平家物語 巻第一
鹿の谷の事
高倉天皇が元服し、清盛の娘徳子が入内する。左大将の欠員をめぐって、藤原成親は八幡や賀茂に祈るが不吉な兆しが続き、結局重盛・宗盛の兄弟が左右の大将となる。恨んだ成親は、東山鹿の谷の俊寛の山荘で、後白河法皇も加わる平家打倒の謀議を重ね、酒宴で瓶子を倒して「平氏たふれ候ひぬ」と戯れる。
- 1これこれこれににによつよつよっててて、、、主主しゅ上上しょう御御ご元元げん服服ぶくののの御御おんさだめさだめさだめ、、、そのそのその日日ひははは延延のびびびさせさせさせ給給たまひひいててて、、、同同おなじきじきじき二二に十十じゅう五五ご日日にち、、、院院いんののの殿殿てん上上じょうにににてててぞぞぞ御御ご元元げん服服ぶくののの御御おんさだめさだめさだめはははありありありけるけるける。。。攝攝せっ政政しょう殿殿どのさてさてさてもももわたらわたらわたらせせせ給給たまふふうべきべきべきならならならねねねばばば、、、同同おなじきじきじき十十じゅう一一いち月月がつ九九ここの日日か、、、兼兼けん宣宣せん旨旨じををを蒙蒙こうむらららせせせ給給たまひひいててて、、、同同おなじきじきじき十十じゅう四四よ日日か太太だい政政じょう大大だい臣臣じんににに上上あがらららせせせ給給たまふふう。。。やがてやがてやがて同同おなじきじきじき十十じゅう七七しち日日にち、、、慶慶よろこびびび申申もうしししのののありありありしかしかしかどもどもども、、、世世よののの中中なかははは猶猶なおにが〳〵しうにが〳〵しうにがにがしゅうぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに今今こ年年としももも暮暮くれれれぬぬぬ。。。嘉嘉か應應おうももも三三み年年とせににになりなりなりにににけりけりけり。。。正正しょう月月がつ五五いつ日日かののの日日ひ主主しゅ上上しょう御御ご元元げん服服ぶくあつあつあっててて、、、同同おなじきじきじき十十じゅう三三さん日日にち、、、朝朝ちょうののの行行ぎょう幸幸こうありありありけりけりけり。。。法法ほう皇皇おう、、、女女にょう院院いん、、、待待まちちち受受うけけけ参参まいらららせせせたまひたまひたまいててて、、、初初うい冠冠こうぶりののの御御おんよそほひよそほひよそおい、、、いかばかりいかばかりいかばかりらうたくらうたくろうたく思思おぼし召召めささされれれけんけんけん。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの御女御女おんむすめ、、、女女にょう御御ごににに参参まいらららせせせ給給たまふふう。。。御御おん年年とし十十じゅう五五ご歳歳さい、、、法法ほう皇皇おう御御ご猶猶ゆう子子しののの儀儀ぎなりなりなり。。。
- 3妙妙みょう音音おん院院いん、、、そのそのその頃頃ころははは未未いまだだだ、、、内内ない大大だい臣臣じんののの左左さ大大だい將將しょうにににてててまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるががが、、、大大たい將將しょうををを辭辭じししし申申もうさささせせせ給給たまふふう事事ことありありありけりけりけり。。。時時ときににに德德とく大大だい寺寺じののの大大だい納納な言言ごん實實じっ定定ていののの卿卿きょう、、、そのそのその仁仁じんににに相相あい當當あたりりり給給たまふふう。。。またまたまた花花か山山ざんののの院院いんののの中中ちゅう納納な言言ごん兼兼かね雅雅まさののの卿卿きょうももも所所しょ望望もうありありあり。。。そのそのその外外ほか故故こ中中なかののの御御み門門かどののの藤藤とう中中ちゅう納納な言言ごん家家か成成せいののの卿卿きょうののの三三さん男男なん、、、新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょうもももひらひらひらににに申申もうさささるるる。。。
