平家物語 巻第一
殿下の乗合の事
嘉応二年、重盛の次男資盛は、鷹狩りの帰りに摂政藤原基房の行列に出会い、下馬の礼をとらずに通ろうとして、従者たちに馬から引き下ろされる。重盛は資盛の非を認めるが、清盛は怒って侍たちに命じ、参内途中の基房の行列を襲わせて、前駆や随身の髻を切らせる。これが平家の悪行の始めとされる。
- 1さるさるさる程程ほどににに嘉嘉か應應おう元元がん年年ねん七七しち月月がつ十十じゅう六六ろく日日にち、、、一一いち院院いん御御ご出出しゅっ家家けありありあり。。。御御ご出出しゅっ家家けののの後後のちももも萬萬ばん機機きののの政政まつりごとをををしろしめさしろしめさしろしめされれれけれけれければばば、、、院院いん、、、内内うち、、、わくわくわくかたかたかたなしなしなし。。。
- 2院院いん中中じゅうににに近近ちこううう召召めし使使つかははわれれれけるけるける公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びと、、、上上じょう下下げののの北北ほくににに至至いたるるるまでまでまで、、、官官かん位位い俸俸ほう祿祿ろく、、、みなみなみな身身みにににあまるあまるあまる許許ばかりりりなりなりなり。。。されどもされどもされども人人ひとののの心心こころのののならひならひならいにににててて、、、なほなほなお飽飽あききき足足たらららででで、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれそのそのその人人ひとののの失失うせせせたらたらたらばばば、、、そのそのその國國くにはははあきあきあきなななんんん、、、そのそのその人人ひとののの亡亡ほろびびびたらたらたらばばば、、、そのそのその官官かんにににはははなりなりなりなななんんん。。。」」」などなどなど、、、うとからうとからうとからぬぬぬどちどちどちははは、、、寄寄よりりりあひ〳〵あひ〳〵あいあい、、、さゝやきさゝやきささやきけりけりけり。。。
- 3一一いち院院いんももも内内ない々々ない仰仰おおせせせなりなりなりけるけるけるははは、、、「「「昔昔むかしよりよりより代代よ々々よののの朝朝ちょう敵敵てきををを平平たいらげらげらげたるたるたる者者もの多多おおしししととといへいへいえどもどもども、、、未未いまだだだかやうかやうかようののの事事ことはははなしなしなし。。。貞貞さだ盛盛もり、、、秀秀ひで鄕鄕さとががが將將まさ門門かどををを討討うちちち、、、賴賴より義義よしががが貞貞さだ任任とう、、、宗宗むね任任とうををを亡亡ほろぼしぼしぼし、、、義義よし家家いえががが武武たけ衡衡ひら、、、家家いえ衡衡ひらををを攻攻せめめめたりたりたりしししにににももも、、、勸勸けん賞賞じょう行行おこなははわれれれしししことことこと、、、わづかわづかわずか受受じゅ領領りょうにににははは過過すぎぎぎざりざりざりききき。。。今今いま淸淸きよ盛盛もりががが、、、かくかくかく心心こころののの儘儘ままにににふるまふふるまふふるまう事事ことこそこそこそ然然しかるるるべからべからべからねねね。。。これこれこれももも世世よ末末すえににになりなりなりててて、、、王王おう法法ぼうののの盡盡つきききぬるぬるぬる故故ゆえなりなりなり。。。」」」とととははは仰仰おおせせせなりなりなりけれけれけれどもどもども、、、ついでついでついでなけれなけれなければばば御御おん誡誡いましめめめもももなしなしなし。。。
