平家物語 巻第一
鵜川合戦の事
謀議に加わった俊寛や院の北面の武士たちの驕りが語られる。西光の子で加賀守となった師高と、その弟で目代の師経は、白山の末寺鵜川の寺僧と争って寺を焼き払う。怒った白山の衆徒は神輿を比叡山に振り上げ、延暦寺の衆徒が師高の流罪を訴えるが、朝廷は裁許をためらう。
- 1抑抑そもそもこのこのこの法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの執執しゅ行行ぎょう俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ずととと申申もうすすすははは、、、京京きょう極極ごくののの源源げん大大だい納納な言言ごん雅雅が俊俊しゅんののの卿卿きょうののの孫孫まご、、、木木き寺寺でらののの法法ほう印印いん寛寛かん雅雅がにににははは子子こなりなりなりけりけりけり。。。祖祖そ父父ふ大大だい納納な言言ごんはははさしてさしてさして弓弓ゆみ矢矢や取取とるるる家家いえにににはははあらあらあらねねねどもどもども、、、あまりあまりあまりににに腹腹はらあしきあしきあしき人人ひとにににててて、、、三三さん條條じょうののの坊坊ぼう門門もん、、、京京きょう極極ごくののの宿宿しゅく所所しょののの前前まえをををばばば人人ひとをををもももやすくやすくやすく通通とおささされれれずずず。。。常常つねははは中中ちゅう門門もんにににたゝずみたゝずみたたずみ、、、齒齒はをををくひくひくいしばりしばりしばり、、、怒怒いかつつってててこそこそこそおはしおはしおわしけれけれけれ。。。
- 2かゝるかゝるかかる恐恐おそろしきろしきろしき人人ひとののの孫孫まごなれなれなればばばにににややや、、、このこのこの俊俊しゅん寛寛かんももも僧僧そうなれなれなれどもどもども、、、心心こころたけくたけくたけく、、、おごれおごれおごれるるる人人ひとにににててて、、、よしなきよしなきよしなき謀謀む叛叛ほんにににももも與與くみしししてててけるけるけるにににこそこそこそ。。。
- 3新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょう、、、多多た田田だののの藏藏くら人人うど行行ゆき綱綱つなををを召召めしししててて、、、「「「今今こん度度ど御御ご邊邊へんをををばばば、、、一一いっ方方ぽうののの大大たい將將しょうににに賴賴たのむむむなりなりなり。。。このこのこの事事ことしししおほせおほせおおせつるつるつるものものものならならならばばば、、、國國くにをををももも莊莊しょうをををももも所所しょ望望もうににによるよるよるべしべしべし。。。まづまづまず弓弓ゆ袋袋ぶくろののの料料りょうににに。。。」」」とてとてとて白白しろ布布ぬの五五ご十十じっ端端たん送送おくららられれれたりたりたり。。。
- 4安安あん元元げん三三さん年年ねん三三さん月月がつ十十じゅう五五ご日日にちののの日日ひ、、、妙妙みょう音音おん院院いん殿殿どの太太だい政政じょう大大だい臣臣じんににに轉轉てんじじじ給給たまへへえるるるかはりかはりかわりににに、、、小小こ松松まつ殿殿どの、、、源源げん大大だい納納な言言ごん定定さだ房房ふさののの卿卿きょうををを越越こえええててて、、、内内ない大大だい臣臣じんににになりなりなり給給たまふふう。。。やがてやがてやがて大大だい饗饗きょう行行おこなははわるるる。。。大大だい臣臣じんののの大大たい將將しょうめでたかりめでたかりめでたかりききき。。。
- 5尊尊そんにににははは大大おお炊炊ひののの御御み門門かどののの右右う大大だい臣臣じん經經つね宗宗むね公公こうとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。一一いちののの上上かみこそこそこそ先先せん途途どなれなれなれどもどもども、、、父父ちち宇宇う治治じののの惡惡あく左左さ府府ふののの御御ご例例れい、、、そのそのその恐恐おそれれれありありあり。。。