- 4そのそのその大大だい納納な言言ごんははは院院いんののの御御ご氣氣き色色しょくよかりよかりよかりけれけれければばば、、、さま〴〵さま〴〵さまざまののの祈祈いのりりりををを始始はじめめめらるらるらる。。。まづまづまず八八や幡幡はたににに百百ひゃく人人にんののの僧僧そうををを籠籠こめめめててて、、、眞眞しん讀讀どくののの大大だい般般はん若若にゃををを七七なぬ日日か讀讀よままませせせられられられけるけるける最最さい中中ちゅうににに、、、甲甲こう良良らののの大大だい明明みょう神神じんののの御御おん前前まえなるなるなる橘橘たちばなののの木木きへへへ、、、男男おとこ山山やまののの方方かたよりよりより、、、山山やま鳩鳩ばと三三みつつつ飛飛とびびび來來きたつつっててて、、、食食くひひいあひあひあいてててぞぞぞ死死しににににににけるけるける。。。鳩鳩はとははは八八はち幡幡まん大大だい菩菩ぼ薩薩さつののの第第だい一一いちののの使使し者者しゃなりなりなり。。。
- 5宮宮みや寺寺てらににに斯斯かかるかるかる不不ふ思思し議議ぎなしなしなしとてとてとて、、、時時ときののの檢檢けん校校ぎょう、、、匡匡きょう淸淸せい法法ほう印印いん、、、このこのこの由由よし内内だい裏裏りへへへ奏奏そう聞聞もんしししたりたりたりけれけれければばば、、、これこれこれたゞたゞただごとごとごとにににあらあらあらずずず、、、御御おん占占うらあるあるあるべしべしべしとてとてとて、、、神神じん祇祇ぎ官官かんにににしてしてして御御おん占占うらありありあり。。。重重おもききき御御おん愼愼つつしみみみととと占占うらなひひい申申もうすすす。。。但但ただしししこれこれこれははは君君きみののの御御おん愼愼つつしみみみにににはははあらあらあらずずず、、、臣臣しん下下かののの愼愼つつしみみみとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 6それそれそれににに大大だい納納な言言ごんおそれおそれおそれももも致致いたささされれれずずず、、、晝晝ひるははは人人ひと目目めのののしげけれしげけれしげければばば、、、夜夜よな〳〵な〳〵なよな步步ほ行行こうにににててて、、、中中なかののの御御み門門かど烏烏からす丸丸まるののの宿宿しゅく所所しょよりよりより、、、賀賀か茂茂もののの上上かみののの社社やしろへへへ、、、七七なな夜夜よつゞけつゞけつづけててて参参まいららられれれけりけりけり。。。七七なな夜夜よににに滿滿まんずるずるずる夜夜よ、、、宿宿しゅく所所しょににに下下げ向向こうしししててて、、、苦苦くるしさしさしさににに少少すこしししまどろみまどろみまどろみたりたりたりけるけるける夢夢ゆめににに、、、賀賀か茂茂もののの上上かみののの社社やしろへへへ参参まいりりりたるたるたるとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、御御ご寶寶ほう殿殿でんののの御御み戸戸とおしおしおしひらきひらきひらき、、、ゆゝしうゆゝしうゆゆしゅうけだかげけだかげけだかげなるなるなる御御おん聲聲こえにににててて、、、
- 7さくらばなさくらばなさくらばな賀賀か茂茂もののの川川かわ風風かぜうらむうらむうらむなななよよよ散散ちるるるをををばばばえええこそこそこそとゞめとゞめとどめざりざりざりけれけれけれ