- 4平平へい家家けもももまたまたまた、、、別別べっしししててて朝朝ちょう家家かををを恨恨うらみみみ奉奉たてまつらららるゝるゝるる事事こともももなかりなかりなかりしししににに、、、世世よののの亂亂みだれれれそめそめそめけるけるける根根こん本本ぽんははは、、、いんじいんじいんじ嘉嘉か應應おう二二に年年ねん十十じゅう月月がつ十十じゅう六六ろく日日にちににに、、、小小こ松松まつ殿殿どのののの次次じ男男なん、、、新新しん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう資資すけ盛盛もり、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ越越えち前前ぜんののの守守かみとてとてとて、、、生生しょう年年ねん十十じゅう三三さんにににならならなられれれけるけるけるががが、、、
- 5雪雪ゆきはははににに降降ふつつったりたりたりけりけりけり。。。枯枯かれ野野ののののけしきけしきけしき、、、まことまことまことにににおもしろかりおもしろかりおもしろかりけれけれければばば、、、若若わかききき侍侍さぶらいどもどもども三三さん十十じっ騎騎きばかりばかりばかり召召めししし具具ぐしししててて、、、蓮蓮れん臺臺だい野野のややや、、、紫紫むらさき野野の、、、右右う近近こんののの馬馬うま場場ばににに打打うち出出いでででててて、、、鷹鷹たかどもどもどもあまたあまたあまたすゑすゑすえさせさせさせ、、、鶉鶉うずら、、、雲雲ひ雀雀ばりををを追追おひひい立立たて〳〵て〳〵てたて、、、ひねもすひねもすひねもすににに狩狩かりりり暮暮くらししし、、、薄薄はく暮暮ぼににに及及およんんんででで、、、六六ろく波波は羅羅らへへへこそこそこそ歸歸かえららられれれけれけれけれ。。。
- 6そのそのその時時ときののの御御ご攝攝しょう籙籙ろくははは松松まつにににてててぞぞぞまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。東東ひがしののの洞洞とう院院いんののの御御ご所所しょよりよりより、、、御御ご参参さん内内だいありありありけりけりけり。。。郁郁ゆう芳芳ほう門門もんよりよりより入入にゅう御御ぎょあるあるあるべきべきべきにににててて、、、東東ひがしののの洞洞とう院院いんををを南南みなみへへへ、、、大大おお炊炊ひののの御御み門門かどををを西西にしへへへ御御ぎょ出出しゅつなるなるなるににに、、、
- 7資資すけ盛盛もり朝朝あ臣臣そん、、、大大おお炊炊ひののの御御み門門かど、、、猪猪いの熊熊くまにににててて、、、殿殿てん下下がののの御御ぎょ出出しゅつににに鼻鼻はなつきつきつきににに参参まいりりりあふあふあう。。。御御おん供供ともののの人人ひとどもどもども、、、「「「何何なに者者ものぞぞぞ、、、狼狼ろう藉藉ぜきなりなりなり。。。御御ぎょ出出しゅつなるなるなるににに、、、乘乘のり物物ものよりよりより下下おりりり候候そうらへ〳〵へ〳〵えそうらえ。。。」」」ととといらでいらでいらでけれけれけれどもどもども、、、あまりあまりあまりににに誇誇ほこりりり勇勇いさみみみ、、、世世よををを世世よととともももせせせざりざりざりけるけるける上上うえ、、、召召めししし具具ぐしししたるたるたる侍侍さぶらいどもどもどもももも、、、皆皆みな二二に十十じゅうよりよりより内内うちののの若若わか者者もの共共どもなれなれなればばば、、、禮禮れい儀儀ぎ、、、骨骨こつ法法ぽうわきまへわきまへわきまえたるたるたる者者もの一一いち人人にんもももなしなしなし。。。殿殿てん下下がののの御御ぎょ出出しゅつととともももいはいはいわずずず、、、一一いっ切切さい下下げ馬馬ばののの禮禮れい儀儀ぎにににももも及及およばばばずずず、、、只只ただ驅驅かけけけ破破やぶつつっててて通通とおらららんんんとととするするする間間あいだ、、、暗暗くらさささははは暗暗くらししし、、、つや〳〵つや〳〵つやつや太太だい政政じょう大大だい臣臣じんののの孫孫まごとととももも知知しらららずずず。。。またまたまた少少しょう々々しょうははは知知しりりりたれたれたれどもどもども、、、そらそらそら知知しらららずずずしてしてして、、、資資すけ盛盛もりののの朝朝あ臣臣そんををを始始はじめめめとととしてしてして、、、侍侍さぶらい共共どもみなみなみな馬馬うまよりよりより取取とつつっててて引引ひき下下おろししし、、、頗頗すこぶるるる恥恥ち辱辱じょくににに及及およびびびけりけりけり。。。
