平家物語 巻第一
願立の事
白河院さえ「意のままにならぬもの」に数えた山法師の強訴の先例として、嘉保二年の事件が語られる。神輿を防いだ関白藤原師通は、延暦寺の呪詛を受けて重い病にかかる。母の北の政所はひそかに三つの願を立てて日吉社に祈り、山王の託宣によって三年の延命を得るが、師通は三年後に三十八歳で亡くなった。
- 1「「「賀賀か茂茂も川川がはののの水水みず、、、雙雙すご六六ろくののの骰骰さい、、、山山やま法法ほう師師し、、、これこれこれぞぞぞわがわがわが御御み心心こころにににかなはかなはかなわぬぬぬものものもの。。。」」」ととと、、、白白しら河河かわののの院院いんももも仰仰おおせせせなりなりなりけるけるけるとととかやかやかや。。。
- 2鳥鳥と羽羽ばののの院院いんののの御御おん時時ときももも、、、越越えち前前ぜんののの平平へい泉泉せん寺寺じををを山山さん門門もんへへへ寄寄よせせせられられられけるけるける事事ことははは、、、當當とう山山ざんををを御御ご歸歸き依依えあさからあさからあさからざるざるざるににに依依よつつってててなりなりなり。。。非非ひををを以以もっててて理理りとととすすすととと、、、宣宣せん下下げせせせられられられてててこそこそこそ、、、院院いん宣宣ぜんをををばばば下下くだささされれれけれけれけれ。。。さればさればされば江江ごう帥帥そつ匡匡きょう房房ぼうののの卿卿きょうののの申申もうささされれれしししははは、、、「「「山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅ、、、日日ひ吉吉よしののの神神しん輿輿よををを陣陣じん頭頭とうへへへ振振ふりりり奉奉たてまつつつっててて、、、訴訴そ訟訟しょうををを致致いたさささばばば、、、君君きみはははいかゞいかゞいかが御御おんはからひはからひはからい候候そうろうべきべきべき。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう、、、「「「げにげにげにももも山山さん門門もんののの訴訴そ訟訟しょうはははもだしもだしもだしがたしがたしがたし。。。」」」とととぞぞぞ仰仰おおせせせけるけるける。。。
- 3去去いんんんじじじ嘉嘉か保保ほう二二に年年ねん三三さん月月がつ二二ふつ日日かののの日日ひ、、、美美み濃濃のののの守守かみ源源みなもとののの義義よし綱綱つなののの朝朝あ臣臣そん、、、當當とう國國ごく新新しん立立りゅうののの莊莊しょうをををたふすたふすたおす間間あいだ、、、山山やまののの久久く住住じゅう者者しゃ圓圓えん應應おうををを殺殺せっ害害がいすすす。。。
- 4これこれこれににによつよつよっててて日日ひ吉吉よしののの社社しゃ司司し、、、延延えん曆曆りやく寺寺じののの寺寺じ官官かん、、、都都つ合合ごう三三さん十十じゅう餘餘よ人人にん、、、申申もうし文文ぶみををを捧捧ささげげげててて陣陣じん頭頭とうへへへ参参さんじじじたるたるたるををを、、、後後ご二二に條條じょうののの關關かん白白ぱく、、、大大や和和まと源源げん氏氏じ中中なか務務つかさののの權權ごんののの少少しょう輔輔ふ賴賴より春春はるににに仰仰おおせせせててて、、、これこれこれををを拒拒ふせがががせせせらるゝらるゝらるるににに、、、賴賴より春春はるががが郎郎ろう黨黨どう、、、矢矢やををを放放はなつつつ。。。矢矢や庭庭にはににに射射い殺殺ころさささるゝるゝるる者者もの八八はち人人にん、、、傷傷きずををを被被こうむぶるぶるぶる者者もの十十じゅう餘餘よ人人にん、、、社社しゃ司司し、、、諸諸しょ司司し、、、四四し方方ほうへへへ皆皆みな逃逃にげげげ去去さりりりぬぬぬ。。。