- 6北北ほく面面めんははは上上じょう古古こにににはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。白白しら河河かわののの院院いんののの御御おん時時とき始始はじめめめ置置おかかかれれれてててよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、衞衞え府府ふどもどもども數數あま多多た候候さぶらひひいけりけりけり。。。爲爲ため俊俊とし、、、盛盛もり重重しげ、、、童童わらわよりよりより今今いま犬犬いぬ丸丸まる、、、千千せん手手じゅ丸丸まるとてとてとて、、、これらこれらこれらはははさうさうそうなきなきなき切切きり者者ものにににてててぞぞぞありありありけるけるける。。。
- 7鳥鳥と羽羽ばののの院院いんののの御御おん時時ときももも、、、季季すえ賴賴より、、、季季すえ教教のり父父ふ子子しともともともににに、、、朝朝ちょう家家かににに召召めし使使つかははわれれれてててありありありしししががが、、、常常つねははは傳傳てん奏奏そうするするする折折おりもももありありありなななんんんととと聞聞きこえええしかしかしかどもどもども、、、これらこれらこれらはははみなみなみな身身みののの程程ほどをををふるまうふるまうふるもうてててこそこそこそありありありしかしかしか。。。
- 8このこのこの時時ときののの北北ほく面面めんのののともがらともがらともがらははは以以もってててののの外外ほかににに過過か分分ぶんにににててて、、、公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びとをををももも事事ことととともももせせせずずず、、、下下げ北北ほく面面めんよりよりより上上しょう北北ほく面面めんににに上上あがりりり、、、上上しょう北北ほく面面めんよりよりより殿殿てん上上じょうののの交交まじはりはりわりををを許許ゆるさささるゝるゝるる者者ものももも多多おおかりかりかりけりけりけり。。。かくかくかくのみのみのみ行行おこなははわるゝるゝるる間間あいだ、、、おごれおごれおごれるるる心心こころどもどもどもつきつきつきててて、、、よしなきよしなきよしなき謀謀む叛叛ほんにににももも與與くみしししてててけるけるけるにににこそこそこそ。。。
- 9中中なかにににももも故故こ少少しょう納納な言言ごん入入にゅう道道どう信信しん西西ぜいのののもともともとににに召召めし使使つかははわれれれけるけるける、、、師師もろ光光みつ、、、成成なり景景かげととといふいふいう者者ものありありあり。。。師師もろ光光みつははは阿阿あ波波はののの國國くにののの在在ざい、、、成成なり景景かげははは京京きょうののの者者もの、、、宿宿しゅく根根こんいやしきいやしきいやしき下下げ臈臈ろうなりなりなり、、、健健こん兒兒でい童童わらわ、、、もしはもしはもしは恪恪かく勤勤ご者者しゃなどなどなどにににてててもももやややありありありけんけんけん、、、さか〴〵しかりさか〴〵しかりさかさかしかりしししににによつよつよっててて、、、常常つねははは院院いんへへへももも召召めし使使つかははわれれれけるけるけるががが、、、
- 10師師もろ光光みつははは左左さ衞衞え門門もんののの尉尉じょう、、、成成なり景景かげははは右右う衞衞え門門もんののの尉尉じょうとてとてとて、、、二二ふた人人り一一いち度度どににに靫靫ゆき負負えののの尉尉じょうににになりなりなりぬぬぬ。。。一一ひと年年とせ信信しん西西ぜい、、、事事ことににに遭遭あひひいしししときときとき、、、二二ふた人人りともともともににに出出しゅっ家家けしししててて、、、左左さ衞衞え門門もん入入にゅう道道どう西西さい光光こう、、、右右う衞衞え門門もん入入にゅう道道どう西西さい景景けいとてとてとて、、、これらこれらこれらははは出出しゅっ家家けののの後後のちももも、、、院院いんののの御御み倉倉くら預預あずかりにににてててぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。
