平家物語 巻第一
内裏炎上の事
神輿は祇園社に移されるが、神輿を射たことに怒った衆徒は再び下洛の構えを見せ、天皇は法住寺殿に避難する。平時忠は一紙の文で衆徒の怒りを鎮め、師高は流罪、神輿を射た重盛の侍たちは投獄される。その直後、樋口富小路から出た火が京中と大内裏を焼き尽くし、人々は山王の神罰と噂した。
- 1夕夕ゆうべににに及及およんんんででで藏藏くら人人うどののの左左さ少少しょう辨辨べん兼兼かね光光みつににに仰仰おおせせせててて、、、院院いんののの殿殿てん上上じょうにににててて、、、俄俄にはかににに公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありけりけりけり。。。去去さんんんぬるぬるぬる保保ほう安安あん四四し年年ねん四四し月月がつににに神神しん輿輿よ入入じゅ洛洛らくののの時時ときははは、、、座座ざ主主すににに仰仰おおせせせててて、、、赤赤せき山山さんののの社社やしろへへへ入入いれれれ奉奉たてまつるるる。。。またまたまた保保ほう延延えん四四し年年ねん七七しち月月がつににに神神しん輿輿よ入入じゅ洛洛らくののの時時ときははは、、、祇祇ぎ園園おんののの別別べっ當當とうににに仰仰おおせせせててて、、、祇祇ぎ園園おんののの社社やしろへへへ入入いれれれ奉奉たてまつらららるるる。。。
- 2今今こん度度どももも保保ほう延延えんののの例例れいたるたるたるべしべしべしとてとてとて、、、祇祇ぎ園園おんののの別別べっ當當とう權權ごんののの大大だい僧僧そう都都ず澄澄ちょう憲憲けんににに仰仰おおせせせ、、、秉秉へい燭燭しょくににに及及およんんんででで祇祇ぎ園園おんののの社社やしろへへへ入入いれれれ奉奉たてまつらららるるる。。。神神しん輿輿よににに立立たつつつ所所ところののの矢矢やをををばばば、、、神神じん人人にんしてしてしてこれこれこれををを拔拔ぬかかかせせせらるらるらる。。。
- 3昔昔むかしよりよりより山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅ、、、神神しん輿輿よををを陣陣じん頭頭とうへへへ振振ふりりり奉奉たてまつるるることことことははは、、、去去さんんんぬるぬるぬる永永えい久久きゅうよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、治治じ承承しょうまでまでまでははは六六ろく個個か度度どなりなりなり。。。されどもされどもされども毎毎まい度度どににに武武ぶ士士しににに仰仰おおせせせててて拒拒ふせがががせせせらるゝらるゝらるるににに、、、神神しん輿輿よ射射い奉奉たてまつるるることことことははは、、、これこれこれはじめはじめはじめとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。靈靈れい神神じん怒怒いかりりりをををなせなせなせばばば、、、災災さい害害がい巷巷ちまたににに滿滿みつつつととといへいへいえりりり、、、恐恐おそろし〳〵ろし〳〵ろしおそろしとととぞぞぞ、、、各各おのおのににに宣宣のたまひひい合合あははわれれれけるけるける。。。
- 4同同おなじきじきじき十十じゅう四四よ日日かののの夜夜や半半はんばかりばかりばかり、、、山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅ、、、またまたまた夥夥おびただしうしうしゅう下下げ洛洛らくすすすととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、主主しゅ上上しょうははは夜夜よ中中なかににに腰腰ようににに召召めしししててて、、、院院いんののの御御ご所所しょ法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのへへへ行行ぎょう幸幸こうなるなるなる。。。中中ちゅう宮宮ぐう、、、宮宮みや々々みやははは、、、御御おん車車くるまににに奉奉たてまつりりりててて、、、他他た所所しょへへへ行行ぎょう啓啓けいありありありけりけりけり。。。
