平家物語 巻第一
御輿振の事
安元三年四月、延暦寺の衆徒は日吉三社の神輿を内裏の陣頭へ振り上げる。手薄な北の門を守る源頼政は、神輿を拝したうえで使者の渡辺唱を送り、重盛の守る東の門から入るよう説く。衆徒は頼政の歌の名誉を思って引き返すが、待賢門で平家の武士たちが神輿に矢を射かけ、衆徒は神輿を捨てて山へ帰る。
- 1さるさるさる程程ほどににに山山さん門門もんにににははは、、、國國こく司司し加加か賀賀がののの守守かみ師師もろ高高たかををを流流る罪罪ざいににに處處しょせせせられられられ、、、目目もく代代だい近近こん藤藤どう判判ほう官官がん師師もろ經經つねををを禁禁きん獄獄ごくせせせらるらるらるべきべきべき由由よし、、、奏奏そう聞聞もん度度ど々々どににに及及およぶぶぶととといへいへいえどもどもども、、、御御ご裁裁さい許許きょなかりなかりなかりけれけれければばば、、、日日ひ吉吉よしののの祭祭さい禮禮れいをををうちうちうち止止とめめめててて、、、安安あん元元げん三三さん年年ねん四四し月月がつ十十じゅう三三さん日日にちののの辰辰たつののの一一いっ點點てんににに、、、十十じゅう禪禪ぜん師師じ權權ごん現現げん、、、まらうどまらうどまろうど、、、八八はち王王おう子子じ、、、三三さん社社じゃののの神神しん輿輿よををを飾飾かざりりり奉奉たてまつつつっててて、、、陣陣じん頭頭とうへへへ振振ふりりり上上あげげげ奉奉たてまつるるる。。。
- 2下下さがり松松まつ、、、切切きれ堤堤づつみ、、、賀賀か茂茂もののの川川かわ原原ら、、、糺糺ただす、、、梅梅うめ忠忠ただ、、、柳柳やなぎ原原はら、、、東東とう北北ぼく院院いんののの邊邊へんににに、、、神神じん人人にん、、、宮宮みや仕仕じ、、、白白しら大大だい衆衆しゅ、、、專專せん當當どう充充みちちち滿滿みちちちててて、、、いくらいくらいくらととといふいふいう數數かずををを知知しらららずずず。。。神神しん輿輿よははは一一いち條條じょうををを西西にしへへへ入入いらららせせせ給給たまふふうににに、、、御御ご神神じん寶寶ぽう天天てんににに輝輝かかやいいいててて、、、日日じつ月月げつ地地ちににに落落おちちち給給たまふふうかかかととと驚驚おどろかかかるるる。。。これこれこれににに依依よつつっててて源源げん平平ぺい兩兩りょう家家けののの大大たい將將しょう軍軍ぐんににに仰仰おおせせせててて、、、四四し方方ほうののの陣陣じん頭頭とうををを固固かためめめててて、、、大大だい衆衆しゅ防防ふせぐぐぐべきべきべきよしよしよし仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。
- 3平平へい家家けにににははは小小こ松松まつののの内内ない大大だい臣臣じんののの左左さ大大だい將將しょう重重しげ盛盛もり公公こう、、、そのそのその勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きにににててて、、、大大おお宮宮みや表表おもてののの陽陽よう明明めい、、、待待たい賢賢けん、、、郁郁ゆう芳芳ほう、、、三三みつつつののの門門もんををを固固かためめめ給給たまふふう。。。弟弟おとうと宗宗むね盛盛もり、、、知知とも盛盛もり、、、重重しげ衡衡ひら、、、伯伯お父父じ賴賴より盛盛もり、、、教教のり盛盛もり、、、經經つね盛盛もりなどなどなどははは、、、西西にし南南みなみののの門門もんををを固固かためめめ給給たまふふう。。。源源げん氏氏じにににははは大大だい内内だい守守しゅ護護ごののの源源げん三三ざん位位み賴賴より政政まさ、、、郎郎ろう黨黨どうにににははは渡渡わた邊邊なべののの省省はぶく、、、授授さずくををを先先さきとととしてしてして、、、そのそのその勢勢せいわづかわづかわずかににに三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎き、、、北北きたののの門門もん、、、縫縫ぬい殿殿どのののの陣陣じんををを固固かためめめ給給たまふふう。。。所所ところははは廣廣ひろししし勢勢せいははは少少すくなしなしなし、、、まばらまばらまばらにににこそこそこそ見見みえええたりたりたりけれけれけれ。。。