- 5これこれこれににによつよつよっててて山山さん門門もんののの上上じょう綱綱こう等等ら、、、仔仔し細細さいををを奏奏そう聞聞もんののの爲爲ためににに、、、夥夥おびただしうしうしゅう下下げ洛洛らくすすすととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、武武ぶ士士し、、、檢檢けん非非び違違い使使し、、、西西にし坂坂さか本本もとににに行行ゆききき向向むかつつっててて、、、みなみなみな追追おつつっかへすかへすかえす。。。
- 6さるさるさる程程ほどににに山山さん門門もんにににははは、、、御御ご裁裁さい斷斷だん遲遲ち々々ちののの間間あいだ、、、日日ひ吉吉よしののの神神しん輿輿よををを根根こん本本ぽん中中ちゅう堂堂どうへへへふりふりふり上上あげげげ奉奉たてまつりりり、、、そのそのその御御おん前前まえにににててて眞眞しん讀讀どくののの大大だい般般はん若若にゃををを七七なぬ日日か讀讀よみみみててて、、、後後ご二二に條條じょうののの關關かん白白ぱく殿殿どのををを呪呪じゅ詛詛そししし奉奉たてまつるるる。。。
- 7結結けち願願がんののの導導どう師師しにににははは、、、仲仲ちゅう胤胤いん法法ほう印印いん、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ仲仲ちゅう胤胤いん供供ぐ奉奉ぶととと申申もうししししししががが、、、高高こう座座ざににに上上のぼりりり、、、鐘鐘かね打打うち鳴鳴ならしらしらし、、、表表ひょう白白びやくののの詞詞ことばににに曰曰いわくくく、、、「「「われらわれらわれらががが菜菜な種種たねののの二二ふた葉葉ばよりよりよりおほしおほしおおし立立たててて給給たまひひいししし神神かみたちたちたち、、、後後ご二二に條條じょうののの關關かん白白ぱく殿殿どのににに、、、鏑鏑かぶら矢矢や一一ひとつつつ放放はなちちちあてあてあてたまへたまへたまえ、、、大大だい八八はち王王おう子子じ權權ごん現現げん。。。」」」ととと高高たからからからかにににこそこそこそ祈祈き誓誓せいしししたりたりたりけれけれけれ。。。
- 8そのそのその夜夜よやがてやがてやがて不不ふ思思し議議ぎののの事事ことありありありけりけりけり。。。八八はち王王おう子子じののの御御ご殿殿でんよりよりより鏑鏑かぶら矢矢やののの聲聲こえ出出いでででててて、、、王王おう城城じょうをををさしさしさしててて鳴鳴なりりりててて行行ゆくくくとととぞぞぞ、、、人人ひとののの夢夢ゆめにににははは見見みえええたりたりたりけるけるける。。。そのそのそのあしたあしたあした關關かん白白ぱく殿殿どのののの御御ご所所しょののの御御み格格こう子子しををを上上あげげげけるけるけるににに、、、只只ただ今今いま山山やまよりよりより取取とりりりててて來來きたりりりたるたるたるやうやうようににに、、、露露つゆにににぬれぬれぬれたるたるたる樒樒しきみ一一ひと枝枝えだ立立たちちちたりたりたりけるけるけるこそこそこそ不不ふ思思し議議ぎなれなれなれ。。。
- 9やがてやがてやがてそのそのその夜夜よよりよりより、、、後後ご二二に條條じょうののの關關かん白白ぱく殿殿どの、、、山山さん王王おうののの御御おん咎咎とがめめめとてとてとて、、、重重おもききき御御おん病病やまいををを受受うけけけさせさせさせ給給たまひひいててて、、、うちうちうち伏伏ふさささせせせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、母母はは上上うえ大大おお殿殿とのののの北北きたののの政政まん所所どころ、、、大大おおきききににに御御おんなげきなげきなげきあつあつあっててて、、、御御おん樣樣さまをををやつしやつしやつし、、、賤賤いやしきしきしき下下げ臈臈ろうのののまねまねまねをををしししててて、、、日日ひ吉吉よしののの社社やしろへへへ参参まいらららせせせ給給たまひひいててて、、、七七なぬ日日か七七なな夜夜よががが間間あいだ祈祈いのりりり申申もうさささせせせおはしますおはしますおわします。。。