- 8資資すけ盛盛もりののの朝朝あ臣臣そん、、、はふ〳〵はふ〳〵ほうほう六六ろく波波は羅羅らへへへ歸歸かえりりりおはしおはしおわしててて、、、祖祖そ父父ふののの相相しょう國國こく禪禪ぜん門門もんにににこのこのこの由由よし訴訴うつたへへえ申申もうささされれれけれけれければばば、、、入入にゅう道道どう大大おおきききににに怒怒いかつつっててて、、、「「「たとひたとひたとい殿殿てん下下がなりなりなりともともとも、、、淨淨じょう海海かいがががあたりあたりあたりをををばばば憚憚はばかりりりたまふたまふたまうべきべきべきににに、、、さうなうさうなうそうのうあのあのあの幼幼おさなきききものものものににに、、、恥恥ち辱辱じょくををを與與あたへへえられられられけるけるけるこそこそこそ、、、遺遺い恨恨こんののの次次し第第だいなれなれなれ。。。斯斯かかるかるかる事事ことよりよりよりしてしてして、、、人人ひとにににははは欺欺あざむかかかるゝるゝるるぞぞぞ。。。このこのこのことことこと殿殿てん下下がににに思思おもひひい知知しらららせせせ奉奉たてまつらららでででははは、、、えええこそこそこそあるあるあるまじけれまじけれまじけれ。。。いかにいかにいかにもももしてしてして怨怨うらみみみ奉奉たてまつらららばやばやばや。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、
- 9重重しげ盛盛もりののの卿卿きょう申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「これこれこれははは少少すこしししももも苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうまじまじまじ。。。賴賴より政政まさ、、、光光みつ基基もとなどなどなど申申もうすすす源源げん氏氏じどもどもどもににに嘲嘲あざけららられれれてててももも候候そうらははわんんんははは、、、まことまことまことににに一一いち門門もんののの恥恥ち辱辱じょくにににてててももも候候そうろうべしべしべし。。。重重しげ盛盛もりががが子子こどもどもどもとてとてとて候候そうらははわんんんずるずるずる者者ものががが、、、殿殿とのののの御御ご出出しゅつにににまゐりまゐりまいりあうあうおうててて、、、乘乘のり物物ものよりよりより下下おりりり候候そうらははわぬぬぬ事事ことこそこそこそ、、、返返かえす〳〵す〳〵すかえすももも尾尾びににに候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、そのそのその時時とき事事ことにににあうあうおうたるたるたる侍侍さぶらい共共ども、、、みなみなみな召召めししし寄寄よせせせててて、、、自自じ今今こん以以い後後ご、、、汝汝なんじ等等らよく〳〵よく〳〵よくよく心心こころ得得うべしべしべし。。。誤誤あやまつつっててて殿殿てん下下がへへへ無無ぶ禮禮れいののの由由よしををを、、、申申もうさささばやばやばやととと思思おもへへえ。。。」」」とてとてとてこそこそこそ歸歸かえささされれれけれけれけれ。。。