- 4大大だい衆衆しゅ無無ぶ勢勢ぜいたるたるたるににによつよつよっててて、、、北北きたののの門門もん、、、縫縫ぬい殿殿どのののの陣陣じんよりよりより神神しん輿輿よををを入入いれれれ奉奉たてまつらららんんんとととするするするににに、、、賴賴より政政まさののの卿卿きょうさるさるさる人人ひとにににててて、、、いそぎいそぎいそぎ馬馬うまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、兜兜かぶとをををぬぎぬぎぬぎ、、、手手ちょう水水ずうがひうがひうがいしししててて、、、神神しん輿輿よををを拜拜はいししし奉奉たてまつらららるるる。。。兵兵つわものどもどもどもももも皆皆みなかくかくかくののの如如ごとししし。。。
- 5賴賴より政政まさののの卿卿きょうよりよりより、、、大大だい衆衆しゅののの中中なかへへへ使使し者者しゃををを立立たてててててて、、、いひいひいい送送おくらららるゝるゝるる旨旨むねありありあり。。。そのそのその使使つかいははは渡渡わた邊邊なべののの長長ちょう七七しち唱唱となうとぞとぞとぞ聞聞きこえええししし。。。唱唱となうそのそのその日日ひののの裝裝そう束束ぞくにににははは、、、きちんきちんきちんののの直直ひた垂垂たれににに、、、小小こ櫻櫻ざくらををを黃黃きにににかへしかへしかへしたるたるたる鎧鎧よろい著著きててて、、、赤赤しゃく銅銅どうづくりづくりづくりののの太太た刀刀ちをををはきはきはき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる白白しら羽羽はののの矢矢や負負おひひい、、、重重しげ籐籐どうののの弓弓ゆみ脇脇わきににに挾挾はさみみみ、、、兜兜かぶとをををばばばぬいぬいぬいででで高高たか紐紐ひもにににかけかけかけ、、、神神しん輿輿よののの御御おん前前まえににに畏畏かしこまつまつまっててて、、、
- 6「「「しばらくしばらくしばらく、、、しづまらしづまらしずまられれれ候候そうらへへえ。。。源源げん三三ざん位位み殿殿どのよりよりより、、、衆衆しゅ徒徒とののの御御おん内内うちへへへ申申もうせせせととと候候そうろう。。。」」」とてとてとて、、、「「「今今こん度度ど山山さん門門もんののの御御ご訴訴そ訟訟しょう、、、理理り運運うんののの條條じょう勿勿もち論論ろんににに候候そうろう。。。御御ご裁裁さい斷斷だん遲遲ち々々ちこそこそこそははは、、、よそよそよそにににてててももも遺遺い恨恨こんににに覺覺おぼえええ候候そうらへへえ。。。神神しん輿輿よ入入いれれれ奉奉たてまつらららんんん事事こと仔仔し細細さいににに及及およばばばずずず。。。但但ただししし賴賴より政政まさ無無ぶ勢勢ぜいににに候候そうろう。。。
- 7あけあけあけててて入入いれれれ奉奉たてまつるるる陣陣じんよりよりより入入いらららせせせ給給たまひひいなななばばば、、、『『『山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅははは、、、目目めがががほしほしほしけりけりけり。。。』』』などなどなど京京きょう童童わらんべののの申申もうさささんんんことことこと、、、後後ご日日じつののの難難なんにににややや候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。あけあけあけててて入入いれれれ奉奉たてまつれれればばば、、、宣宣せん旨旨じををを背背そむくくくににに似似にたりたりたり。。。またまたまた拒拒ふせぎぎぎ奉奉たてまつらららんんんとととすれすれすればばば、、、年年とし頃頃ごろ醫醫い王王おう、、、山山さん王王おうににに頭頭こうべををを傾傾かたぶけけけててて候候そうろう身身みががが、、、今日今日きょうよりよりより後後のち、、、長長ながくくく弓弓ゆみ矢矢やののの道道みちにににわかれわかれわかれ候候そうらひひいなななんんんずずず。。。かれかれかれととといひいひいい、、、これこれこれととといひいひいい、、、かた〴〵かた〴〵かたがた難難なん治治じのののやうやうようににに覺覺おぼえええ候候そうろう。。。東東ひがしののの陣陣じん頭頭とうをををばばば小小こ松松まつ殿殿どのののの大大おお勢勢ぜいにににててて固固かためめめられられられててて候候そうろう。。。そのそのその陣陣じんよりよりより入入いらららせせせ給給たまふふうべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと、、、いひいひいい送送おくりりりたりたりたりけれけれければばば、、、唱唱となうがががかくかくかくいふいふいうににに拒拒ふせがががれれれててて、、、神神じん人人にん、、、宮宮みや仕仕じ、、、しばらくしばらくしばらくゆらへゆらへゆらえたりたりたり。。。