- 10まづまづまずあらはれあらはれあらわれてててののの御御ご立立りゅう願願がんにににははは、、、芝芝しば田田でん樂樂がく百百ひゃく番番ばん、、、百百ひゃく番番ばんののの一一ひとつつつ物物もの、、、競競くらべ馬馬うま、、、流流や鏑鏑ぶさ馬馬め、、、相相す撲撲もう、、、各各おのおの百百ひゃく番番ばん、、、百百ひゃく座座ざののの仁仁にん王王おう講講こう、、、百百ひゃく座座ざののの藥藥やく師師し講講こう、、、一一いっ著著ちゃく手手しゅののの藥藥やく師師し百百ひゃく體體たい、、、等等とう身身しんののの藥藥やく師師し一一いっ體體たい、、、竝竝ならびににに釋釋しゃ迦迦か、、、阿阿あ彌彌み陀陀だののの像像ぞう、、、各各おのおの造造ぞう立立りゅう供供く養養ようせせせられられられけりけりけり。。。
- 11またまたまた御御ご心心しん中中ちゅうににに三三みつつつののの御御ご立立りゅう願願がんありありあり。。。御御み心心こころののの中中うちののの御御おん事事ことなれなれなればばば、、、人人ひとこれこれこれをををばばば、、、いかでいかでいかで知知しりりり奉奉たてまつるるるべきべきべきににに、、、それそれそれににに何何なによりよりよりもももまたまたまた不不ふ思思し議議ぎなりなりなりけるけるける事事ことにににははは、、、七七なな夜夜よににに滿滿まんずるずるずる夜夜よ、、、八八はち王王おう子子じののの御御おん社社やしろにににいくらいくらいくらもももありありありけるけるける参参まいり人人うどどもどもどもののの中中なかににに、、、陸陸み奥奥ちののの國國くによりよりより、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと上上のぼつつったりたりたりけるけるける童童わらわ巫巫みこ、、、夜夜よ半半はばかりばかりばかりににに俄俄にはかににに絶絶たえええ入入いりりりけりけりけり。。。
- 12はるかはるかはるかににに舁舁かききき出出いだしししててて祈祈いのりりりけれけれければばば、、、やがてやがてやがて立立たつつっててて舞舞まひひいかなづかなづかなず。。。人人ひと奇奇き特特どくののの思思おもひひいをををなしなしなしててて、、、これこれこれををを見見みるるる。。。半半はん時時じ許許ばかりりり舞舞まひひいててて後後のち、、、山山さん王王おう下下おりりりさせさせさせ給給たまひひいててて、、、やう〳〵やう〳〵ようようののの御御ご託託たく宣宣せんこそこそこそ恐恐おそろしけれろしけれろしけれ。。。
- 13「「「衆衆しゅ生生じょう等等らたしかたしかたしかににに承承うけたまわれれれ。。。大大おお殿殿とのののの北北きたののの政政まん所所どころ、、、今日今日きょう七七なぬ日日か、、、わがわがわが御御おん前前まえににに籠籠こもらららせせせ給給たまひひいたりたりたり。。。御御ご立立りゅう願願がん三三みつつつありありあり。。。まづまづまず一一ひとつつつにににははは、、、今今こん度度ど殿殿てん下下がののの壽壽じゅ命命みょうををを助助たすけけけさせさせさせおはしませおはしませおわしませ。。。さささももも候候そうらははわばばば、、、大大おお宮宮みやののの下下した殿殿どのににに候候そうろう、、、もろ〳〵もろ〳〵もろもろののの片片かた輪輪は人人うどにににまはりまはりまわりててて、、、一一いっ千千せん日日にちががが間間あいだ、、、朝朝あさ夕夕ゆう宮宮みや仕仕づかへへえ申申もうさささんんんとととなりなりなり。。。大大おお殿殿とのののの北北きたののの政政まん所所どころにににててて、、、世世よををを世世よとととももも思思おぼしししめさめさめさででで、、、過過すぐさぐさぐさせせせ給給たまふふう御御み心心こころにににももも、、、子子こををを思思おもふふう道道みちににに迷迷まよひひいぬれぬれぬればばば、、、いぶせきいぶせきいぶせき事事ことももも忘忘わすららられれれててて、、、淺淺あさましげましげましげなるなるなる片片かた輪輪は人人うどににに交交まじはつはつわっててて、、、一一いっ千千せん日日にちががが間間あいだ、、、朝朝あさ夕夕ゆう宮宮みや仕仕づかへへえ申申もうさささんんんととと仰仰おおせせせらるゝらるゝらるるこそこそこそ、、、まことまことまことにににあはれあはれあわれににに思思おぼしししめせめせめせ。。。