- 8大大だい納納な言言ごんこれこれこれににに猶猶なおおそれおそれおそれももも致致いたささされれれずずず、、、賀賀か茂茂もののの上上かみののの社社やしろののの御御ご寶寶ほう殿殿でんののの御御おん後後うしろなるなるなる、、、杉杉すぎののの洞洞うろににに壇壇だんををを立立たててて、、、あるあるある聖聖ひじりをををこめこめこめててて、、、吒吒だ幾幾きののの法法ほうををを百百ひゃく日日にち行行おこなははわれれれけるけるけるににに、、、あるあるある時時とき俄俄にはかににに空空そらかきかきかきくもりくもりくもり、、、雷雷いかずちおびたゞしうおびたゞしうおびただしゅう鳴鳴なつつっててて、、、かのかのかの大大おお杉杉すぎににに落落おちちちかゝりかゝりかかり、、、雷雷らい火火かもえもえもえ上上あがつつっててて、、、宮宮ぐう中中ちゅう既既すでににに危危あやうくくく見見みえええけるけるけるををを、、、宮宮みや人人びとどもどもども走走はしりりり集集あつまりまりまりててて、、、これこれこれををを打打うち消消けすすす。。。
- 9さてさてさてかのかのかの外外げ法法ほう行行おこなひひいけるけるける聖聖ひじりををを逐逐おひひい出出いださささんんんとととすすす。。。「「「われわれわれ當當とう社社しゃににに百百ひゃく日日にち参参さん籠籠ろうののの志志こころざしありありありててて、、、今日今日きょうははは七七しち十十じゅう五五ご日日にちににになるなるなる。。。全全まったくくく出出いでででまじまじまじ。。。」」」とてとてとて動動はたらかかかずずず。。。このこのこのよしよしよし社社しゃ家家けよりよりより内内だい裏裏りへへへ奏奏そう聞聞もん申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、たゞたゞただ法法ほうにににまかせまかせまかせよよよととと、、、宣宣せん旨旨じををを下下くださささるるる。。。そのそのその時時とき神神じん人人にん白白しら杖杖ずえををを以以もってててかのかのかの聖聖ひじりがががうなじうなじうなじをををしらげしらげしらげててて、、、一一いち條條じょうののの大大おお路路じよりよりより、、、南南みなみへへへ追追おつつっ越越こしししてててけりけりけり。。。神神かみははは非非ひ禮禮れいをををうけうけうけずずずととと申申もうすすすににに、、、このこのこの大大だい納納な言言ごん、、、非非ひ分分ぶんののの大大たい將將しょうををを祈祈いのりりり申申もうささされれれけれけれければばばにににややや、、、斯斯かかるかるかる不不ふ思思し議議ぎももも出出いででで來來きにににけりけりけり。。。
- 10そのそのその頃頃ころ敍敍じょ位位い、、、除除じ目目もくととと申申もうすすすははは、、、院院いん、、、内内うちののの御御おんはからひはからひはからいにににもももあらあらあらずずず、、、攝攝せっ政政しょう、、、關關かん白白ぱくののの御御ご成成せい敗敗ばいにににももも及及およばばばずずず、、、たゞたゞただ一一いっ向向こう平平へい家家けのののまゝまゝままにににてててありありありけれけれければばば、、、德德とく大大だい寺寺じ、、、花花か山山ざんののの院院いんもももなりなりなり給給たまははわずずず、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの嫡嫡ちゃく男男なん小小こ松松まつ殿殿どの、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ大大だい納納な言言ごんののの右右う大大だい將將しょうにににてててまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるががが左左ひだりににに移移うつりりりててて、、、次次じ男男なん宗宗むね盛盛もり、、、中中ちゅう納納な言言ごんにににててておはせおはせおわせしししががが、、、數數す輩輩はいののの上上じょう臈臈ろうををを超超ちょう越越えつしししててて、、、右右みぎににに加加くわへへえられられられけるけるけるこそこそこそ、、、申申もうすすすばかりばかりばかりもももなかりなかりなかりしかしかしか。。。
