだけけけよよよととと取取とるるるまゝまゝままににに、、、さしもさしもさしもさかしきさかしきさかしき東東ひがし坂坂さか、、、平平へい地地ちををを行行ゆくくくががが如如ごとくくくなりなりなり。。。
- 27大大だい講講こう堂堂どうののの庭庭にはににに御御み輿輿こし舁舁かきききすゑすゑすえててて、、、大大だい衆衆しゅまたまたまた僉僉せん議議ぎすすす。。。「「「抑抑そもそもわれらわれらわれら粟粟あわ津津ずににに行行ゆききき向向むかつつっててて、、、貫貫かん首首じゅをををばばば奪奪うばひひい止止とどめめめ奉奉たてまつりりりぬぬぬ。。。但但ただししし敕敕ちょっ勘勘かんををを蒙蒙こうぶりりりててて、、、遠遠おん流流るせせせられられられ給給たまふふう人人ひとををを、、、貫貫かん首首じゅににに用用もちゐゐい申申もうさささんんんことことこと、、、いかゞいかゞいかがあるあるあるべからべからべからんんん。。。」」」ととと評評ひょう定定じょうすすす。。。戒戒かい淨淨じょう坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り祐祐ゆう慶慶けい、、、またまたまた前前さきののの如如ごとくくく進進すすみみみ出出いでででててて僉僉せん議議ぎしししけるけるけるははは、、、
- 28「「「それそれそれわがわがわが山山やまははは日日にっ本本ぽん無無ぶ雙雙そうののの靈靈れい地地ち、、、鎭鎭ちん護護ご國國こっ家家かののの道道どう場場じょう、、、山山さん王王おうののの御御ご威威い光光こう盛盛さかんんんにににしてしてして、、、佛佛ぶっ法法ぽう、、、王王おう法法ぼう互互ご角角かくなりなりなり。。。さればさればされば衆衆しゅ徒徒とののの意意い趣趣しゅににに至至いたるるるまでまでまで、、、雙雙ならびびびなくなくなく賤賤いやしきしきしき法法ほっ師師しばらばらばらまでまでまでももも、、、世世よ以以もっててて輕輕かろしめしめしめずずず。。。況況いわんんんややや智智ち慧慧え高高こう貴貴きにににしてしてして三三さん千千ぜんののの衆衆しゅ徒徒とののの貫貫かん首首じゅたりたりたり。。。德德とく行行ぎょう重重おもうううしてしてして一一いっ山山さんののの和和か尙尙しょうたりたりたり。。。罪罪つみなくなくなくしてしてして罪罪つみををを蒙蒙こうぶりりり給給たまふふうことことこと、、、山山さん上上じょう、、、洛洛らく中中ちゅうののの憤憤いきどおりりり、、、興興こう福福ぶく、、、園園おん城城じょうののの嘲嘲あざけりりりにににあらあらあらずずずややや。。。
- 29このこのこの時時ときわれらわれらわれら顯顯けん密密みつののの主主あるじををを失失うしなつつっててて、、、數數す輩輩はいののの學學がく侶侶りょ、、、長長ながくくく螢螢けい雪雪せつののの勤勤つとめめめををを怠怠おこたらららんんんことことこと、、、心心こころ憂憂うかるかるかるべしべしべし、、、詮詮せんずるずるずる所所ところ、、、祐祐ゆう慶慶けい張張ちょう本本ぼんににに召召めぜぜぜられられられ、、、禁禁きん獄獄ごく、、、流流る罪罪ざいにににももも及及およびびび、、、頭頭こうべののの刎刎はねねねられられられんんんことことこと、、、今今こん生生じょうののの面面めん目目ぼく、、、冥冥めい途途どののの思思おもひひいでででなるなるなるべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、雙雙そう眼眼がんよりよりより涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながしししけれけれければばば、、、數數す千千せん人人にんののの大大だい衆衆しゅもももみなみなみな、、、尤尤もっとも〳〵も〳〵ももっともとととぞぞぞ同同どうじじじけるけるける。。。