- 10そのそのその後後のち入入にゅう道道どう、、、小小こ松松まつ殿殿どのにににははは、、、かうかうこうとととももも宣宣のたまひひいももも合合あははわせせせずずずしてしてして、、、片片かた田田い舎舎なかののの侍侍さぶらいののの、、、きはめてきはめてきわめてこはらかこはらかこわらかなるなるなるががが、、、入入にゅう道道どうののの仰仰おおせせせよりよりより外外ほか、、、世世よにににまたまたまた恐恐おそろしきろしきろしき事事ことなしなしなしととと思思おもふふう者者もの共共ども、、、難難なん波波ば、、、妹妹せの尾尾おををを始始はじめめめとととしてしてして、、、都都つ合合ごう六六ろく十十じゅう餘餘よ人人にん召召めししし寄寄よせせせててて、、、「「「來來きたるるる二二に十十じゅう一一いち日日にち、、、殿殿てん下下が御御ぎょ出出しゅつあるあるあるべかべかべかんんんなりなりなり。。。いづくいづくいずくにににてててももも待待まちちち受受うけけけ奉奉たてまつりりり、、、前前ぜん驅驅く、、、御御み隨隨ずい身身じん共共どもががが髻髻もとどり切切きつつっててて、、、資資すけ盛盛もりががが恥恥はじすゝげすゝげすすげ。。。」」」とととこそこそこそ宣宣のたまひひいけれけれけれ。。。兵兵つわものどもどもども畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわりりりててて、、、まかりまかりまかり出出いづづず。。。
- 11殿殿てん下下がこれこれこれをををばばば夢夢ゆめにににもももしろしめさしろしめさしろしめされれれずずず、、、主主しゅ上上しょう明明みょう年年ねん御御ご元元げん服服ぶく、、、御御ご加加か冠冠かん、、、拜拜はい官官かんののの御御おん定定さだめめめののの爲爲ためににに、、、しばらくしばらくしばらく御御ご直直じき廬廬ろにににあるあるあるべきべきべきにににててて、、、常常つねののの御御ぎょ出出しゅつよりよりよりははは引引ひきききつくろはつくろはつくろわせせせ給給たまひひいててて、、、このこのこのたびたびたびははは待待たい賢賢けん門門もんよりよりより入入にゅう御御ぎょあるあるあるべきべきべきにににててて、、、中中なかののの御御み門門かどををを西西にしへへへ御御ぎょ出出しゅつなるなるなるににに、、、
- 12猪猪いの熊熊くま、、、堀堀ほり川川かわののの邊邊へんにににててて、、、六六ろく波波は羅羅らののの兵兵つわものどもどもども、、、ひたひたひたかぶとかぶとかぶと三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎き、、、待待まちちち受受うけけけ奉奉たてまつりりり、、、殿殿てん下下がををを中中なかににに取取とりりりこめこめこめ参参まいらららせせせててて、、、前前ぜん後後ごよりよりより一一いち度度どにににをををどつとどつとどっとぞぞぞつくりつくりつくりけるけるける。。。前前ぜん驅驅く、、、御御み隨隨ずい身身じんどもどもどもががが、、、今日今日きょうをををはれはれはれととと裝裝そう束束ぞくしししたるたるたるををを、、、あそこあそこあそこににに追追おつつっかけかけかけ、、、こゝこゝここににに追追おつつっつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに凌凌りょう礫礫れきししし、、、一一いち々々いちにににみなみなみな髻髻もとどりををを切切きるるる。。。