- 11中中なかにににももも德德とく大大だい寺寺じ殿殿どのははは、、、一一いちののの大大だい納納な言言ごんにににててて、、、華華か族族ぞく英英えい雄雄ゆう、、、才才さい學學かく優優ゆう長長ちょう、、、家家か嫡嫡ちゃくにににてててまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるががが、、、平平へい家家けののの次次じ男男なん宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうににに、、、加加か階階かい越越こえええられられられ給給たまひひいぬるぬるぬるこそこそこそ、、、遺遺い恨恨こんののの次次し第第だいなれなれなれ。。。定定さだめめめててて御御ご出出しゅっ家家けなどなどなどもももやややあらあらあらんんんずずずらんらんらんととと、、、人人ひと々々びとさゝやきさゝやきささやきあはあはあわれれれけれけれけれどもどもども、、、德德とく大大だい寺寺じ殿殿どのはははしばらくしばらくしばらく、、、世世よのののならならならんんんやうやうようををを見見みんんんとてとてとて、、、大大だい納納な言言ごんををを辭辭じしししててて籠籠ろう居居きょとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 12新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょうののの宣宣のたまひひいけるけるけるははは、、、「「「德德とく大大だい寺寺じ、、、花花か山山ざんののの院院いんににに越越こえええられられられたらたらたらんんんははは如如い何何かにににせせせんんん。。。平平へい家家けののの次次じ男男なん宗宗むね盛盛もりににに加加か階階かい越越こえええられられられぬるぬるぬるこそこそこそ、、、遺遺い恨恨こんののの次次し第第だいなれなれなれ。。。いかにいかにいかにもももしてしてして、、、平平へい家家けををを亡亡ほろぼしぼしぼし、、、本本ほん望望もうををを遂遂とげげげんんん。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいけるけるけるこそこそこそ恐恐おそろしけれろしけれろしけれ。。。
- 13父父ちちののの卿卿きょうはははこのこのこの齡齡よわいでででははは、、、わづかわづかわずか中中ちゅう納納な言言ごんまでまでまでこそこそこそ至至いたららられれれしかしかしか。。。そのそのその末末ばつ子子しにににててて、、、位位くらい正正じょう二二に位位い、、、官官かん大大だい納納な言言ごんににに經經へ上上あがつつっててて、、、大大たい國國こくあまたあまたあまた賜賜たまはつはつわっててて、、、子子し息息そく、、、所所しょ從從じゅう、、、朝朝ちょう恩恩おんににに誇誇ほこれれれりりり。。。何何なにののの不不ふ足足そくあつあつあってててかかか、、、斯斯かかるかるかる心心こころつかつかつかれれれけんけんけん、、、ひとへひとへひとえににに天天てん魔魔まののの所所しょ爲爲いとととぞぞぞ見見みえええししし。。。平平へい治治じにににももも越越えち後後ごののの中中ちゅう將將じょうとてとてとて、、、信信のぶ賴賴よりののの卿卿きょうににに同同どう心心しんののの間間あいだ、、、そのそのその時時とき既既すでににに誅誅ちゅうせせせらるらるらるべかりべかりべかりしししををを、、、小小こ松松まつ殿殿どののののやう〳〵やう〳〵ようようににに申申もうしししててて、、、首首くびをををつぎつぎつぎ給給たまへへえりりり。。。然然しかるるるにににそのそのその恩恩おんををを忘忘わすれれれててて、、、外外がい人人じんもももなきなきなき所所ところににに兵兵ひょう具具ぐををを整整ととのへへえ、、、軍軍ぐん兵兵びょうをををかたらひかたらひかたらい置置おききき、、、朝朝あさ夕夕ゆうはははたゞたゞただ軍軍いくさ合合かっ戰戰せんののの營營いとなみみみののの外外ほかははは、、、またまたまた他他た事事じなしなしなしとととぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。