- 5關關かん白白ぱく殿殿どのををを始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん以以い下下げののの卿卿けい相相しょう雲雲うん客客かくわれわれわれも〳〵も〳〵もわれもととと供供ぐ奉奉ぶせせせらるらるらる。。。小小こ松松まつののの大大おと臣臣どははは直直なお衣衣しににに矢矢や負負おうううててて供供ぐ奉奉ぶせせせらるらるらる。。。嫡嫡ちゃく子子し權權ごんののの佐佐すけ少少しょう將將しょう維維これ盛盛もりははは束束そく帶帶たいににに平平ひら箙箙やなぐい負負おうううてててぞぞぞ参参まいららられれれけるけるける。。。およそおよそおよそ禁禁きん中中ちゅうののの上上じょう下下げ、、、京京きょう中中じゅうののの貴貴き賤賤せん、、、騒騒さわぎぎぎのゝしるのゝしるののしることことこと夥夥おびただししし。。。
- 6されどもされどもされども山山さん門門もんにににははは、、、神神しん輿輿よににに矢矢や立立たちちち、、、神神じん人人にん、、、宮宮みや仕仕じ、、、射射い殺殺ころささされれれ、、、衆衆しゅ徒徒と多多おおくくく傷傷きずををを被被こうぶりりりたりたりたりしかしかしかばばば、、、大大おお宮宮みや、、、二二に宮宮のみや以以い下下げ、、、講講こう堂堂どう、、、中中ちゅう堂堂どう、、、すべてすべてすべて諸諸しょ堂堂どう、、、一一いち宇宇うももも殘殘のこさささずずず、、、みなみなみな燒燒やききき拂拂はらつつっててて、、、山山さん野野やにににまじはるまじはるまじわるべきべきべき由由よし、、、三三さん千千ぜん一一いち同同どうににに僉僉せん議議ぎすすす。。。
- 7これこれこれににに依依よつつっててて大大だい衆衆しゅののの申申もうすすす所所ところ、、、法法ほう皇皇おう御御おんはからひはからひはからいあるあるあるべしべしべしととと聞聞きこえええししし程程ほどににに、、、山山さん門門もんののの上上じょう綱綱こう等等ら、、、仔仔し細細さいををを衆衆しゅ徒徒とににに觸觸ふれれれんんんとてとてとて、、、登登とう山山ざんしししたりたりたりけるけるけるををを、、、大大だい衆衆しゅ西西にし坂坂さか本本もとにににおりおりおり下下くだりりりててて、、、皆皆みな追追おつつっかへすかへすかえす。。。
- 8平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょう、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ左左さ衞衞え門門もんののの督督かみにににててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、上上しょうににに立立たつつつ。。。大大だい講講こう堂堂どうののの庭庭にはににに三三さん塔塔とう會會かい合合ごうしししててて、、、「「「上上しょう卿卿けいををを取取とつつってててひつぱりひつぱりひっぱり、、、しやしやしや冠冠こうぶりををを打打うち落落おとししし、、、そのそのその身身みををを搦搦からめめめててて湖湖みずうみににに沈沈しずめめめよよよ。。。」」」などなどなどぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 9既既すでにににかうかうこうととと見見みえええししし時時とき、、、時時とき忠忠ただののの卿卿きょう、、、大大だい衆衆しゅののの中中なかへへへ使使し者者しゃををを立立たてててててて、、、「「「暫暫しばらくくく鎭鎭しずまらまらまられれれ候候そうらへへえ。。。衆衆しゅ徒徒とののの御御おん中中なかへへへ申申もうすすすべきべきべき事事ことののの候候そうろう。。。」」」とてとてとて、、、懷懷ふところよりよりより小小こ硯硯すずり、、、疊疊たとう紙紙がみとりとりとり出出いだししし、、、一一ひと筆筆ふで書書かいいいててて大大だい衆衆しゅののの中中なかへへへ送送おくらららるるる。。。これこれこれををを開開ひらいいいててて見見みるるるににに、、、「「「衆衆しゅ徒徒とののの濫濫らん惡惡あくをををいたすいたすいたすははは、、、ののの所所しょ行行ぎょうなりなりなり、、、明明みょう王王おうののの制制せい止止しををを加加くわふるふるうるははは、、、善善ぜん逝逝せいののの加加か護護ごなりなりなり。。。」」」とととこそこそこそ書書かかかかれれれたれたれたれ。。。