- 13隨隨ずい身身じん十十じゅう人人にんののの中中うち、、、右右うののの府府ふ生生しょう武武たけ基基もとががが髻髻もとどりをををももも切切きららられれれてててけりけりけり。。。そのそのその中中なかににに藤藤とう藏藏くら人人うどののの大大たい夫夫ふ高高たか範範のりががが髻髻もとどりををを切切きるるるとてとてとて、、、「「「これこれこれははは汝汝なんじががが髻髻もとどりととと思思おもふふうべからべからべからずずず、、、主主しゅうののの髻髻もとどりととと思思おもふふうべしべしべし。。。」」」ととと、、、いひいひいいふくめふくめふくめてててぞぞぞ切切きつつってててけるけるける。。。そのそのその後後のちははは御御み車車くるまののの内内うちへへへももも、、、弓弓ゆみののの弭弭はずつきつきつき入入いれれれなどなどなどしてしてして、、、簾簾すだれかなぐりかなぐりかなぐり落落おとししし、、、御御おん牛牛うしのののむながいむながいむながい、、、しりがいしりがいしりがい切切きりりり放放はなちちち、、、かくかくかくさん〴〵さん〴〵さんざんにににししし散散ちらしらしらしててて、、、よろこびよろこびよろこびののの関関ときをををつくりつくりつくり、、、六六ろく波波は羅羅らへへへ歸歸かえりりり参参まいりりりたれたれたればばば、、、入入にゅう道道どう、、、「「「神神しん妙妙びょうなりなりなり。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 14されどもされどもされども御御み車車くるま添添ぞいにににははは、、、因因いな幡幡ばのののさいづかひさいづかひさいづかい、、、鳥鳥と羽羽ばののの國國くに久久ひさ丸丸まるととといふいふいう男男おのこ、、、下下げ臈臈ろうなれなれなれどもどもどもさかさかしきさかさかしきさかさかしき者者ものにににててて、、、御御み車車くるまをををしつらひしつらひしつらい、、、乘乘のせせせ奉奉たてまつつつっててて、、、中中なかののの御御み門門かどののの御御ご所所しょへへへ還還かん御御ぎょなしなしなし奉奉たてまつるるる。。。
- 15束束そく帶帶たいののの御御おん袖袖そでにににててて涙涙なみだをををおさへおさへおさえさせさせさせ給給たまひひいつゝつゝつつ、、、還還かん御御ぎょののの儀儀ぎ式式しきのののあさましさあさましさあさましさ、、、申申もうすすすもももなか〳〵なか〳〵なかなかおろかおろかおろかなりなりなり。。。大大たい織織しょく冠冠かん、、、淡淡たん海海かい公公こうののの御御おん事事ことははは擧擧あげげげててて申申もうすすすににに及及およばばばずずず、、、忠忠ちゅう仁仁じん公公こう、、、照照しょう宣宣せん公公こうよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、攝攝せっ政政しょう、、、關關かん白白ぱくののの斯斯かかるかるかる御御おん目目めにににあはあはあわせせせ給給たまふふうことことこと、、、未未いまだだだ承承うけたまわりりり及及およばばばずずず。。。これこれこれこそこそこそ平平へい家家けののの惡惡あく行行ぎょうののの始始はじめめめなれなれなれ。。。
- 16小小こ松松まつ殿殿どのこのこのこの由由よしををを聞聞きききき給給たまひひいててて、、、大大おおきききににに恐恐おそれれれ騒騒さわがががれれれけりけりけり。。。そのそのその時時とき行行ゆききき向向むこうううたるたるたる侍侍さぶらいどもどもども、、、皆皆みな勘勘かん當當どうせせせらるらるらる。。。
- 17「「「たとひたとひたとい入入にゅう道道どういかなるいかなるいかなる不不ふ思思し議議ぎををを下下げ知知じししし給給たまふふうととといふいふいうともともとも、、、などなどなど重重しげ盛盛もりににに夢夢ゆめばかりばかりばかり知知しらららせせせざりざりざりけるけるけるぞぞぞ。。。およそおよそおよそははは資資すけ盛盛もり奇奇き怪怪かいなりなりなり。。。栴栴せん檀檀だんははは二二ふた葉葉ばよりよりよりかんばしかんばしかんばしとととこそこそこそ見見みえええたれたれたれ。。。