- 11かのかのかの西西さい光光こうががが子子こににに師師もろ高高たかととといふいふいう者者ものありありあり。。。これこれこれもももさうさうそうなきなきなき切切きり者者ものにににててて、、、檢檢けん非非び違違い使使し、、、五五ご位位いののの尉尉じょうまでまでまで經經へ上上あがりりりててて、、、あまつさへあまつさへあまつさえ安安あん元元げん元元がん年年ねん十十じゅう二二に月月がつ二二に十十じゅう九九く日日にち追追つい儺儺なののの除除じ目目もくににに、、、加加か賀賀がののの守守かみにににぞぞぞなさなさなされれれけるけるける。。。
- 12國國こく務務むををを行行おこなふふう間間あいだ、、、非非ひ法法ほう非非ひ禮禮れいををを張張ちょう行行ぎょうししし、、、神神じん社社じゃ佛佛ぶつ寺寺じ、、、權權けん門門もん勢勢せい家家かののの莊莊しょう領領りょうををを沒沒もっ倒倒とうしししててて、、、さん〴〵さん〴〵さんざんののの事事ことどもどもどもにににてててぞぞぞありありありけるけるける。。。たとひたとひたとい召召しょうががが跡跡あとををを隔隔へだつつつととといふいふいうともともとも、、、穩穩おん便便びんののの政政まつりごとををを行行おこなふふうべかりべかりべかりしししににに、、、かくかくかく心心こころのののまゝまゝままにににふるまふふるまふふるまう間間あいだ、、、同同おなじきじきじき二二に年年ねんののの夏夏なつののの頃頃ころ、、、國國こく司司し師師もろ高高たかののの弟弟おとうと、、、近近こん藤藤どう判判ほう官官がん師師もろ經經つねををを加加か賀賀がののの目目もくににに補補ふせせせらるらるらる。。。
- 13目目もく代代だい下下げ著著ちゃくのののはじめはじめはじめ、、、國國こ府府ふののの邊邊へんににに鵜鵜う川川がわととといふいふいう山山やま寺寺でらありありあり。。。折折おりふしふしふし寺寺じ僧僧そうどもどもどもががが湯湯ゆををを沸沸わかいいいててて浴浴あびびびけるけるけるををを、、、亂亂らん入入にゅうしししててて追追おひひい上上あげげげ、、、わがわがわが身身みあびあびあび、、、雜雜ぞう人人にんばらばらばらおろしおろしおろし、、、馬馬うま洗洗あらははわせせせなどなどなどしししけりけりけり。。。
- 14寺寺じ僧僧そう怒怒いかりりりをををなしなしなしててて、、、「「「昔昔むかしよりよりよりこのこのこの所所ところははは、、、國國くに方方がたののの者者ものののの入入にゅう部部ぶするするする事事ことなしなしなし。。。先先せん例例れいににに任任まかせせせててて、、、速速すみやかかかににに入入にゅう部部ぶののの押押おう妨妨ぼう止止とどめめめよよよややや。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
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- 16鵜鵜う川川がわととといふいふいうははは白白はく山山さんののの末末まつ寺寺じなりなりなり。。。このこのこの事事こと訴訴うつたへへえんんんとてとてとて、、、進進すすむむむ老老ろう僧僧そうたれ〴〵たれ〴〵たれだれぞぞぞ。。。智智ち釋釋しやく、、、覺覺かく明明みょう、、、寶寶ほう臺臺だい坊坊ぼう、、、正正しょう智智ち、、、學學がく音音おん、、、土土と佐佐さののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨りぞぞぞ進進すすみみみけるけるける。。。