- 10これこれこれををを見見みててて、、、大大だい衆衆しゅひつぱるひつぱるひっぱるにににももも及及およばばばずずず、、、みなみなみな尤尤もっとも〳〵も〳〵ももっともととと同同どうじじじててて、、、谷谷たに々々だにににに下下おりりり、、、坊坊ぼう々々ぼうへへへぞぞぞ入入いりりりにににけるけるける。。。一一いっ紙紙し一一いっ句句くををを以以もっててて三三さん塔塔とう三三さん千千ぜんののの憤憤いきどおりりりをををやすめやすめやすめ、、、公公こう私私しののの恥恥はじをををももも遁遁のがれれれ給給たまひひいけんけんけん、、、時時とき忠忠ただののの卿卿きょうこそこそこそゆゝしけれゆゝしけれゆゆしけれ。。。山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅははは、、、發發はっ向向こうのののみだりがはしきみだりがはしきみだりがわしき許許ばかりりりかかかととと思思おもひひいぬれぬれぬればばば、、、理理ことわりをををももも存存ぞんじじじけりけりけりとととぞぞぞ、、、人人ひと々々びと感感かんじじじ合合あははわれれれけるけるける。。。
- 11同同おなじきじきじき二二は十十つ日日かののの日日ひ、、、花花か山山ざんののの院院いんののの權權ごん中中ちゅう納納な言言ごん忠忠ただ親親ちかののの卿卿きょうををを上上しょう卿卿けいにににててて、、、國國こく司司し加加か賀賀がののの守守かみ師師もろ高高たかををを闕闕けっ官官かんせせせられられられててて、、、尾尾お張張はりののの井井い戸戸ど田田だへへへ流流ながさささるるる。。。弟弟おとうと近近こん藤藤どう判判ほう官官がん師師もろ經經つねをををばばば禁禁きん獄獄ごくせせせらるらるらる。。。又又また去去さんんんぬるぬるぬる十十じゅう三三さん日日にち、、、神神しん輿輿よ射射い奉奉たてまつりりりししし武武ぶ士士し六六ろく人人にん、、、獄獄ごく定定じょうせせせらるらるらる。。。これらこれらこれらはははみなみなみな小小こ松松まつ殿殿どのののの侍侍さぶらいなりなりなり。。。
- 12同同おなじきじきじき二二に十十じゅう八八はち日日にちののの夜夜よののの戌戌いぬののの刻刻こくばかりばかりばかり、、、樋樋ひ口口ぐち富富とみののの小小こう路路じよりよりより火火ひ出出いででで來來きたつつっててて、、、京京きょう中中じゅう多多おおくくく燒燒やけけけにににけりけりけり。。。折折おりふしふしふし巽巽たつみののの風風かぜはげしくはげしくはげしく吹吹ふきききけれけれければばば、、、大大おおきききなるなるなる車車くるま輪輪わののの如如ごとくくくなるなるなる炎炎ほのおががが、、、三三さん町町ちょう五五ご町町ちょうををを隔隔へだてててててて、、、乾乾いぬいののの方方かたへへへすぢかひすぢかひすじかいににに飛飛とびびび越越こえ〳〵え〳〵えこえ燒燒やけけけゆけゆけゆけばばば、、、恐恐おそろしろしろしなどなどなどもももおろかおろかおろかなりなりなり。。。
- 13或或あるいははは具具ぐ平平へい親親しん王王のうののの千千ち種種ぐさ殿殿どの、、、或或あるいははは北北きた野野のののの天天てん神神じんののの紅紅こう梅梅ばい殿殿どの、、、橘橘きつ逸逸いつ勢勢せいののの蠅蠅はえ松松まつ殿殿どの、、、鬼鬼おに殿殿どの、、、高高たか松松まつ殿殿どの、、、鴨鴨かも居居い殿殿どの、、、東東とう三三さん條條じょう、、、冬冬ふゆ嗣嗣つぎののの大大おと臣臣どののの閑閑かん院院いん殿殿どの、、、昭昭しょう宣宣せん公公こうののの堀堀ほり川川かわ殿殿どの、、、これこれこれををを始始はじめめめててて、、、昔昔むかし今今いまののの名名めい所所しょ三三さん十十じゅう餘餘よ個個か所所しょ、、、公公く卿卿ぎょうののの家家いえだにだにだにももも、、、十十じゅう六六ろく個個か所所しょまでまでまで燒燒やけけけにににけりけりけり。。。そのそのその外外ほか殿殿てん上上じょう人人びと、、、諸諸しょ大大だい夫夫ぶののの家家いえ々々いえはははしるすしるすしるすににに及及およばばばずずず。。。