- 14東東ひがし山山やま鹿鹿ししののの谷谷たにととといふいふいう所所ところははは、、、うしろうしろうしろ三三み井井い寺寺でらにににつゞいつゞいつづいててて、、、ゆゝしきゆゝしきゆゆしき城城じょう郭郭かくにににてててぞぞぞありありありけるけるける。。。それそれそれににに俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ずののの山山さん莊莊そうありありあり。。。かれかれかれににに常常つねははは寄寄よりりりあひ〳〵あひ〳〵あいあい、、、平平へい家家け亡亡ほろぼすぼすぼすべきべきべき謀謀はかりごとをををぞぞぞめぐらしめぐらしめぐらしけるけるける。。。
- 15あるあるある夜夜よ、、、法法ほう皇皇おうももも御御ご幸幸こうなるなるなる。。。故故こ少少しょう納納な言言ごん入入にゅう道道どう信信しん西西ぜいののの子子し息息そく靜靜じょう憲憲けん法法ほう印印いんももも御御おん供供とも仕仕つかまつらららるるる。。。そのそのその夜夜よののの酒酒しゅ宴宴えんににに、、、このこのこの由由よしををを仰仰おおせせせ合合あははわせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう印印いん、、、「「「あなあなあなあさましあさましあさまし。。。人人ひとあまたあまたあまた承承うけたまわりりり候候そうらひひいぬぬぬ。。。たゞたゞただ今今いま洩洩もれれれ聞聞きこえええててて、、、天天てん下下かののの御御おん大大だい事事じににに及及およびびび候候そうらひひいなななんんんずずず。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、
- 16大大だい納納な言言ごん氣氣け色色しきかはつかはつかわっててて、、、さつとさつとさっと立立たたたたれれれけるけるけるががが、、、御御ご前前ぜんににに立立たてててられられられたりたりたりけるけるける瓶瓶へい子子じををを、、、狩狩かり衣衣ぎぬののの袖袖そでにににかけかけかけててて、、、引引ひき倒倒たおささされれれたりたりたりけるけるけるををを、、、法法ほう皇皇おう叡叡えい覽覽らんあつあつあっててて、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、大大だい納納な言言ごん立立たちちちかへつかへつかえっててて、、、「「「平平へい氏氏じたふれたふれたおれ候候そうらひひいぬぬぬ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうささされれれけるけるける。。。
- 17法法ほう皇皇おうもももゑつぼゑつぼえつぼににに入入いらららせせせおはしましおはしましおわしまし、、、「「「者者ものどもどもども参参まいつつっててて猿猿さる樂樂ごう仕仕つかまつれれれ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、平平へい判判ほう官官がん康康やす賴賴よりつとつとつと参参まいつつっててて、、、「「「あゝあゝああ、、、あまりあまりあまりにににへいじへいじへいじののの多多おおううう候候そうろうににに、、、もてもてもて醉醉えひひいててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ず、、、「「「さてさてさてそれそれそれをををばばば、、、いかゞいかゞいかが仕仕つかまつるるるべきべきべきやらやらやらんんん。。。」」」西西さい光光こう法法ほっ師師し、、、「「「たゞたゞただ首首くびををを取取とるるるにににははは如如しかかかじじじ。。。」」」とてとてとて、、、瓶瓶へい子子じののの首首くびををを取取とつつってててぞぞぞ入入いりりりにににけるけるける。。。法法ほう印印いん、、、あまりあまりあまりのののあさましさあさましさあさましさににに、、、つや〳〵つや〳〵つやつやものものものももも申申もうささされれれずずず。。。かへす〴〵かへす〴〵かえすがえす恐恐おそろしかりろしかりろしかりしししことことことどもどもどもなりなりなり。。。