白白はく山山さん三三さん社社じゃ八八はち院院いんののの大大だい衆衆しゅ、、、悉悉ことごとくくく起起おこりりりあひあひあい、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい二二に千千せん餘餘よ人人にん、、、同同おなじきじきじき七七しち月月がつ九九ここの日日かののの日日ひののの暮暮くれ方方がたににに、、、目目もく代代だい師師もろ經經つねががが館館たち近近ちこうううこそこそこそ押押おし寄寄よせせせたれたれたれ。。。
- 17今日今日きょうははは日日ひ暮暮くれれれぬぬぬ。。。明明みょう日日にちののの軍軍いくさととと定定さだめめめててて、、、そのそのその日日ひははは寄寄よせ手手てこらへこらへこらえたりたりたり。。。露露つゆ吹吹ふきききむすぶむすぶむすぶ秋秋あき風風かぜははは、、、射射い向向むけののの袖袖そでをををひるがへしひるがへしひるがえし、、、雲雲くも居居いををを照照てらすらすらす稻稻いな妻妻づまははは、、、兜兜かぶとののの星星ほしををを輝輝かかやかすかすかす。。。目目もく代代だいかなはかなはかなわじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、夜夜よ逃逃にげにににしてしてして京京きょうへへへ上上のぼるるる。。。明明あくるくるくる卯卯うののの刻刻こくにににおしおしおし寄寄よせせせててて、、、関関ときをををどつとどつとどっとぞぞぞつくりつくりつくりけるけるける。。。城城じょうののの中中うちにににははは音音おともももせせせずずず。。。人人ひとををを入入いれれれててて見見みせせせけれけれければばば、、、「「「みなみなみな落落おちちちててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。大大だい衆衆しゅ力力ちから及及およばばばででで引引ひき退退しりぞくくく。。。
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- 19大大だい衆衆しゅ神神しん輿輿よをををばばば、、、まらうどまらうどまろうどのののへへへ入入いれれれ奉奉たてまつるるる。。。まらうどまらうどまろうどととと申申もうすすすははは、、、白白はく山山さん妙妙みょう利利り權權ごん現現げんにににててておはしますおはしますおわします。。。申申もうせせせばばば父父ふ子子しののの御御おん中中なかなりなりなり。。。まづまづまず沙沙さ汰汰たののの成成じょう否否ふははは知知しらららずずず、、、生生しょう前前ぜんののの御御おんよろこびよろこびよろこび、、、たゞたゞただこのこのこの事事ことにににありありあり。。。浦浦うら島島しまががが子子こののの七七しち世世せののの孫孫まごにににあへあへあえりりりしししにににももも過過すぎぎぎ、、、胎胎たい内内ないののの者者ものののの靈靈りょう山山ぜんののの父父ちちををを見見みしししにににももも越越こえええたりたりたり。。。
- 20三三さん千千ぜんののの衆衆しゅ徒徒と、、、踵踵くびすをををつぎつぎつぎ、、、七七しち社社しゃののの神神じん人人にん、、、袖袖そでををを連連つらねねねててて、、、時時じ々々じ刻刻こく々々こくののの法法ほっ施施せ祈祈き念念ねん、、、言言ごん語語ご道道どう斷斷だんののの事事ことどもどもどもにににてててぞぞぞ候候そうらひひいけるけるける。。。
- 21さるさるさる程程ほどににに山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅ、、、國國こく司司し加加か賀賀がののの守守かみ師師もろ高高たかををを流流る罪罪ざいににに處處しょせせせられられられ、、、目目もく代代だい近近こん藤藤どう判判ほう官官がん師師もろ經經つねををを禁禁きん獄獄ごくせせせらるらるらるべきべきべきよしよしよし、、、奏奏そう聞聞もん度度ど々々どににに及及およぶぶぶととといへいへいえどもどもども、、、御御ご裁裁さい許許きょもももなかりなかりなかりけれけれければばば、、、