- 14はてはてはてははは大大だい内内だいににに吹吹ふきききつけつけつけててて、、、朱朱しゅ雀雀じゃく門門もんよりよりより始始はじめめめててて應應おう天天てん門門もん、、、會會かい昌昌しょう門門もん、、、大大だい極極ごく殿殿でん、、、豐豐ぶ樂樂らく院院いん、、、諸諸しょ司司し八八はっ省省しょう、、、朝朝あい、、、一一ひと時時ときがががうちうちうちににに、、、みなみなみな灰灰かい燼燼じんののの地地ちとととぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。家家いえ々々いえののの日日にっ記記き、、、代代だい々々だいののの文文もん書書じょ、、、七七しっ珍珍ちん萬萬まん寶寶ぽう、、、さながらさながらさながら塵塵ちり灰灰はいとととなりなりなりぬぬぬ。。。そのそのその間間あいだのののつひえつひえついえいかばかりいかばかりいかばかりぞぞぞ。。。人人ひとののの燒燒やけけけ死死しぬるぬるぬることことこと數數すう百百ひゃく人人にん、、、牛牛ぎゅう馬馬ばののの類類たぐい、、、數數かずををを知知しらららずずず。。。
- 15これこれこれたゞたゞただごとごとごとにににあらあらあらずずず。。。山山さん王王おうののの御御おん咎咎とがめめめとてとてとて、、、叡叡えい山山ざんよりよりより大大おおきききなるなるなる猿猿さるどもどもどもががが二二に三三さん千千ぜんおりおりおり下下くだりりり、、、手手てんんん手手でににに松松たい火火まつをををともいともいともいててて京京きょう中中じゅうををを燒燒やくくくとととぞぞぞ、、、人人ひとののの夢夢ゆめにににははは見見みえええたりたりたりけるけるける。。。
- 16大大だい極極ごく殿殿でんははは淸淸せい和和わ天天てん皇皇のうののの御御ぎょ宇宇う貞貞じょう觀觀がん十十じゅう八八はち年年ねんににに、、、始始はじめめめててて燒燒やけけけたりたりたりけれけれければばば、、、同同おなじきじきじき十十じゅう九九く年年ねん正正しょう月月がつ三三みつ日日かののの日日ひ、、、陽陽よう成成ぜい院院いんののの御御ご即即そく位位いははは豐豐ぶ樂樂らく院院いんにににてててぞぞぞありありありけるけるける。。。元元がん慶慶ぎょう元元がん年年ねん四四し月月がつ九九ここの日日かののの日日ひ、、、事事こと始始はじめめめあつあつあっててて、、、同同おなじきじきじき二二に年年ねん十十じゅう月月がつ八八よう日日かののの日日ひぞぞぞ造造つくりりり出出いだささされれれたりたりたりけるけるける。。。
- 17後後ご冷冷れい泉泉ぜい院院いんののの御御ぎょ宇宇う天天てん喜喜ぎ五五ご年年ねん二二に月月がつ二二に十十じゅう六六ろく日日にち、、、またまたまた燒燒やけけけにににけりけりけり。。。治治じ曆曆りやく四四し年年ねん八八はち月月がつ十十じゅう四四よ日日かににに事事こと始始はじめめめありありありしかしかしかどもどもども、、、いまだいまだいまだ造造つくりりりももも出出いだささされれれずずずしてしてして、、、後後ご冷冷れい泉泉ぜい院院いん崩崩ほう御御ぎょなりなりなりぬぬぬ。。。御御ご三三さん條條じょうののの院院いんののの御御ぎょ宇宇う、、、延延えん久久きゅう四四し年年ねん四四し月月がつ十十じゅう五五ご日日にちににに造造つくりりり出出いだささされれれててて、、、文文ぶん人人じん詩詩しををを上上たてまつりりり、、、伶伶れい人人じん樂樂がくををを奏奏そうしししててて遷遷せん幸幸こうなしなしなし奉奉たてまつるるる。。。今今いまははは世世よ末末すえににになつなつなっててて、、、國國くにののの力力ちからもももみなみなみな衰衰おとろへへえたれたれたればばば、、、そのそのその後後のちははは遂遂ついににに造造つくららられれれずずず。。。
現代語訳
夕方になって、蔵人の左少弁兼光に命じて、院の殿上で急に公卿の会議があった。去る保安四年(1123)四月に神輿が入洛したときは、天台座主に命じて赤山の社へお入れした。また保延四年(1138)七月に神輿が入洛したときは、祇園の別当に命じて祇園社へお入れになった。