- 14二二ふたつつつにににははは大大おお宮宮みやののの端端はし殿殿どのよりよりより、、、八八はち王王おう子子じののの御御おん社社やしろまでまでまで、、、囘囘かい廊廊ろうつくつつくつつくってててまゐらせまゐらせまいらせんんんとととなりなりなり。。。三三さん千千ぜん人人にんののの大大だい衆衆しゅ、、、降降ふるるるにににももも照照てるるるにににももも、、、社社しゃ参参さんののの時時とき、、、いたはしういたはしういたわしゅう覺覺おぼゆるゆるゆるににに、、、囘囘かい廊廊ろうつくらつくらつくられれれたらたらたらんんんははは、、、いかにいかにいかにめでたからめでたからめでたからんんん。。。三三みつつつにににははは八八はち王王おう子子じののの御御おん社社やしろにににててて、、、法法ほっ華華け問問もん答答どう講講こう、、、毎毎まい日日にち退退たい轉轉てんなくなくなく行行おこなははわすすすべしべしべしとととなりなりなり。。。このこのこの御御ご立立りゅう願願がんどもどもどもははは、、、いづれいづれいずれもももおろかおろかおろかならならならねねねどもどもども、、、せめてせめてせめてははは上上かみ二二ふたつつつははは、、、さささなくなくなくともともともありありありなななんんん。。。法法ほっ華華け問問もん答答どう講講こうこそこそこそ、、、一一いち定定じょうあらあらあらまほしうまほしうまほしゅうはははおぼしめせおぼしめせおぼしめせ。。。
- 15但但ただししし今今こん度度どののの訴訴そ訟訟しょうははは、、、むげむげむげににに易易やすかりかりかりぬぬぬべきべきべき事事ことにににてててありありありつるつるつるををを、、、御御ご裁裁さい許許きょなくなくなくしてしてして、、、神神じん人人にん、、、宮宮みや司司じ射射い殺殺ころささされれれ、、、衆衆しゅ徒徒と多多おおくくく傷傷きずををを被被こうぶつつっててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく参参まいりりりててて訴訴うつたへへえ申申もうすすすががが、、、餘餘あまりりりににに心心こころうけれうけれうければばば、、、いかならいかならいかならんんん世世よににに忘忘わするるるべしべしべしととともももおぼしめさおぼしめさおぼしめさずずず。。。そのそのその上上うえかれらかれらかれらにににあたるあたるあたる所所ところののの矢矢やははは、、、すなはちすなはちすなわち和和わ光光こう垂垂すいののの御御おん膚膚はだえににに立立たちちちたるたるたるなりなりなり。。。まことまことまことそらそらそらごとごとごとはははこれこれこれををを見見みよよよ。。。」」」とてとてとて、、、肩肩かたぬぎぬぎぬぎたるたるたるををを見見みれれればばば、、、左左ひだりののの脇脇わきののの下下した、、、大大おおきききなるなるなるかはらけかはらけかわらけののの口口くちほどほどほど、、、うげうげうげのいのいのいてててぞぞぞありありありけるけるける。。。「「「これこれこれがががあまりあまりあまりににに心心こころうけれうけれうければばば、、、いかにいかにいかに申申もうすすすともともとも、、、始始し終終じゅうのののことことことははは叶叶かなふふうまじまじまじ。。。