- 22しかるしかるしかるべきべきべき公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びとははは、、、「「「あはれあはれあわれとくとくとくしてしてして御御ご裁裁さい斷斷だんあるあるあるべきべきべきものものものををを、、、昔昔むかしよりよりより山山さん門門もんののの訴訴そ訟訟しょうははは他他たににに異異ことなりなりなり。。。大大おお藏藏くら卿卿きょう爲爲ため房房ふさ、、、太太だ宰宰ざいののの權權ごん帥帥そつ季季すえ仲仲なかののの卿卿きょうははは、、、さしもさしもさしも朝朝ちょう家家かににに重重じゅう臣臣しんたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、山山さん門門もんののの訴訴そ訟訟しょうににによつよつよっててて流流る罪罪ざいせせせられられられ給給たまひひいにににききき。。。況況いわんんんややや師師もろ高高たかなどなどなどははは事事ことののの數數かずにににてててやはやはやはあるあるあるべきべきべき、、、仔仔し細細さいにににややや及及およぶぶぶべきべきべき。。。」」」ととと申申もうししし合合あははわれれれけれけれけれどもどもども、、、大大たい臣臣しんははは祿祿ろくををを重重おもんんんじじじててて諫諫いさめめめずずず、、、小小しょう臣臣しんははは罪罪つみににに恐恐おそれれれててて申申もうさささずずずととといふいふいう事事ことなれなれなればばば、、、各各おのおの口口くちををを閉閉とぢぢじ給給たまへへえりりり。。。
現代語訳
そもそもこの法勝寺の執行俊寛僧都と申すのは、京極の源大納言雅俊卿の孫で、木寺の法印寛雅の子であった。祖父の大納言は、とくに武芸を業とする家の人ではなかったけれども、ひどく怒りっぽい人で、三条坊門・京極の自邸の前を、人を気安く通らせなかった。いつも中門に立って、歯をくいしばって怒っておられた。
このような恐ろしい人の孫だからだろうか、この俊寛も僧であるけれども、気性が激しく、思い上がった人で、つまらない謀反にも加わったのであろう。
新大納言成親卿は、多田蔵人行綱を呼んで、「このたびはあなたを一方の大将として頼みにする。この事を成し遂げたなら、国でも荘園でも望みどおりにしよう。まずは弓袋の材料に」といって、白布五十反を贈られた。
安元三年(1177)三月十五日、妙音院殿(藤原師長)が太政大臣に転任なさった代わりに、小松殿(重盛)が源大納言定房卿を越えて内大臣におなりになった。やがて大饗が行われた。大臣で大将を兼ねるのはめでたいことであった。
尊者には大炊御門右大臣経宗公がお迎えされたということである。本来は一の上(左大臣)こそ、その役にふさわしいのだが、父の宇治の悪左府(頼長)の例があって、はばかられたのである。
北面の武士は、昔はなかった。白河院のときに初めて置かれてからこのかた、衛府の者たちが大勢仕えていた。為俊・盛重は、子どものときから今犬丸・千手丸と呼ばれ、比べるもののない院のお気に入りであった。
鳥羽院のときにも、季頼・季教の父子がともに朝廷に召し使われていて、ときには院への取り次ぎをすることもあるだろうといわれていたけれども、これらはみな身の程をわきまえてふるまっていた。
ところが、このときの北面の者たちは、もってのほかに分に過ぎて、公卿や殿上人をも何とも思わず、下北面から上北面に上り、上北面から殿上の交わりを許される者も多かった。このようなことばかりが行われたので、思い上がった心がついて、つまらない謀反にも加わったのであろう。