既既すでににに十十じゅう二二に三三さんにににならならならんんんずるずるずる者者ものががが、、、今今いまははは禮禮れい儀儀ぎををを存存ぞん知知じしししてててこそこそこそふるまふふるまふふるまうべきべきべきににに、、、かやうかやうかようののの尾尾び籠籠ろうををを現現げんじじじててて入入にゅう道道どうののの惡惡あく名名みょうををを立立たつつつ。。。不不ふ孝孝こうのののいたりいたりいたり、、、汝汝なんじ一一ひと人人りにににありありありけりけりけり。。。」」」とてとてとて、、、しばらくしばらくしばらく伊伊い勢勢せののの國國くにへへへ逐逐おひひい下下くださささるるる。。。
- 18さればさればさればこのこのこの大大たい將將しょうをををばばば、、、君君きみももも臣臣しんももも御御ぎょ感感かんありありありけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
現代語訳
そうしているうちに嘉応元年(1169)七月十六日、一院(後白河院)が御出家なさった。御出家の後も天下の政治をお執りになったので、院の御所と内裏の区別もない。
院の御所で近く召し使われていた公卿・殿上人から、上北面・下北面の武士に至るまで、官位も俸禄もみな身に余るほどであった。けれども人の心のならいで、それでもなお満足せず、「ああ、あの人が死んだら、その国が空くだろうに。あの人が滅んだら、その官職につけるだろうに」などと、親しい者どうしは寄り集まってはささやき合っていた。
一院も内々におっしゃるには、「昔から代々の朝敵を平らげた者は多いけれども、まだこのようなことはない。平貞盛・藤原秀郷が平将門を討ち、源頼義が安倍貞任・宗任を滅ぼし、源義家が清原武衡・家衡を攻めたときでも、恩賞はせいぜい受領を与える程度にすぎなかった。今、清盛がこのように思うままにふるまうのはよろしくない。これも世が末になって、王法が尽きたからである」とはおっしゃったけれども、きっかけがないのでお咎めもない。
平家のほうもまた、とくに朝廷をお恨み申し上げることもなかったのに、世が乱れ始めた根本は、去る嘉応二年(1170)十月十六日に、小松殿(重盛)の次男で新三位中将資盛が、そのときはまだ越前守で、十三歳になられていたが、
雪がはらはらと降っていた。枯野の景色がまことに趣深かったので、若い侍を三十騎ほど連れて、蓮台野や紫野、右近の馬場に出かけて、鷹を何羽も手に据えさせ、鶉や雲雀を追い立て追い立て、一日中狩りをして、夕暮れになって六波羅へ帰られた。
そのときの摂政は松殿(藤原基房)でいらっしゃった。東洞院の御所から参内なさるところであった。郁芳門からお入りになる予定で、東洞院を南へ、大炊御門を西へお出ましになると、
資盛朝臣が、大炊御門と猪熊の辻で、摂政の行列に鉢合わせしてしまった。お供の人々が「何者だ、無礼であるぞ。摂政のお出ましであるのに、乗物から降りよ、降りよ」と急き立てたけれども、資盛はあまりに思い上がって、世間を世間とも思わないうえに、連れている侍たちもみな二十歳前の若者ばかりなので、礼儀作法をわきまえた者は一人もいない。摂政のお出ましとも言わず、下馬の礼も一切とらずに、ただ駆け抜けて通ろうとしたので、暗いこともあって、お供の者たちはまったく太政大臣の孫とも知らず、また少しは知っていた者も知らないふりをして、資盛朝臣をはじめ、侍たちをみな馬から引きずり下ろし、ひどく恥をかかせた。
資盛朝臣は、ほうほうの体で六波羅へ帰って、祖父の入道相国にこのことを訴え申されたので、入道はたいへん怒って、「たとえ摂政であっても、この浄海の身内には遠慮なさるべきなのに、むやみにあの幼い者に恥をかかせられたのは、残念なことだ。こういうことから人に侮られるのだ。このことは摂政に思い知らせ申し上げなくては、とてもすまされない。何としてでも恨みを晴らし申し上げたい」とおっしゃると、