- 18さてさてさて與與よ力力りきののの輩輩ともがらたれたれたれだれだれだれぞぞぞ。。。近近おう江江みののの中中ちゅう將將じょう入入にゅう道道どう蓮蓮れん淨淨じょう、、、俗俗ぞく名名みょう成成なり雅雅まさ、、、法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの執執しゅ行行ぎょう俊俊しゅん寛寛かん僧僧そう都都ず、、、山山やま城城しろののの守守かみ基基もと兼兼かね、、、式式しき部部ぶののの大大たい輔輔ふ雅雅まさ綱綱つな、、、平平へい判判ほう官官がん康康やす賴賴より、、、宗宗そう判判ほう官官がん信信のぶ房房ふさ、、、新新しん平平へい判判ほう官官がん資資すけ行行ゆき、、、武武ぶ士士しにににははは多多た田田だののの藏藏くら人人うど行行ゆき綱綱つなをををはじめはじめはじめとととしてしてして、、、北北ほく面面めんののの者者ものどもどもども多多おおくくく與與よ力力りきしししてててけりけりけり。。。
現代語訳
こうして、天皇の御元服の取り決めは、その日は延期されて、同じ月の二十五日、院の殿上で御元服のお取り決めがあった。摂政殿(基房)はそのままでいらっしゃるわけにもいかないので、同じ年の十一月九日に兼宣旨をお受けになって、同じ十四日に太政大臣にお上りになった。そして同じ十七日にお礼の申し上げがあったけれども、世の中はやはり苦々しい様子に見えた。
そのうちにその年も暮れた。嘉応も三年になった。正月五日に天皇が御元服なさって、同じ十三日に朝覲の行幸があった。法皇と女院(建春門院)がお待ち受けになって、初冠の天皇のお姿を、どれほどかわいらしくお思いになったことだろう。入道相国の御娘(徳子)が女御として入内なさった。御年十五歳で、法皇の御猶子という扱いである。
妙音院殿(藤原師長)は、そのころはまだ内大臣で左大将でいらっしゃったが、大将を辞退なさることがあった。そのとき、徳大寺大納言実定卿がその任にふさわしい方であった。また花山院中納言兼雅卿も望んでいた。そのほか、故中御門藤中納言家成卿の三男、新大納言成親卿も、ひたすら望み申された。
その大納言は、院のご機嫌がよかったので、さまざまな祈りを始められた。まず石清水八幡宮に百人の僧をこもらせて、大般若経を七日間真読させていたさなかに、甲良の大明神の御前の橘の木へ、男山の方から山鳩が三羽飛んで来て、つつき合って死んでしまった。鳩は八幡大菩薩の第一のお使いである。
「この宮寺にこのような不思議はかつてない」といって、時の検校の匡清法印がこのことを内裏へ奏上したので、これはただ事ではない、お占いをすべきだということで、神祇官でお占いがあった。重い御謹慎の兆しと占い申した。ただし、これは天皇の御謹慎ではなく、臣下の謹慎だと申した。
それなのに大納言は恐れもせず、昼は人目が多いので、毎夜徒歩で、中御門烏丸の宿所から賀茂の上社へ、七夜続けて参詣された。七夜目が満ちた夜、宿所に帰って、疲れて少しまどろんだときの夢に、賀茂の上社へ参ったと思われて、御宝殿の御扉を押し開き、たいそう気高いお声で、
桜の花よ、賀茂の川風を恨むなよ。散るのをとどめることはできないのだから。
大納言はこれにもなお恐れもせず、賀茂の上社の御宝殿の後ろにある杉の木のうろに壇を設け、ある聖をこもらせて、荼枳尼天の法を百日間行わせたところ、あるとき急に空がかき曇り、雷がおびただしく鳴って、その大杉に落ちかかり、雷火が燃え上がって、社殿も危なく見えたのを、神官たちが走り集まって消し止めた。