法法ほっ華華け問問もん答答どう講講こう一一いち定定じょうあるあるあるべくべくべくははは、、、三三み年年とせががが命命いのちををを延延のべべべててて奉奉たてまつらららんんん。。。それそれそれををを不不ふ足足そくにににおぼしめさおぼしめさおぼしめさばばば力力ちから及及およばばばずずず。。。」」」とてとてとて、、、山山さん王王おうあがらあがらあがらせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 16母母はは上上うえこのこのこの御御ご立立りゅう願願がんののの御御おんことことこと、、、人人ひとにににももも語語かたらららせせせ給給たまははわねねねばばば、、、誰誰たれ洩洩もらしらしらしぬぬぬらんらんらんととと、、、少少すこしししももも疑疑うたがふふうかたかたかたもももましまさましまさましまさずずず。。。御御み心心こころののの中中うちののの事事ことどもどもどもををを、、、ありのまゝありのまゝありのままににに御御ご託託たく宣宣せんありありありけれけれければばば、、、いよ〳〵いよ〳〵いよいよ心心しん肝肝かんにににそうそうそうててて、、、殊殊ことににに尊尊とうとくくく思思おぼし召召めししし、、、「「「たとひたとひたとい一一いち日日にち片片へん時時じととと候候そうろうともともとも、、、ありがたうありがたうありがとうこそこそこそ候候そうろうべきべきべきににに、、、ましてましてまして三三み年年とせががが命命いのちををを延延のべべべててて賜賜たまはらはらわらんんんととと仰仰おおせせせらるゝらるゝらるるこそこそこそ、、、まことまことまことにににありがたうありがたうありがとうははは候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、御御おん涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて御御ご下下げ向向こうありありありけりけりけり。。。そのそのその後後のち紀紀き伊伊いののの國國くにににに殿殿てん下下がののの領領りょう、、、田田た中中なかののの莊莊しょうととといふいふいう所所ところををを、、、永永えい代代たい八八はち王王おう子子じへへへ寄寄き進進しんせせせらるらるらる。。。さればさればされば今今いまののの世世よににに至至いたるるるまでまでまで、、、八八はち王王おう子子じののの御御おん社社やしろにににててて、、、法法ほっ華華け問問もん答答どう講講こう、、、毎毎まい日日にち退退たい轉轉てんなしなしなしとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。
- 17斯斯かかりかりかりししし程程ほどににに後後ご二二に條條じょうののの關關かん白白ぱく殿殿どの、、、御御おん病病やまいかるまかるまかるませせせ給給たまひひいててて、、、もともともとののの如如ごとくくくにににならならならせせせ給給たまふふう。。。上上じょう下下げ喜喜よろこびびび合合あははわれれれししし程程ほどににに、、、三三み年年とせののの過過すぐるぐるぐるははは夢夢ゆめなれなれなれややや、、、永永えい長長ちょう二二に年年ねんににになりなりなりにににけりけりけり。。。六六ろく月月がつ二二に十十じゅう一一いち日日にち、、、またまたまた後後ご二二に條條じょうののの關關かん白白ぱく殿殿どの、、、御御おん髪髪ぐしののの際際きわににに惡惡あしきしきしき御御おん瘡瘡かさ出出いでででさせさせさせ給給たまひひいててて、、、うちうちうち臥臥ふさささせせせ給給たまひひいしししががが、、、同同おなじきじきじき二二に十十じゅう七七しち日日にち御御おん年年とし三三さん十十じゅう八八はちにににててて、、、遂遂ついにににかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬ。。。