- 8若若わか大大だい衆衆しゅ、、、惡惡あく僧僧そうどもどもども、、、「「「なんでふなんでふなんじょうそのそのその儀儀ぎあるあるあるべきべきべき。。。たゞたゞただこのこのこの陣陣じんよりよりより神神しん輿輿よををを入入いれれれ奉奉たてまつれれれややや。。。」」」ととといふいふいうやからやからやから多多おおかりかりかりけれけれけれどもどもども、、、こゝこゝここににに老老ろう僧僧そうののの中中なかににに、、、三三さん塔塔とう一一いちののの僉僉せん議議ぎ者者しゃととと聞聞きこえええししし攝攝つ津津のののの律律りつ者者しゃ豪豪ごう運運うん、、、進進すすみみみ出出いでででててて申申もうしししけるけるけるははは、、、
- 9「「「このこのこの儀儀ぎ、、、最最もっともももさささいはいはいわれれれたりたりたり。。。われらわれらわれら神神しん輿輿よををを先先さき立立だててて進進まいらららせせせててて、、、訴訴そ訟訟しょうををを致致いたさささばばば、、、大大おお勢勢ぜいののの中中なかををを打打うち破破やぶつつってててこそこそこそ、、、後後こう代代だいののの聞聞きこえええもももあらあらあらんんんずれずれずれ。。。なかんづくなかんづくなかんずくこのこのこの賴賴より政政まさののの卿卿きょうははは、、、六六ろく孫孫そんよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、源源げん氏氏じ嫡嫡ちゃく々々ちゃくののの正正しょう統統とう、、、弓弓ゆみ矢矢やををを取取とつつってててももも、、、未未いまだだだそのそのその不不ふ覺覺かくををを聞聞きかかかずずず。。。およそおよそおよそははは武武ぶ藝藝げいにににもももかぎらかぎらかぎらずずず、、、歌歌か道道どうにににもももまたまたまたすぐれすぐれすぐれたるたるたる男男おのこなりなりなり。。。
- 10一一ひと年年とせ近近この衞衞えののの院院いん御御ご在在ざい位位いののの御御おん時時とき、、、當當とう座座ざののの御御ご會會かいのののありありありしししににに、、、『『『深深しん山山ざんののの花花はな。。。』』』ととといふいふいう題題だいををを出出いだささされれれたりたりたりけるけるけるににに、、、人人ひと々々びとみなみなみな詠詠よみみみわづらはわづらはわずらわれれれたりたりたりしししををを、、、このこのこの賴賴より政政まさののの卿卿きょう、、、
- 11深深み山山やま木木ぎのののそのそのその梢梢こずえとととももも見見みえええざりざりざりしししさくらさくらさくらははは花花はなにににあらはれあらはれあらわれにににけりけりけり
- 12ととといふいふいう名名めい歌歌か仕仕つかまつつつっててて御御ぎょ感感かんにににあづかるあづかるあずかるほどほどほどのののやさやさやさ男男おとこににに、、、いかゞいかゞいかが時時ときににに臨臨のぞんんんででで、、、なさけなさけなさけなうなうのう、、、恥恥ち辱辱じょくをををばばば與與あたふふうべきべきべき。。。たゞたゞただ神神しん輿輿よ舁舁かきききかへしかへしかへし奉奉たてまつれれれややや。。。」」」ととと、、、僉僉せん議議ぎしししたりたりたりけれけれければばば、、、數數す千千せんののの大大だい衆衆しゅ、、、先先せん陣陣じんよりよりより後後ご陣陣じんまでまでまで、、、尤尤もっとも〳〵も〳〵ももっともとととぞぞぞ同同どうじじじけるけるける。。。