そしてその外法を行っていた聖を追い出そうとした。聖は「私はこの社に百日こもる志があって、今日で七十五日になる。決して出ない」といって動かない。このことを社家から内裏へ奏上したところ、「ただ法に従って処置せよ」と宣旨が下された。そこで神人が白い杖でその聖のうなじを打ちすえて、一条大路から南へ追い出した。神は礼にかなわないことを受けないというのに、この大納言が分に過ぎた大将の位を祈り申したためであろうか、このような不思議も起こったのである。
そのころの叙位・除目は、院や天皇のおはからいでもなく、摂政・関白のご裁断にもよらず、ただひたすら平家の思いのままであったので、徳大寺も花山院もなれず、入道相国の嫡男の小松殿が、そのときはまだ大納言で右大将でいらっしゃったのが左大将に移り、次男の宗盛が中納言でいらっしゃったのが、多くの上位の人々を飛び越えて右大将に加えられたことは、言いようもないことであった。
なかでも徳大寺殿は首席の大納言で、名門の家柄、才学にすぐれ、家の嫡男でいらっしゃったのに、平家の次男宗盛卿に位を越えられなさったのは、残念なことであった。きっと御出家なさるのではないかと、人々はささやき合われたけれども、徳大寺殿はしばらく世の成り行きを見ようといって、大納言を辞して引きこもってしまわれたということである。
新大納言成親卿がおっしゃるには、「徳大寺や花山院に越えられたのならまだしも、平家の次男の宗盛に位を越えられたことこそ、残念でならない。何としてでも平家を滅ぼして、本望を遂げよう」とおっしゃったのは恐ろしいことである。
父の卿は、この年齢では、わずか中納言にまでしか至られなかった。その末子でありながら、位は正二位、官は大納言にまで上って、大国をいくつも賜り、子息も家来も朝廷の恩に誇っていた。何の不足があって、このような心をお持ちになったのか、ひとえに天魔のしわざと思われた。平治の乱でも越後中将として藤原信頼に同心したので、そのときすでに処刑されるはずであったのを、小松殿がいろいろと申し上げて命を助けられたのである。それなのにその恩を忘れて、他人のいない所で武具を整え、兵を味方に引き入れて置き、朝夕ただ戦の準備のほかには、ほかのこともしないように見えた。
東山の鹿の谷という所は、後ろが三井寺に続いていて、すばらしい城郭のような所であった。そこに俊寛僧都の山荘があった。そこにいつも寄り集まっては、平家を滅ぼす計略をめぐらしていた。
ある夜、法皇もお出ましになった。故少納言入道信西の子息、静憲法印もお供していた。その夜の酒宴で、このことをご相談なさったところ、法印は「ああ、あさましい。大勢の人が聞いてしまいました。今にも漏れ聞こえて、天下の一大事になってしまいましょう」と申されたので、
大納言は顔色を変えて、さっと立たれたが、御前に置かれていた瓶子を、狩衣の袖にひっかけて倒されたのを、法皇がご覧になって「あれはどうした」とおっしゃると、大納言は振り返って「平氏(瓶子)が倒れました」と申された。
法皇も大笑いなさって、「者ども、参って猿楽をせよ」とおっしゃったので、平判官康頼がさっと参って、「ああ、あまりにへいじ(瓶子・平氏)が多うございますので、酔ってしまいました」と申す。俊寛僧都が「さて、それをどういたしましょうか」と言うと、西光法師が「ただ首を取るにこしたことはない」といって、瓶子の首を折り取って奥へ入ってしまった。法印はあまりのあさましさに、まったくものも申されない。かえすがえすも恐ろしいことであった。
さて、謀反に加わった者はだれだれか。近江中将入道蓮浄(俗名成雅)、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、武士では多田蔵人行綱をはじめとして、北面の者どもが多く加わっていた。
意訳