重盛卿が申されるには、「これは少しも差し支えありますまい。源頼政や光基などという源氏どもにあざけられたのなら、まことに一門の恥にもなりましょう。重盛の子どもとして育てられた者が、摂政殿のお出ましに出会って、乗物から降りなかったことこそ、かえすがえすも無礼なことでございます」といって、そのとき事件に居合わせた侍たちをみな呼び寄せて、「今後は、おまえたちよくよく心得よ。誤って摂政殿に無礼をはたらいたことを、お詫び申し上げたいと思え」と言って帰された。
その後入道は、小松殿にはこうとも相談なさらずに、片田舎の侍で、たいそう頑固で、入道の仰せよりほかに世の中に恐ろしいものはないと思っている者ども、難波・妹尾をはじめ、合わせて六十余人を呼び寄せて、「来る二十一日に、摂政殿のお出ましがあるらしい。どこででも待ち受け申して、前駆や御随身どもの髻を切って、資盛の恥をすすげ」とおっしゃった。武者たちはかしこまって承り、退出した。
摂政殿はこれを夢にもご存じなく、天皇の明年の御元服、御加冠、任官のことのお取り決めのために、しばらく宮中の直廬に滞在なさる予定で、いつものお出ましよりは装いを整えなさって、このたびは待賢門からお入りになる予定で、中御門を西へお出ましになったところ、
猪熊・堀川のあたりで、六波羅の武者どもが、甲冑に身を固めて三百余騎で待ち受け申し、摂政殿を中に取り囲み申して、前後から一度に鬨の声をどっとあげた。前駆や御随身たちが今日を晴れと着飾っていたのを、あちらに追いかけ、こちらに追いつめ、さんざんに踏みにじり、一人一人みな髻を切った。
随身十人のうち、右府生の武基も髻を切られてしまった。その中で、藤蔵人大夫高範の髻を切るときには、「これはおまえの髻と思うな、主人の髻と思え」と言い聞かせて切った。その後は御車の中へも弓の弭を突き入れなどして、簾を引きはがして落とし、御牛のむながいやしりがいを切り放ち、このようにさんざんに荒らして、勝ちどきの声をあげて六波羅へ帰り参ったので、入道は「よくやった」とおっしゃった。
それでも御車添には、因幡の先使いで、鳥羽の国久丸という男が、身分は低いけれども気のきく者で、御車を整え直し、摂政殿をお乗せ申し上げて、中御門の御所へお送り申し上げた。
束帯のお袖で涙をおさえなさりながらお帰りになる儀式のあさましさは、言葉にするのもかえって愚かなほどである。大織冠(藤原鎌足)・淡海公(藤原不比等)のことは言うまでもなく、忠仁公(藤原良房)・照宣公(藤原基経)からこのかた、摂政・関白がこのような目にお遭いになったことは、まだ聞いたことがない。これこそ平家の悪行の始まりである。
小松殿はこのことをお聞きになって、たいへん恐れ騒がれた。そのとき襲撃に向かった侍たちは、みな勘当された。
「たとえ入道がどんな無茶なことを命じられたとしても、どうして重盛に少しも知らせなかったのか。そもそも資盛がけしからん。栴檀は二葉より芳し、というではないか。もう十二、三歳になろうという者が、今は礼儀をわきまえてふるまうべきなのに、このような無礼をはたらいて入道の悪名を立てた。不孝の極み、おまえ一人のせいである」と言って、しばらく伊勢国へ追い下された。
それで、この大将(重盛)を、君も臣も感心なさったということである。
意訳
「殿下の乗合」は、清盛の孫資盛が摂政藤原基房の行列に無礼をはたらいたことから始まる事件で、物語はこれを「平家の悪行の始め」と位置づける。冒頭では、後白河院の近臣たちが出世を競って他人の死を願うさまや、院自身が清盛の過分な処遇を内心快く思っていないことが語られ、院と平家の間にくすぶる不満が、この事件のきっかけを待っていたことを示している。