- 13さてさてさて神神しん輿輿よ舁舁かきききかへしかへしかへし奉奉たてまつりりり、、、東東ひがしののの陣陣じん頭頭とう、、、待待たい賢賢けん門門もんよりよりより入入いれれれ奉奉たてまつらららんんんとととしししけるけるけるににに、、、狼狼ろう藉藉ぜき忽忽たちまちちちににに出出いででで來來きててて、、、武武ぶ士士しどもどもどもさん〴〵さん〴〵さんざんににに射射い奉奉たてまつるるる。。。十十じゅう禪禪ぜん師師じののの神神しん輿輿よにににももも矢矢やどもどもども數數あま多多た射射い立立たてててけりけりけり。。。神神じん人人にん、、、宮宮みや仕仕じ射射い殺殺ころささされれれ、、、衆衆しゅ徒徒と多多おおくくく傷傷きずををを被被こうぶつつっててて、、、をめきをめきおめき叫叫さけぶぶぶ聲聲こえははは梵梵ぼん天天てんまでまでまでももも聞聞きこえええ、、、堅堅けん牢牢ろう地地じ神神じんももも驚驚おどろききき給給たまふふうらんらんらんとととぞぞぞ覺覺おぼえええけるけるける。。。大大だい衆衆しゅ神神しん輿輿よをををばばば、、、陣陣じん頭頭とうにににふりふりふり棄棄すててて奉奉たてまつりりり、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく本本ほん山山ざんへへへぞぞぞ歸歸かえりりりけるけるける。。。
現代語訳
そうしているうちに延暦寺では、国司の加賀守師高を流罪にし、目代の近藤判官師経を投獄なさるべきことを、たびたび奏上したけれども、御裁許がなかったので、日吉の祭礼を取りやめて、安元三年(1177)四月十三日の辰の一点(午前七時ごろ)に、十禅師権現・客人・八王子の三社の神輿を飾り立てて、内裏の陣頭へ担ぎ込んだ。
下松・切堤・賀茂の河原・糺・梅忠・柳原・東北院のあたりに、神人・宮仕・白大衆・専当が満ちあふれて、どれほどとも数がわからない。神輿が一条大路を西へお入りになると、御神宝が天に輝いて、日月が地に落ちてこられたのかと驚かれた。そこで源平両家の大将軍に命じて、四方の陣頭を固めて衆徒を防ぐよう仰せ下された。
平家では小松の内大臣で左大将の重盛公が、三千余騎の軍勢で、大宮大路に面した陽明門・待賢門・郁芳門の三つの門を固められた。弟の宗盛・知盛・重衡、叔父の頼盛・教盛・経盛らは、西と南の門を固められた。源氏では大内守護の源三位頼政が、郎等の渡辺省・授を先頭に、わずか三百余騎で北の門、縫殿の陣を固められた。場所は広く軍勢は少なく、まばらに見えた。
衆徒は、手勢が少ないので、北の門の縫殿の陣から神輿をお入れしようとしたところ、頼政卿はさすがの人で、急いで馬から飛び下り、兜を脱ぎ、手水とうがいをして、神輿を拝み申し上げた。兵たちもみな同じようにした。
頼政卿から衆徒の中へ使者を立てて、言い送ることがあった。その使者は渡辺の長七唱ということであった。唱はその日の装束として、きちんの直垂に、小桜を黄に染め返した縅の鎧を着て、赤銅づくりの太刀を帯び、二十四本差した白羽の矢を負い、重籐の弓を脇にはさみ、兜を脱いで高紐にかけ、神輿の御前にかしこまって、
「しばらくお静まりください。源三位殿から衆徒の方々へ申し上げよとのことです」と言って、「このたびの延暦寺のお訴えは、道理にかなっていることは言うまでもありません。御裁断が遅れていることは、よそながらも残念に思っております。神輿をお入れすることは差し支えありません。ただし頼政は手勢が少のうございます。
開けてお入れする陣からお入りになったなら、『延暦寺の衆徒は弱みにつけこんだ』などと都の若者たちが言うのは、後々の非難のもとになりましょう。開けてお入れすれば、宣旨に背くようなものです。また防ぎ申そうとすれば、長年、医王(薬師如来)と山王に頭を傾けて信仰してきた身が、今日から後、長く武士の道を捨てることになりましょう。あれといいこれといい、どちらも難しいことに思われます。東の陣頭は小松殿の大軍で固められております。その陣からお入りになってはいかがでしょう」と言い送ったので、唱がこのように言うのに押しとどめられて、神人・宮仕はしばらくためらっていた。
若い衆徒や悪僧たちは「どうしてそんなことがあろう。ただこの陣から神輿をお入れせよ」と言う者が多かったけれども、ここに老僧の中で、三塔一の評議の名人と聞こえた摂津の律者豪運が進み出て申すには、
「その申し分はもっともだ。われらが神輿を先に立てて訴えをするからには、大軍の中を打ち破ってこそ、後の世の評判にもなるだろう。とりわけこの頼政卿は、六孫王からこのかた源氏の嫡流の正統で、武芸においても、まだその失敗を聞かない。そもそも武芸だけでなく、和歌の道にもすぐれた男である。
先年、近衛院がご在位のとき、即興の歌会があって、『深山の花』という題を出されたところ、人々がみな詠みあぐねていたのを、この頼政卿が、