なかでも故少納言入道信西のもとに召し使われていた、師光・成景という者がいた。師光は阿波国の在庁官人、成景は京の者で、生まれの卑しい下臈である。健児童か、あるいは恪勤者などであったのだろうか、気がきいていたので、いつも院にも召し使われていたが、
師光は左衛門尉、成景は右衛門尉となって、二人一度に衛門尉になった。先年、信西が事件に遭ったとき、二人ともに出家して、左衛門入道西光、右衛門入道西景と名のり、二人は出家の後も、院の御倉預として仕えていた。
その西光の子に師高という者がいた。これも比べるもののない院のお気に入りで、検非違使、五位の尉にまで上って、そのうえ安元元年(1175)十二月二十九日の追儺の除目で、加賀守に任じられた。
国務を行うあいだ、法にはずれた無礼を押し通し、神社仏寺や権門勢家の荘園を没収して、ひどいことばかりであった。たとえ周の召公の善政の跡からは遠いとしても、穏やかな政治を行うべきであったのに、このように思うままにふるまっていたところ、同じ安元二年の夏ごろ、国司師高の弟の近藤判官師経が加賀の目代に任じられた。
目代が赴任したはじめ、国府のあたりに鵜川という山寺があった。ちょうど寺の僧たちが湯を沸かして浴びていたところに、乱入して追い出し、自分が浴び、下人たちも降りて浴び、馬を洗わせなどした。
寺の僧たちは怒って、「昔からこの寺には、国司方の者が入ったことはない。先例どおりに、すぐに立ち入りの乱暴をやめよ」と申した。
目代はたいへん怒って、「これまでの目代は、みな腑甲斐ないから侮られたのだ。この目代に限っては、決してそんなことはさせぬ。ただ法のとおりに処置せよ」と言うや否や、寺の僧たちは国司方の者を追い出そうとする。国司方の者たちは、この機会に乱入しようと、打ち合い押し合いしているうちに、目代師経が秘蔵していた馬の足を打ち折ってしまった。その後は互いに弓矢や武器を持って、射合い切り合い、数時間戦った。夜になったので、目代はかなわないと思ったのだろうか、引き退いた。その後、加賀国の在庁官人ら一千余人を集めて鵜川に押し寄せ、坊舎を一つ残らず焼き払った。
鵜川というのは白山の末寺である。このことを訴えようと進み出る老僧はだれだれか。智釈・覚明・宝台坊・正智・学音・土佐阿闍梨が進み出た。白山の三社八院の衆徒がことごとく立ち上がり、総勢二千余人で、同じ年の七月九日の夕方に、目代師経の館の近くまで押し寄せた。
今日は日が暮れた。明日の合戦と決めて、その日は寄せ手もこらえていた。露を吹き結ぶ秋風は鎧の射向の袖をひるがえし、空を照らす稲妻は兜の星を輝かせる。目代はかなわないと思ったのだろうか、夜逃げして京へ上った。翌朝の卯の刻(午前六時ごろ)に押し寄せて、鬨の声をどっとあげた。館の中からは物音もしない。人を入れて見させると、「みな逃げてしまいました」と言う。衆徒は仕方なく引き上げた。
それならば延暦寺に訴えようと、白山中宮の神輿を飾り立てて、比叡山へ担ぎ上げた。同じ年の八月十二日の正午ごろ、白山中宮の神輿がもう比叡山の東坂本にお着きになったと聞こえるや否や、北国の方から雷がおびただしく鳴って、都をさして鳴りながら上ってきて、白雪が降って地を埋め、山の上も都の中も一様に、常緑の山の梢まで、みな真っ白になってしまった。
衆徒は神輿を客人の宮へお入れ申し上げた。客人の宮と申すのは白山妙理権現でいらっしゃる。言ってみれば(日吉の神と)父子の間柄である。訴えの成否はともかく、生前のお喜びはただこのことにある。浦島の子が七世の孫に会ったのにもまさり、胎内にいた子が霊鷲山で父の釈迦に会ったのにも越えている。
三千の衆徒はきびすを接して集まり、七社の神人は袖を連ねて、時々刻々の読経祈念は、言葉にもならないほどであった。
そのうちに延暦寺の衆徒が、国司加賀守師高を流罪にし、目代近藤判官師経を投獄なさるべきことを、たびたび奏上したけれども、御裁許もなかったので、