今度も保延の例にならうべきだということで、祇園の別当の権大僧都澄憲に命じて、灯をともすころに祇園社へお入れになった。神輿に立った矢は、神人に命じて抜かせられた。
昔から延暦寺の衆徒が神輿を陣頭に担ぎ込んだことは、去る永久年間からこのかた治承までに六度ある。けれども毎回武士に命じて防がせたものの、神輿に矢を射かけ申したのは、これが初めてだと聞く。「霊神が怒れば災害が巷に満ちるという。恐ろしい、恐ろしい」と、人々はめいめい語り合われた。
同じ月の十四日の夜半ごろ、延暦寺の衆徒がまたおびただしく京へ下ってくると聞こえたので、天皇は夜中に腰輿にお乗りになって、院の御所の法住寺殿へ行幸なさった。中宮や宮々は御車に乗られて、ほかの所へお移りになった。
関白殿をはじめとして、太政大臣以下の公卿・殿上人が、われもわれもとお供なさった。小松の大臣は直衣に矢を負ってお供なさった。嫡子の権佐少将維盛は、束帯に平箙を負って参られた。宮中の上下の人々も、京中の貴賤も、騒ぎたてることはおびただしかった。
けれども延暦寺では、神輿に矢が立ち、神人や宮仕が射殺され、衆徒の多くが傷を負ったので、大宮・二宮以下、講堂・中堂など、すべての堂を一つ残らず焼き払って、山野に身を隠そうと、三千の衆徒が一同に評議した。
そこで衆徒の申すところについては、法皇がおはからいになるだろうと聞こえていたので、延暦寺の高僧たちが、その事情を衆徒に知らせようとして登山したところ、衆徒は西坂本まで下りてきて、みな追い返した。
平大納言時忠卿は、そのときはまだ左衛門督でいらっしゃったが、上卿として遣わされた。大講堂の庭に三塔の衆徒が集まって、「上卿を捕らえて引っ張り、冠をたたき落とし、その身を縛って湖に沈めてしまえ」などと言った。
もはやこれまでと見えたとき、時忠卿は衆徒の中へ使者を立てて、「しばらくお静まりください。衆徒の方々に申し上げたいことがございます」と言って、懐から小硯と畳紙を取り出し、一筆書いて衆徒の中へ送られた。これを開いて見ると、「衆徒が乱暴をはたらくのは、魔縁のしわざである。明王(天皇)がそれを制止なさるのは、仏の加護である」と書かれていた。
これを見て、衆徒は時忠を引っ張るまでもなく、みな「もっともだ、もっともだ」と同意して、谷々に下り、それぞれの坊に入ってしまった。一枚の紙の一句で、三塔三千の衆徒の怒りを静め、公私の恥をも逃れられたのであろう、時忠卿こそたいしたものである。延暦寺の衆徒は、押しかけて乱暴をはたらくばかりかと思っていたが、道理もわきまえていたのだと、人々は感心し合われた。
同じ月の二十日、花山院の権中納言忠親卿を上卿として、国司加賀守師高を解官して、尾張の井戸田へ流された。弟の近藤判官師経は投獄された。また去る十三日に神輿を射申した武士六人も、獄に入れられた。これらはみな小松殿の侍である。
同じ月の二十八日の夜、戌の刻(午後八時ごろ)に、樋口富小路から火が出て、京中が多く焼けた。ちょうど東南の風が激しく吹いていたので、大きな車輪のような炎が、三町五町を隔てて、西北の方へ斜めに飛び越え飛び越え燃え広がっていくので、恐ろしいなどという言葉では言い尽くせない。
あるいは具平親王の千種殿、あるいは北野天神(菅原道真)の紅梅殿、橘逸勢の蠅松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条殿、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公(藤原基経)の堀川殿をはじめとして、昔から今までの名所三十余か所、公卿の家だけでも十六か所まで焼けてしまった。そのほか殿上人や諸大夫の家々は、記すまでもない。
しまいには大内裏に吹きつけて、朱雀門をはじめ、応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・諸司八省・朝所が、一時のうちにみな灰の地となってしまった。家々の日記、代々の文書、あらゆる財宝が、そっくり塵や灰になった。その損失はどれほどであろうか。焼け死んだ人は数百人、牛馬のたぐいは数も知れない。