- 18御御み心心こころのののたけさたけさたけさ、、、理理りのののつよさつよさつよさ、、、さしもさしもさしもゆゝしうゆゝしうゆゆしゅうおはせおはせおわせしかしかしかどもどもども、、、まめやかまめやかまめやかににに事事ことののの急急きゅうにににもももなりなりなりぬれぬれぬればばば、、、御御おん命命いのちををを惜惜おしましましませせせ給給たまひひいけりけりけり。。。まことまことまことににに惜惜おしかるしかるしかるべしべしべし、、、四四し十十じゅうにににだにだにだに滿滿みたたたせせせ給給たまははわででで、、、大大おお殿殿とのににに先先さき立立だたたたせせせ給給たまふふうこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。必必かならずずず父父ちちををを先先さき立立だつつつべしべしべしととといふいふいうことことことはははなけれなけれなけれどもどもども、、、生生しょう死死じのののおきておきておきてににに從從したがふふうならひならひならい、、、萬萬まん德德どく圓圓えん滿滿まんののの世世せ尊尊そん、、、十十じゅう地地じ苦苦く行行ぎょうののの大大だい士士じたちたちたちももも、、、力力ちから及及およばばばせせせ給給たまははわぬぬぬ次次し第第だいなりなりなり。。。慈慈じ悲悲ひ具具ぐ足足そくののの山山さん王王おう、、、利利り物物もつののの方方ほう便便べんにににてててましましましませませませばばば、、、御御おん咎咎とがめめめなかるなかるなかるべしべしべしとととももも覺覺おぼえええずずず。。。
現代語訳
「賀茂川の水、双六の賽の目、比叡山の法師、これこそ私の意のままにならないものだ」と、白河院もおっしゃったということである。
鳥羽院の御代にも、越前の平泉寺を延暦寺に寄進なさったのは、この山(延暦寺)を深く信仰しておられたからである。「理にはずれたことでも理とする」と宣下なさってこそ、院宣をお下しになったのである。そこで江帥匡房卿(大江匡房)が申されたのは、「延暦寺の衆徒が日吉の神輿を内裏の陣頭に担ぎ込んで訴えを起こしたなら、君はどうご処置なさいますか」と申されたところ、法皇は「まことに延暦寺の訴えは放っておけない」とおっしゃった。
去る嘉保二年(1095)三月二日、美濃守源義綱朝臣が、国内に新しく立てられた荘園を廃止させたので、延暦寺の久住者の円応を殺してしまった。
そこで日吉の社司や延暦寺の寺官ら、合わせて三十余人が訴状を捧げて陣頭へ参ったのを、後二条関白殿(藤原師通)が、大和源氏の中務権少輔頼春に命じて防がせたところ、頼春の郎等が矢を放った。その場で射殺された者八人、傷を負った者十余人で、社司や諸司は四方へみな逃げ去った。
そこで延暦寺の高僧たちが、事情を奏上するために大勢京へ下ってくると聞こえたので、武士や検非違使が西坂本に向かって、みな追い返した。
そのうちに延暦寺では、ご裁断が遅々として進まないので、日吉の神輿を根本中堂に担ぎ上げ申し、その御前で大般若経を七日間真読して、後二条関白殿を呪詛し申し上げた。
結願の導師には仲胤法印が、そのときはまだ仲胤供奉と申したが、高座に上って鐘を打ち鳴らし、表白の言葉に言うには、「私たちが菜種の二葉のころから育ててくださった神々よ、後二条関白殿に鏑矢を一つ射当ててくださいませ、大八王子権現よ」と、声高らかに祈誓した。
その夜すぐに不思議なことがあった。八王子の御殿から鏑矢の音が出て、都をさして鳴って行くのが、人の夢に見えた。その翌朝、関白殿の御所の格子を上げると、たった今山から取ってきたように、露にぬれた樒が一枝立っていたのは不思議なことであった。
やがてその夜から、後二条関白殿は山王のお咎めということで重い病にかかられ、床に伏されたので、母上の大殿の北の政所はたいへんお嘆きになって、お姿をやつし、卑しい下臈のまねをして日吉の社へお参りになり、七日七夜のあいだ祈り申し上げなさった。