章段の前半は、高倉天皇の元服と、清盛の娘徳子の入内を語る。徳子が後白河法皇の猶子として入内したことは、平家と皇室の結びつきがいっそう強まったことを示している。一方で、摂政基房は殿下乗合の屈辱を受けたまま太政大臣に昇り、「世の中は猶にがにがしう」と、平家への反感がくすぶり続けていたことが語られる。
左大将の欠員をめぐる争いが、鹿ケ谷の陰謀の直接のきっかけとなる。藤原成親は大将の位を望んで八幡や賀茂に祈るが、山鳩が死に、夢に「散るをばえこそとどめざりけれ」という神の歌を聞き、荼枳尼天の法を行わせた杉には雷が落ちる。神仏に拒まれても恐れない成親の姿は、その後の破滅を予告している。結局、大将の地位は重盛と宗盛の兄弟が占め、成親は平家への恨みを募らせる。
後半の鹿ケ谷の場面は、『平家物語』の中でもよく知られた場面である。法皇も加わった酒宴で、成親が瓶子(へいじ)を倒して「平氏(へいじ)たふれ候ひぬ」と言い、西光が瓶子の首を取って見せる。言葉遊びの座興のように見えて、実は平家打倒の謀議であり、それを法皇が笑って受け入れている。この軽はずみな謀議が、やがて密告によって露見し、多くの人々の運命を狂わせていく。
語釈・文法注
- 朝覲
- 天皇が年頭などに、上皇や皇太后の御所に行幸して拝礼すること。
- 妙音院殿
- 藤原師長(1138〜1192)。頼長の子で、琵琶の名手として知られた。のち太政大臣となる。
- 吒幾爾の法
- 荼枳尼天を本尊として願望の成就を祈る密教の修法。外法とされ、人の命を縮めるともいわれた。
文法
- 「さてもわたらせ給ふべきならねば」
- そのままの地位でいらっしゃるわけにもいかないので、の意。殿下乗合の後、基房を慰める意味もあって太政大臣に昇進させたことをいう。
- 「散るをばえこそとゞめざりけれ」
- 「え…ざり」は不可能を表し、係助詞「こそ」を受けて過去の助動詞「けり」の已然形「けれ」で結ぶ。散るのはとどめることができないのだ、の意で、成親の望みがかなわないことを神が告げたもの。
- 「動かず」
- 底本は「動」に「はたら」とふりがなを付ける。動こうとしない、の意。
- 「平氏たふれ候ひぬ」
- 倒れた「瓶子(へいじ)」に「平氏(へいし)」を掛けた洒落。
- 「たゞ首を取るには如かじ」
- 「如かじ」は、及ぶまい、…にこしたことはない、の意。瓶子の首(口の部分)を取ることに、平家の首を取ることを掛ける。
和歌
さくらばな賀茂の川風うらむなよ散るをばえこそとゞめざりけれ
- 詠者
- 賀茂の神(成親の夢の中の声)
- 状況
- 大将の位を祈って賀茂の上社に七夜参詣した成親が、満願の夜の夢で、御宝殿の中から聞いた神の歌。
修辞
- 比喩
- 「さくらばな」を成親に、「散る」を望みがかなわないことにたとえ、神にもとどめられないと告げる。
解説
鹿ケ谷の陰謀は、治承元年(1177)に発覚した平家打倒の計画である。藤原成親・西光・俊寛らが東山鹿ケ谷の俊寛の山荘に集まって謀議したとされ、後白河法皇も関わっていたと伝えられる。物語は事件の発端を、嘉応から安元にかけての大将人事に置き、成親の個人的な恨みを強調しているが、実際には後白河院の近臣たちと平家との対立が背景にあった。
重盛が左大将、宗盛が右大将に並んだのは治承元年(1177)正月で、「わが身の栄華の事」に述べられていた兄弟左右に並ぶ栄誉がこれにあたる。この人事で徳大寺実定は越えられ、のちに厳島に参詣して清盛の歓心を買い、大将の地位を得たという話が巻第二の「徳大寺厳島詣での事」に語られる。
与力の人々のうち、俊寛・康頼・成経(成親の子)はのちに鬼界が島に流され、西光は斬られ、成親は備前で殺される。密告者となる多田行綱の名が、ここですでに挙げられている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、280–284頁(コマ169–171)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日