しかるべき公卿や殿上人は、「ああ、早く御裁断があるべきなのに。昔から延暦寺の訴えはほかとは違う。大蔵卿為房や太宰権帥季仲卿は、あれほど朝廷の重臣であったのに、延暦寺の訴えによって流罪になられた。まして師高などは、ものの数にも入るものか。とやかく言うまでもないことだ」と語り合われたけれども、「大臣は俸禄を重んじて諫めず、小臣は罪を恐れて申し上げない」ということなので、それぞれ口を閉ざしておられた。
意訳
章段の前半は、鹿ケ谷の謀議に加わった人々の素性を語る。俊寛は怒りっぽい祖父の血を引く気性の激しい僧であり、院の北面の武士たちは、白河・鳥羽院の時代とは違って分をわきまえず、殿上人の仲間入りまでする者が出ていた。とくに西光は、もとは信西に仕えた身分の低い者で、出家後も院の近臣として重んじられ、その子師高は加賀守にまで取り立てられた。物語は、こうした成り上がりの驕りが、謀反の背景にあったと見ている。
後半は、師高とその弟の目代師経が起こした鵜川の事件である。師経は寺の湯を奪って馬まで洗わせ、抗議した寺僧と争って、ついには寺を焼き払う。小さな寺での横暴が、白山の衆徒、さらには延暦寺を巻き込む大事件に広がっていくさまが、具体的に描かれる。白山の神輿が比叡山に着いたとき、雷が鳴り雪が降るという異変は、神々の怒りを示している。
延暦寺の訴えに対して、朝廷はなかなか裁許を下さない。師高が後白河院の寵臣西光の子であったからである。公卿たちは、昔から延暦寺の訴えには逆らえないと知りながら、「大臣は禄を重んじて諫めず、小臣は罪に恐れて申さず」という言葉のとおり、誰も口を開かない。この沈黙が、次の章段の神輿入洛という事態を招くことになる。
語釈・文法注
- 尊者
- 大臣の大饗で、主賓として招かれる人。ふつうは一の上(左大臣)などが務めた。
- 在廳
- 在庁官人。国衙(国の役所)で実務をとった地元の役人。
- 召公
- 周の召公奭。善政を行い、人々が召公の休んだ甘棠の木を大切にしたという故事で知られる。
- 目代
- 国司の代わりに任国に赴いて政務をとった代官。
- まらうどの宮
- 日吉大社の境内にある客人宮(白山宮)。白山の神を客として祀ることからこう呼ぶ。
文法
- 「よしなき謀叛にも與してけるにこそ」
- 「にこそ」の後に「あらめ」などが省略された形。加わったのであろう、の意。
- 「靫負の尉」
- 衛門府の尉(三等官)。衛門府を靫負司ともいった。
- 「さき〴〵の目代は、皆不覺でこそいやしまれたれ」
- 係助詞「こそ」を受けて、結びが已然形「たれ」になり、下に逆接で続く。前の目代は腑甲斐ないから侮られたが、の意。
- 「といふ程こそありけれ」
- 言うか言わないかのうちに、の意の慣用句。
- 「大臣は祿を重んじて諫めず、小臣は罪に恐れて申さず」
- 中国の古典に見える言葉で、権力の前に臣下が口を閉ざすさまをいう。
解説
安元三年(1177)三月の重盛の内大臣任官は、鹿ケ谷事件の直前のことである。重盛は大将を兼ねた内大臣となり、平家の栄華はさらに高まった。物語はその祝宴の場面に、北面の武士や西光一族の驕りの話を続け、平家の栄華と、それを憎む院の近臣たちの動きとを並べて描いている。
鵜川の事件は、安元二年(1176)に加賀国で起こったもので、国司の代官と寺社勢力との争いが中央の政治問題に発展した典型的な例である。白山の衆徒は延暦寺の末寺としてその支援を求め、延暦寺は師高の配流を求めて強訴に及んだ。この強訴が、安元三年四月の神輿入洛となり、さらに天台座主明雲の配流へと事件は広がっていく。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、284–288頁(コマ171–173)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日