それそれそれよりよりよりしてしてしてこそこそこそ祐祐ゆう慶慶けいをををばばば、、、いかめいかめいかめ坊坊ぼうとととはははいはいはいわれれれけれけれけれ。。。そのそのその弟弟で子子し慧慧え慶慶けい律律りつ師師しをををばばば時時ときののの人人ひと、、、小小こいかめいかめいかめ坊坊ぼうとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
現代語訳
治承元年(1177)五月五日、天台座主明雲大僧正は、朝廷の法会に招かれることを停止されたうえ、蔵人を使いとして如意輪観音の御本尊を召し返され、天皇の護持僧の役も解かれた。そして検非違使庁の使いをつけて、このたび神輿を内裏に振り込んだ衆徒の首謀者を召し出された。
加賀国に座主の御坊領があった。国司の師高がこれを廃止させたので、その恨みによって、座主が衆徒をそそのかして訴えを起こさせたのである。すでに朝廷の大事に及ぼうとしているということで、西光法師父子の讒言によって、法皇はたいへんお怒りになった。とりわけ重い罪に処せられるだろうということであった。明雲は院のご機嫌が悪かったので、印と鍵をお返しして、座主を辞された。
同じ月の十一日、鳥羽院の第七皇子の覚快法親王が天台座主におなりになった。これは青蓮院の大僧正行玄の御弟子である。翌十二日には、前座主の所領や職を没収されたうえ、検非違使二人をつけて、井戸にふたをし、火に水をかけるという、火も水も使わせない責めにかけられると聞こえた。そこで衆徒がなお京へ下ってくると聞こえたので、京中はまた騒ぎ合った。
同じ月の十八日、太政大臣以下の公卿十三人が参内して陣の座につき、前座主の罪科について評議があった。八条中納言長方卿は、そのときはまだ左大弁の宰相で末席に控えておられたが、進み出て申されるには、
「明法家の勘文のとおりに、死罪を一等減じて遠流にすべきであるとは見えておりますが、前座主明雲大僧正は顕教と密教をともに学び、清らかに戒律を守るうえ、法華経を天皇にお授けし、菩薩戒を法皇にお保たせ申しました。お経の師、お戒の師を重い罪に処することは、神仏のご覧になるところ、はかりがたいことです。還俗と遠流を軽くなさるべきではありませんか」と、遠慮もなく申し上げられたので、
その場の公卿はみな長方の意見に賛成すると申し合わされたけれども、法皇のお怒りが深かったので、やはり遠流と決められた。太政入道(清盛)もこのことを申し上げようと院に参られたが、法皇はお風邪だということで御前にもお召しにならなかったので、不本意な様子で退出された。僧を罪にする習わしとして、度縁を取り上げて還俗させ申し、大納言大夫藤井松枝という俗名をつけられた。
この明雲と申す方は、口にするのも恐れ多いことだが、村上天皇の第七皇子具平親王から六代目の御子孫で、久我大納言顕通卿の御子である。まことに並ぶ者のない高徳の僧で、天下第一の高僧でいらっしゃったので、君も臣も尊ばれて、天王寺や六勝寺の別当も兼ねておられた。
けれども陰陽頭の安倍泰親が申したことには、「あれほどの知恵者が、明雲と名のっておられるのは納得がいかない。上には日と月の光を並べながら、下に雲がある」と非難した。
仁安元年(1166)二月二十日に天台座主におなりになった。同じ年の三月十五日に御拝堂があった。根本中堂の宝蔵を開かれると、さまざまな宝物の中に、一尺四方の箱があった。白い布で包まれている。一生戒律を犯さない座主がその箱を開けてご覧になると、黄色い紙に書いた文が一巻あった。伝教大師が、未来の座主の名をかねて書き置かれていたのである。