事件そのものは、十三歳の少年が若い侍たちと鷹狩りの帰りに、暗がりの中で摂政の行列に行き会い、下馬の礼をとらずに通ろうとして、馬から引きずり下ろされたというものである。それに対する重盛と清盛の反応は対照的で、重盛は非は資盛にあるとして侍たちを叱るが、清盛は自らの体面を傷つけられたと怒り、重盛に相談もせずに田舎侍たちを使って、摂政の行列を襲わせる。
襲撃の場面は、前駆や随身の髻を切り、牛車の簾を引きはがし、牛の綱まで切るという、徹底した辱めとして描かれる。最後に重盛が侍たちを勘当し、資盛を伊勢に追いやったことで、「君も臣も御感ありける」と結ばれる。清盛の横暴と重盛の思慮深さを対比するこの構図は、のちの「小松教訓」などへと受け継がれ、重盛が平家の良心として描かれていく。
語釈・文法注
- 北面
- 院の御所の北面に詰めて警護にあたった武士。上北面(殿上人)と下北面(地下)があった。
- はだれ
- 雪がまだらに降り積もるさま。はらはらと。
- 松殿
- 藤原基房(1145〜1230)。忠通の子で、兄基実の死後に摂政となった。のち清盛と対立し、治承三年の政変で配流された。
- 尾籠
- 「をこ(痴)」に当てた「尾籠」を音読みした語。無礼、不作法。
- 関
- 底本は「関」と刷り、ふりがなを「とき」とする。戦いの始めや勝利のときにあげる声。鬨の声。
文法
- 「あつぱれその人の失せたらば」
- 「あつぱれ」は「あはれ」の促音化した形で、感動や願望を表す。「たらば」は完了の助動詞「たり」の未然形+接続助詞「ば」で、仮定を表す。
- 「その國はあきなん」
- 「な」は完了(強意)の助動詞「ぬ」の未然形、「ん」は推量の助動詞「む」で、きっと空くだろう、の意。
- 「下り候へ〳〵」
- くの字点は「下り候へ、下り候へ」のくり返しを表す。
- 「いらでけれども」
- 「いらつ(苛つ)」の連用形「いらで」+過去の助動詞「けれ」。いらだって急き立てたけれども、の意。
- 「自今以後、汝等よく〳〵心得べし」
- 底本はこの会話文に開きの「「」を付けず、結びにだけ「」」を付けている。底本どおりに翻刻した。
- 「殿下御出あるべかんなり」
- 「べかんなり」は「べかるなり」の撥音便で、伝聞・推定の助動詞「なり」が付いた形。お出ましがあるそうだ、の意。
- 「照宣公」
- 藤原基経の諡号は通常「昭宣公」と書くが、底本は「照宣公」と刷っている。底本どおりに翻刻した。
- 「栴檀は二葉よりかんばし」
- すぐれた人物は幼いころから並外れている、という諺。ここでは、資盛が十三歳にもなって礼儀をわきまえないことを叱る言葉として使う。
解説
殿下乗合事件は、史実では嘉応二年(1170)七月三日、法勝寺へ向かう摂政基房の一行と資盛の車が出会ったことから始まり、同年十月二十一日に、平家の武士が基房の行列を襲撃した。九条兼実の日記『玉葉』によれば、報復を命じたのは重盛自身であったとされ、清盛は当時福原にいた。物語が清盛を首謀者とし、重盛を思慮深い人物として描くのは、史実を改めて、清盛の悪と重盛の善を対照させる物語の構想によるものと考えられている。
髻(もとどり)は、髪を頭頂で束ねたもので、これを切られることは大変な恥辱であった。また、摂政・関白という天皇の代理に近い地位の人物の行列が武士に襲われたことは前代未聞で、物語が「これこそ平家の悪行の始めなれ」と述べるのは、貴族社会の秩序が武力によって踏みにじられた象徴的な事件だったからである。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、276–280頁(コマ167–169)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日