これはただごとではない。山王のお咎めとして、比叡山から大きな猿が二、三千匹下りてきて、手に手に松明をともして京中を焼いたのだと、人の夢に見えたという。
大極殿は、清和天皇の御代の貞観十八年(876)に初めて焼けたので、翌十九年正月三日、陽成院の御即位は豊楽院で行われた。元慶元年(877)四月九日に再建工事が始まって、同二年十月八日に造り上げられた。
後冷泉院の御代、天喜五年(1057)二月二十六日にまた焼けた。治暦四年(1068)八月十四日に工事が始まったけれども、まだ造り上がらないうちに後冷泉院が崩御された。後三条院の御代、延久四年(1072)四月十五日に造り上げられて、文人が詩を献上し、楽人が楽を奏して天皇をお移し申し上げた。今は末の世になって、国の力もみな衰えたので、その後はついに再建されなかった。
意訳
巻第一の結びとなる章段である。神輿に矢を射かけた事件の後始末として、神輿を祇園社に移し、師高を流罪にするまでが語られる。延暦寺の衆徒は、山中の堂をすべて焼いて山を捨てるとまで息巻くが、交渉に赴いた平時忠が、「衆徒の乱暴は魔縁のしわざ、天皇の制止は仏の加護」という一句を書き送って、たちまち衆徒を納得させる。「この一門にあらざらん者は」の放言で知られた時忠の、機知と胆力が描かれている。
後半は、安元三年四月二十八日の大火である。「太郎焼亡」とも呼ばれるこの火事は、樋口富小路から出火して、東南の風にあおられ、貴族の名邸や大内裏の大極殿までを焼き尽くした。この火事は、『方丈記』に「安元の大火」として描かれているものと同じである。
物語は、この大火を山王の神罰として語る。比叡山から下りた猿たちが松明をともして都を焼いたという夢は、神輿を射たことへの報いを、人々がどのように受けとめたかを示している。そして最後に、大極殿がこれまで焼けるたびに再建されてきたことを述べたうえで、「その後は遂に造られず」と結ぶ。国の力の衰えを告げるこの一文は、王朝の世の終わりと、平家の時代の行く末とを暗示して、巻第一を閉じている。
語釈・文法注
- 腰輿
- 輿を担ぐ者が腰のあたりで支えて運ぶ輿。急な外出のときなどに用いた。
- 上卿
- 朝廷の儀式や政務を取りしきる公卿。ここでは延暦寺との交渉に遣わされた責任者。
- 魔厭
- 底本の表記。ふりがなは「まえん」で、仏道の妨げをする悪魔の意の「魔縁」の誤植と考えられる(「妓王が事」にも同じ表記がある)。
- 朝所
- 太政官の庁舎の一つで、公卿が会食などをした所。「あいたんどころ」と読む。
文法
- 「靈神怒りをなせば、災害巷に滿つ」
- 神が怒れば災いが世に満ちる、という古い言葉。
- 「既にかうと見えし時」
- もうこれまで(時忠が捕らえられる)と見えたときに、の意。
- 「明王の制止を加ふるは、善逝の加護なり」
- 「明王」は賢明な君主、すなわち天皇。「善逝」は仏の十号の一つで、仏のこと。衆徒を悪魔にそそのかされた者として、天皇の制止を仏の加護と言いかえ、衆徒の面目を保ちながら矛を収めさせた。
- 「恐ろしなどもおろかなり」
- 恐ろしいなどという言葉では言い尽くせない、の意。
- 「御三條の院」
- 後三条天皇のこと。底本は「御三條」と刷っている。
解説
安元三年(1177)四月二十八日の大火は、樋口富小路から出火し、京の東南から西北へ燃え広がって、大内裏の大極殿・朱雀門・応天門などを焼いた。『方丈記』の作者鴨長明もこの火事を目撃し、「都のうち、三分が一に及べりとぞ」(流布本は「三分が二」)と記している。大極殿はこの後ついに再建されず、以後の即位式は紫宸殿や太政官庁で行われるようになった。
神輿に矢を射た武士が重盛の侍であったことは、平家にとって重大な汚点であった。物語は、平家が山王の神罰を招いたことをここで明らかにし、のちの平家の没落を神仏の報いとして描く伏線としている。巻第二では、この事件の責任を問われた天台座主明雲の配流と、鹿ケ谷の陰謀の露見へと物語が進んでいく。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、295–298頁(コマ176–178)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日