自分の名のあるところまでは見て、そこから先は見ずに、もとのように巻き戻して置くのが習わしである。だからこの僧正も、きっとそうなさったのだろう。このように尊い人であっても、前世の宿業は免れられなかったのは、あわれなことであった。
同じ月の二十一日、配所は伊豆国と決められた。人々がいろいろと申し上げたけれども、西光法師父子の讒言によって、このように処置されたのである。今日すぐに都の内から追い出すべしということで、追い立ての役人が白河の御坊に向かってお追い立て申した。僧正は泣く泣く御坊を出て、粟田口のあたりの一切経の別所にお入りになった。
延暦寺では、結局のところ、われらの敵は西光法師父子にまさる者はないということで、その父子の名を書いて、根本中堂においでになる十二神将の中の金比羅大将の左の御足の下に踏ませ申し、「十二神将、七千夜叉よ、時を移さず西光法師父子の命を召し取りたまえ」と、わめき叫んで呪詛したのは、聞くだけでも恐ろしいことであった。
同じ月の二十三日、一切経の別所から配所へ向かわれた。あれほどの法務の大僧正ほどの人が、追い立ての使いに先へ蹴立てられて、今日を限りに都を出て、逢坂の関の東へ向かわれた心のうちは、推し量られてあわれである。大津の打出の浜にもなると、比叡山の文殊楼の軒端が白々と見えたのを、二度とはご覧にならず、袖を顔に押し当てて涙にむせばれた。
延暦寺には長老や高徳の僧が多かったけれども、澄憲法印は、そのときはまだ僧都でいらっしゃったが、あまりに名残を惜しみ申して粟津までお送りし、そこでお別れして帰られるときに、僧正はその志の深さに感じて、長年心の中に秘めておられた一心三観の血脈相承をお授けになった。
この法は、釈尊が付嘱し、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の龍樹菩薩から次々に伝えられてきたものを、今日の情けにお授けになったのである。わが国は粟粒を散らしたような辺地の小国で、濁った末の世とはいいながら、澄憲はこれを授けられて、法衣の袂を涙でしぼりながら都へ帰り上られたであろう、その心のうちこそ尊いことである。
そうしているうちに延暦寺では衆徒が立ち上がって評議した。「そもそも義真和尚からこのかた、天台座主が始まって五十五代に至るまで、まだ流罪の例を聞かない。よくよく事の意味を考えてみると、延暦のころ、桓武天皇は都を建て、伝教大師はこの山に登って天台の教えをここに広められてからこのかた、五障の女人の足跡は絶えて、三千の清らかな僧がここに住んでいる。
峰では法華経の読誦が年を重ね、麓では日吉七社の霊験が日々新たである。あのインドの霊鷲山は王舎城の東北にある釈迦の住まいであった。この日本の比叡山も、都の鬼門にそびえ立つ護国の霊地である。代々の賢王や智臣がここに戒壇を設けてきた。末の世だからといって、どうしてこの山に傷をつけてよいものか。これは情けない」と、わめき叫ぶや否や、山じゅうの衆徒は一人残らず東坂本へ下っていった。
十禅師権現の御前で衆徒はまた評議した。「そもそもわれらは粟津へ向かって、座主をお奪い返し申すべきだ。ただし追い立ての使いや両送使がいるので、たやすくは取り返せまい。今は山王と大師のお力のほかに頼み申すものはない。本当に何の支障もなく取り返せるのなら、ここでまず一つのしるしをお見せください」と、老僧たちは肝を砕いて祈念した。
ここに無動寺の法師乗円律師が召し使っていた鶴丸という童がいた。十八歳になる者であったが、身も心も苦しめ、全身に汗を流して、にわかに狂い出した。「わが十禅師権現が乗り移っておられる。末の世といっても、どうしてわが山の座主をほかの国へ移してよいものか。生々世々に情けない。そうなるのなら、私がこの麓に跡をとどめても何になろう」といって、左右の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いたので、