深山の木々の中で、その梢とも見分けられなかった桜は、花が咲いたことで、それと知られたことだ。
という名歌を詠んで、帝のお褒めにあずかったほどの風雅な男に、どうしてこの場に臨んで、情けなく恥をかかせてよいものか。ただ神輿を担ぎ返し申せ」と評議したので、数千の衆徒は、先陣から後陣まで「もっともだ、もっともだ」と同意した。
そこで神輿を担いで引き返し、東の陣頭の待賢門からお入れしようとしたところ、たちまち乱暴が起こって、武士たちがさんざんに矢を射かけ申した。十禅師の神輿にも矢が何本も射立てられた。神人・宮仕は射殺され、衆徒の多くは傷を負って、わめき叫ぶ声は梵天にまでも聞こえ、堅牢地神もさぞ驚かれるだろうと思われた。衆徒は神輿を陣頭に投げ捨て申して、泣く泣く本山へ帰っていった。
意訳
鵜川の事件から始まった延暦寺の訴えは、ついに神輿入洛という強硬手段に至る。日吉三社の神輿が、神人・宮仕・衆徒に担がれて都に押し寄せるさまは、「日月地に落ち給ふか」と言われるほど壮麗で恐ろしいものとして描かれている。朝廷は源平の武士に門を固めさせ、平家は重盛を中心に大軍で南と東と西を守り、源頼政はわずかな手勢で北の門を守った。
この章段の中心は、頼政の機転である。頼政は手薄な北の門に神輿が向かってくると、まず馬から降りて神輿を拝み、使者の渡辺唱を送って、「自分の陣を通れば衆徒が弱みにつけこんだと言われる、通さなければ山王への信仰を捨てることになる、どうか重盛の守る東の門から入ってほしい」と説く。宣旨と信仰の板ばさみを率直に語って、衆徒の名誉心に訴えたのである。
衆徒の側でも、老僧豪運が「頼政は武芸だけでなく歌道にもすぐれた風雅の人だ」と言って、頼政の「深山木の」の歌を持ち出し、引き返すことに決まる。武士と僧兵の対立の場面に、和歌の名声が人を動かすという王朝的な価値観が生きている。しかし東の門では、平家の武士が神輿に矢を射かけるという前代未聞の事態が起こり、この罪がのちに平家にはね返ってくる。
語釈・文法注
- 目だり
- 相手の弱みにつけこむこと。「目だりがほ」は、弱い所をねらう顔つき。
- 六孫王
- 源経基(?〜961)。清和天皇の孫で、清和源氏の祖。
文法
- 「さる人にて」
- さすがの人物で、心得のある人で、の意。
- 「小櫻を黃にかへしたる鎧」
- 小桜の文様を染めた革を、黄色に染め返した縅の鎧。
- 「入らせ給ふべうもや候らん」
- 「べう」は「べく」のウ音便。お入りになるのがよいのではありませんか、と丁寧に勧める言い方。
- 「さくらは花にあらはれにけり」
- 「花に」の「に」は原因・理由を表す。花が咲いたことによって、それと知られた、の意。
- 「尤も〳〵」
- くの字点は「尤も尤も」のくり返し。もっともだ、もっともだ、の意。
和歌
深山木のその梢とも見えざりしさくらは花にあらはれにけり
- 詠者
- 源頼政
- 状況
- 近衛天皇の御代の即興の歌会で、「深山の花」という題が出され、人々が詠みあぐねていたときに頼政が詠んだ歌。『詞花和歌集』に入る。豪運がこの歌を挙げて、頼政に恥をかかせてはならないと説いた。
修辞
- 趣向
- ふだんは深山の木々にまぎれて見分けがつかなかった桜が、花が咲いたことで、桜であることがはっきりわかった、と詠む。長く埋もれていた自分が、ようやく世に知られたという寓意を読む解釈もある。
解説
安元三年(1177)四月の延暦寺の強訴は史実で、神輿に矢が射立てられたことは大事件となった。物語は、平家の武士が神輿を射たことを強調し、のちの平家の滅亡を山王の神罰とする見方の伏線としている。次の章段では、神輿を射た武士たちが重盛の侍であったことが明かされる。
源頼政(1104〜1180)は、摂津源氏の武将で、歌人としても知られた。保元・平治の乱では平家方につき、清盛の推挙で従三位に昇ったので「源三位」と呼ばれる。のちに治承四年(1180)、以仁王を奉じて平家打倒の兵を挙げ、宇治で敗死する(巻第四)。この章段で語られる、武勇と風雅を兼ね備えた人物像は、その最期の場面へとつながっていく。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、293–295頁(コマ175–176)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日