まず表立っての御願には、芝田楽百番、百番の一つ物、競馬、流鏑馬、相撲をそれぞれ百番、百座の仁王講、百座の薬師講、一搩手半の薬師像百体、等身の薬師像一体、ならびに釈迦・阿弥陀の像を、それぞれ造立供養なさった。
またお心の中に三つの御願があった。お心の中のことなので、人はどうしてそれを知り申し上げられようか。ところが何よりも不思議だったのは、七夜目が満ちる夜、八王子の御社に大勢いた参詣人の中に、陸奥国からはるばる上ってきた童の巫女が、夜半ごろ急に気を失った。
遠くへ担ぎ出して祈ると、すぐに立ち上がって舞い始めた。人々は不思議に思って見ていた。半時ほど舞った後、山王が乗り移られて、さまざまなお告げをなさったのは恐ろしいことであった。
「衆生ども、たしかに聞け。大殿の北の政所が今日で七日、わが前にこもっておられる。御願が三つある。まず一つには、このたび殿下(師通)の寿命をお助けくださいませ。そうしてくださるなら、大宮の下殿に控えている多くの障害のある人々の中にまじって、一千日のあいだ朝夕お仕え申し上げよう、というのである。大殿の北の政所として、世の中を何とも思わずに過ごしておられたお心にも、子を思う道に迷ってしまったので、むさくるしいことも忘れて、みじめな人々にまじって一千日のあいだ朝夕お仕えしようとおっしゃるのは、まことにあわれに思われる。
二つには、大宮の端殿から八王子の御社まで、回廊を造って献上しよう、というのである。三千人の衆徒が雨の日も晴れの日も社に参るのを気の毒に思っていたので、回廊が造られたら、どれほどめでたいことだろう。三つには、八王子の御社で法華問答講を毎日欠かさず行わせよう、というのである。この御願はどれもおろそかではないけれども、せめて上の二つはなくてもよい。法華問答講こそ、ぜひあってほしいと思う。
ただし今度の訴えは、ごくたやすく片づくはずのことであったのに、ご裁許がなくて、神人や宮司は射殺され、衆徒の多くが傷を負って、泣く泣く参って訴えるのが、あまりにつらいので、いつの世にも忘れられようとは思わない。そのうえ、彼らに当たった矢は、すなわち和光垂迹の神の肌に立ったのである。本当か嘘かは、これを見よ」といって、肩を脱いだのを見ると、左の脇の下に、大きな土器の口ほどの傷が、えぐれて開いていた。「これがあまりにつらいので、どのように申されても、最後までのことはかなうまい。法華問答講を必ず行うなら、三年の命を延ばしてさしあげよう。それを不足とお思いなら力及ばない」といって、山王はお上がりになった。
母上は、この御願のことを人にも語っておられなかったので、だれが漏らしたのだろうかと、少しも疑う余地がない。お心の中のことを、ありのままにお告げになったので、いよいよ心に深くしみて、ことに尊くお思いになり、「たとえ一日片時でもありがたいことでございますのに、まして三年の命を延ばしてくださるとおっしゃるのは、まことにありがたいことでございます」といって、涙をおさえてお帰りになった。その後、紀伊国にある殿下の所領の田中荘という所を、永代八王子に寄進なさった。それで今の世に至るまで、八王子の御社では、法華問答講が毎日絶えることなく行われていると聞く。
こうしているうちに、後二条関白殿のご病気は軽くなられて、もとのようにおなりになった。上下の人々が喜び合っているうちに、三年が過ぎるのは夢のようで、永長二年(1097)になった。六月二十一日、また後二条関白殿は、髪の生え際に悪いできものができて床に伏されたが、同じ月の二十七日、御年三十八でついにお亡くなりになった。