衆徒はこれを怪しんで、「本当に十禅師権現のお告げでいらっしゃるなら、われらはしるしを差し上げよう。一つ一つもとの持ち主にお返しください」といって、老僧ども四、五百人が、手に手に持っていた数珠を、十禅師権現の大床の上へ投げ上げた。その物狂いは走り回って拾い集め、少しも違えず、一つ一つみなもとの持ち主に配った。衆徒は神の霊験のあらたかなことの尊さに、みな手を合わせて、ありがたさの涙を流した。
「それならば、向かって行ってお奪い返し申せ」と言うや否や、雲や霞のように出発した。あるいは滋賀・唐崎の浜辺の道を歩き続ける衆徒もあり、あるいは山田・矢橋の湖上に舟をこぎ出す衆徒もあった。これを見て、あれほど厳しそうだった追い立ての使いや両送使は、散り散りにみな逃げ去ってしまった。
衆徒は国分寺へ向かった。前座主はたいへん驚かれて、「そもそも勅勘を受けた者は、月日の光にさえ当たらないものと聞いている。まして時を移さず急いで追い下せという院宣や宣旨が下っているのに、少しもぐずぐずしてはならない。衆徒は早く山へお帰りなさい」と、縁先近くに出ておっしゃるには、
「私は大臣の家を出て比叡山の谷の窓に入ってからこのかた、広く天台の教えを学び、顕密の両宗を学んで、ただわが山の興隆だけを思ってきた。また国家をお祈り申し上げることもおろそかにしなかった。衆徒を育てる志も深かった。山王の両所三聖もきっとご覧になっているだろう、私の身に過ちはない。無実の罪によって遠流の重罪を受けるのだから、世をも人をも、神をも仏をも、お恨み申し上げるところはない。はるばるとここまで訪ねて来てくださった衆徒の志こそ、生々世々にも報い尽くしがたい」といって、香染の御衣の袖を涙でしぼりきれないほどであったので、衆徒もみな鎧の袖をぬらした。
すでに御輿を寄せて「早くお乗りください」と申したところ、前座主がおっしゃるには、「昔こそ三千の衆徒の座主であったが、今はこのような流人の身となって、どうして尊い修学者や智慧深い衆徒たちに担がれて山へ上れようか。たとえ上るべきであるとしても、わらぐつなどというものをはいて、同じように歩き続けて上りたい」といってお乗りにならない。
ここに西塔の住侶で戒浄坊の阿闍梨祐慶という悪僧がいた。身の丈七尺ほどもある者であったが、黒革縅の鎧の大荒目に金をまぜたものを草摺を長く着こなし、兜を脱いで法師たちに持たせ、白柄の長刀を杖について、衆徒の中を押し分け押し分け前座主の御前に参り、大きな目をいからせて、前座主をしばらくにらみつけ申し、「そのようなお心だからこそ、このような目にもお遭いになるのです。早くお乗りください」と申したので、前座主は恐ろしさに急いでお乗りになった。
衆徒は取り返し申したことのうれしさに、身分の低い法師たちではなく、尊い修学者たちが担ぎ申して上っていくと、担ぎ手は代わっても祐慶は代わらず、前の担ぎ棒を担いで、輿の轅も長刀の柄も砕けよとばかりに握ったまま、あれほど険しい東坂を、平地を行くように上っていった。
大講堂の庭に御輿を据えて、衆徒はまた評議した。「そもそもわれらは粟津に向かって、座主をお奪い返し申した。ただし勅勘を受けて遠流になられた人を座主に用いることは、いかがなものか」と評定した。戒浄坊の阿闍梨祐慶が、また前のように進み出て評議するには、