お心の強さ、理を押し通す強さは、あれほどすばらしい方であったけれども、本当に事が急になってしまうと、命を惜しまれたのであった。まことに惜しいことである。四十歳にさえならずに、父の大殿に先立たれたのは悲しいことであった。必ずしも父を先に送るべきだということはないけれども、生死のおきてに従うのが世のならいで、万徳円満の釈迦も、十地の苦行を積んだ菩薩たちも、どうすることもおできにならないことである。慈悲を備えた山王は、衆生を救う方便でいらっしゃるのだから、お咎めがなかったとも思われない。
意訳
「願立」は、鵜川の事件を受けて延暦寺が強訴に出ようとする前に、かつての山門の強訴の例として、嘉保二年(1095)の事件を語る章段である。白河院の「賀茂川の水、双六の賽、山法師」という言葉は、権力の頂点にあった院でさえ思うままにできないものの代表として、延暦寺の僧兵を挙げたもので、山門の勢力の強大さを端的に示している。
中心となるのは、強訴を武力で防いで神人や僧を射殺させた関白藤原師通が、延暦寺の呪詛によって病に倒れる話である。鏑矢の音が都へ飛んでいく夢、露にぬれた樒が御所の格子に立っていた怪異は、神罰が下ったことを告げる。母の北の政所は、身分を隠して日吉社にこもり、心の中だけで三つの願を立てるが、それを陸奥から来た童巫に乗り移った山王が言い当てる。子を思う母の必死の祈りと、山王の神威とが、強い印象を残す場面である。
山王は、神人たちに当たった矢は自分の膚に立ったのだと言って、脇の下の傷を見せ、三年だけの延命を約束する。そして約束どおり、師通は三年後に亡くなる。物語は、神仏の力を前にしては関白の権力も及ばないことを語り、山門の訴えを軽んじてはならないという教訓を示している。これが、次の「御輿振」で、朝廷が神輿の入洛にどう対処するかという話の背景となっている。
語釈・文法注
- 後二條の關白殿
- 藤原師通(1062〜1099)。関白藤原師実の子。剛直な性格で知られ、嘉保二年の延暦寺の強訴を武力で退けた。
- 一著手半
- 底本の表記。一般には「一搩手半」と書く。仏像の大きさの単位で、親指と中指を張った長さ(一搩手)の一倍半、約一尺二寸。
- 和光垂跡
- 仏・菩薩が衆生を救うために、その光をやわらげて、神の姿となってこの世に現れること。ここでは日吉の山王権現をいう。
文法
- 「雙六の骰」
- 双六の賽の目。思うままにならないもののたとえ。
- 「非を以て理とす」
- 理にかなわないことでも、山門の言い分なら理として通す、の意。
- 「鏑矢一つ放ちあてたまへ」
- 神に向かって、関白を罰してくださいと祈る言葉。「たまへ」は尊敬の補助動詞の命令形。
- 「うげのいてぞありける」
- 「うげのく」は、傷がえぐれて口を開く、の意。
- 「三年が命を延べて奉らん」
- 底本は延命の年数を「三年」とする。後の「三年の過ぐるは夢なれや」と照応している。
- 「御咎めなかるべしとも覺えず」
- 二重否定で、お咎めがなかったとは思われない、すなわち山王のお咎めであったのだろう、の意。
解説
嘉保二年(1095)の延暦寺の強訴は史実で、美濃守源義綱が延暦寺の荘園を廃して僧を殺したことに始まり、関白藤原師通が武士に命じて強訴の衆徒を退けた。師通は承徳三年(1099)に三十八歳で急死し、延暦寺の呪詛によるものと噂された。本文は師通の死を永長二年(1097)とするが、史実とは二年ずれている。
日吉大社は比叡山の地主神を祀る神社で、延暦寺と一体の関係にあった。その神輿を担いで朝廷に強訴することを「神輿振り」といい、神威を恐れる朝廷はしばしばその要求に屈した。この章段は、そうした山門の強訴の恐ろしさを、師通の死という先例によって示し、続く安元三年の神輿入洛の物語へとつなげている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、288–293頁(コマ173–175)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日