「そもそもわが山は日本に並ぶもののない霊地、国家を鎮め護る道場で、山王のご威光は盛んであり、仏法と王法は互角である。だから衆徒の意向に至るまで、比べるもののない卑しい法師たちまでも、世間は軽んじない。まして(明雲は)智慧も高く尊く三千の衆徒の座主であり、徳行も重くて一山の和尚である。罪もないのに罪を受けられることは、山上・洛中の憤り、興福寺・園城寺のあざけりではないか。
今、われらが顕密の主を失って、多くの学僧が長く学問の勤めを怠ることになれば、情けないことである。結局のところ、この祐慶が首謀者として召し出され、投獄や流罪にもなり、首をはねられることは、この世の名誉、あの世への思い出となろう」と言って、両目から涙をはらはらと流したので、数千人の衆徒もみな「もっともだ、もっともだ」と同意した。それからこそ祐慶は「いかめ坊」と呼ばれるようになった。その弟子の慧慶律師を、当時の人は「小いかめ坊」と申した。
意訳
神輿入洛の責任を問われた天台座主明雲の配流を語る章段である。罪を問うことに慎重な藤原長方の意見も、清盛のとりなしも退けられ、明雲は還俗させられて伊豆へ流されることになる。物語はこれを、西光父子の讒言と後白河法皇の怒りによるものとし、天台座主が流罪になるという前代未聞の事態に、延暦寺の衆徒が激しく反発するさまを描く。
後半は、衆徒が明雲を奪い返す場面である。十禅師権現が童に乗り移って託宣し、投げ上げられた数珠をもとの持ち主に配り分けるという奇瑞によって、衆徒は奪還を決める。明雲は勅勘の身であることを理由に山へ戻ることを拒むが、悪僧祐慶がにらみつけて輿に乗せ、自ら担ぎ棒を握って山へ上る。荒々しい僧兵の姿の中に、座主への深い敬愛が表れている。こうした延暦寺と院の対立が、次の西光の処刑と鹿ケ谷事件の露見へとつながっていく。
語釈・文法注
- 公請
- 朝廷から法会や講義に招かれること。僧にとって名誉なことであった。
- 度緣
- 出家して僧となったことを認める、朝廷からの証明書。
- 鬱使
- 「領送使」の当て字か。流人を配所まで護送する役人。
- 一心三觀
- 天台宗の根本の観法。一つの心に空・仮・中の三つの真理を同時に観ずること。その奥義の伝授を血脈相承という。
文法
- 「明雲と名乘り給ふこそ心得ね」
- 「明」の字が「日」と「月」からなり、その下に「雲」があるのは、日月の光が雲に隠れることを示していて不吉だ、という意味の言葉遊び。
- 「さこそはおはしましけめ」
- 「けめ」は過去推量の助動詞「けむ」の已然形で、係助詞「こそ」の結び。そうなさったのであろう、の意。
- 「藁沓」
- 底本は「藁沓」に「わらんづ」とふりがなを付ける。わらで作ったくつ。
- 「その御心でこそ、斯かる御目にも合はせ給ひ候へ」
- そのような弱気なお心だから、このような目にもお遭いになるのだ、と祐慶が明雲を叱りつける言葉。
解説
天台座主明雲(1115〜1184)は、村上源氏の久我顕通の子で、後白河院や清盛の帰依を受け、清盛の出家の際の戒師も務めた。安元三年(治承元年、1177)、延暦寺の強訴の責任を問われて伊豆への配流が決まったが、護送の途中で衆徒に奪還された。のちに許されて座主に復帰したが、寿永二年(1183)の法住寺合戦で木曾義仲の軍に殺された(巻第八)。
明雲の配流と衆徒による奪還は、後白河院と延暦寺の対立を決定的にした。院は延暦寺を攻めるよう清盛に命じたが、清盛は延暦寺との戦いをためらった。その直後に鹿ケ谷の陰謀が多田行綱の密告で露見し、院の近臣たちが捕らえられることになる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、299–306頁(コマ178–182)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日