平家物語 巻第一
清水炎上の事
額打論の報復に延暦寺の衆徒が京に下り、上皇が衆徒に平家追討を命じたとの噂も流れて都は騒然となる。衆徒は興福寺の末寺の清水寺を焼き払って引き上げるが、清盛は院への疑いを深め、重盛がこれを諫める。やがて建春門院の生んだ皇子(高倉天皇)が即位し、時忠の権勢は「平関白」と呼ばれるほどになる。
- 1山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅ、、、狼狼ろう藉藉ぜきををを致致いたさささばばば手手て向向むかひひいすすすべきべきべき所所ところににに、、、心心こころ深深ぶこううう狙狙ねらふふう方方かたもももやややありありありけんけんけん、、、一一ひと言言ことももも出出いださささずずず。。。御御み門門かどかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいててて後後のちははは、、、心心こころなきなきなき草草くさ木木きまでまでまでももも、、、みなみなみな憂憂うれへへえたるたるたる色色いろにににこそこそこそあるあるあるべきべきべきににに、、、このこのこの爭爭そう鬪鬪とうのののあさましさあさましさあさましさににに、、、高高たかきききももも賤賤いやしきしきしきももも、、、肝肝きも魂魂だましいををを失失うしなつつっててて、、、四四よ方方ほうへへへみなみなみな退退たい散散さんすすす。。。
- 2同同おなじきじきじき二二に十十じゅう九九く日日にちののの午午うまののの刻刻こく許許ばかりりり、、、山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅおびたゞしうおびたゞしうおびただしゅう下下げ洛洛らくすすすととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、武武ぶ士士し、、、檢檢けん非非び違違い使使し、、、西西にし坂坂さか本本もとににに行行ゆききき向向むかつつっててて防防ふせぎぎぎけれけれけれどもどもども、、、ことことことととともももせせせずずず、、、押押おし破破やぶつつっててて亂亂らん入入にゅうすすす。。。
- 3またまたまた何何なに者者ものののの申申もうししし出出いだしししたりたりたりけるけるけるやらやらやらんんん、、、一一いち院院いん、、、山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅににに仰仰おおせせせててて、、、平平へい家家け追追つい討討とうせせせらるらるらるべしべしべしととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、軍軍ぐん兵兵びょう、、、内内だい裏裏りににに参参さんじじじててて、、、四四し方方ほうののの陣陣じん頭頭とうををを固固かためめめててて警警けい護護ごすすす。。。平平へい氏氏じののの一一いち類類るい、、、みなみなみな六六ろく波波は羅羅らへへへ馳馳はせせせ集集あつまるまるまる。。。一一いち院院いんももも急急いそぎぎぎ六六ろく波波は羅羅らへへへ御御ご幸幸こうなるなるなる。。。
- 4淸淸きよ盛盛もり公公こう、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ大大だい納納な言言ごんののの右右う大大だい將將しょうにににててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、大大おおきききににに恐恐おそれれれ騒騒さわがががれれれけりけりけり。。。小小こ松松まつ殿殿どの、、、「「「何何なにににによつよつよっててて、、、たゞたゞただ今今いまさるさるさる御御おん事事こと候候そうろうべきべきべき。。。」」」とととしづめしづめしずめ申申もうささされれれけれけれけれどもどもども、、、騒騒さわぎぎぎのゝしるのゝしるののしることことこと夥夥おびただししし。。。
- 5されどもされどもされども山山さん門門もんののの大大だい衆衆しゅ、、、六六ろく波波は羅羅らへへへははは寄寄よせせせずずずしてしてして、、、そゞろそゞろそぞろなるなるなる淸淸きよ水水みず寺寺でらにににおしおしおし寄寄よせせせててて、、、佛佛ぶつ閣閣かく僧僧そう房房ぼう、、、一一いち宇宇うももも殘殘のこさささずずず燒燒やききき拂拂はらふふう。。。これこれこれははは去去いんんんぬるぬるぬる御御ご葬葬そう送送そうののの夜夜よののの、、、會會かい稽稽けいのののをををきよめきよめきよめんんんがががためためためとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。淸淸きよ水水みず寺寺でらははは興興こう福福ぶく寺寺じののの末末まつ寺寺じたるたるたるににによつよつよってててなりなりなり。。。
- 6淸淸きよ水水みず寺寺でら燒燒やけけけたりたりたりけるけるけるあしたあしたあした、、、「「「觀觀かん音音おん火火か坑坑きょう變變へん成成じょうはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと、、、札札ふだににに書書かきききててて、、、大大だい門門もんののの前前まえにににぞぞぞ立立たてててたりたりたりけるけるける。。。次次つぎののの日日ひまたまたまた、、、「「「歷歷りやく劫劫ごう不不ふ思思し議議ぎ力力ちから及及およばばばずずず。。。」」」ととと、、、かへしかへしかへしののの札札ふだをををぞぞぞ打打うちちちたりたりたりけるけるける。。。
- 7衆衆しゅ徒徒と歸歸かえりりり上上のぼりりりけれけれければばば、、、一一いち院院いんもももいそぎいそぎいそぎ六六ろく波波は羅羅らよりよりより還還かん御御ぎょなるなるなる。。。重重しげ盛盛もりののの卿卿きょうばかりばかりばかりぞぞぞ、、、御御おん送送おくりりりにににははは参参まいららられれれけるけるける。。。父父ちちののの卿卿きょうははは参参まいららられれれずずず。。。なほなほなお用用よう心心じんののの爲爲ためかかかとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 8重重しげ盛盛もりののの卿卿きょう、、、御御おん送送おくりりりよりよりより歸歸かえららられれれたりたりたりけれけれければばば、、、父父ちちののの大大だい納納な言言ごんのののたまひたまひたまいけるけるけるははは、、、「「「さてさてさてももも一一いち院院いんののの御御ご幸幸こうこそこそこそ、、、大大おおきききにににおそれおそれおそれ覺覺おぼゆれゆれゆれ。。。かねてかねてかねてもももおぼしめしおぼしめしおぼしめしよりよりより、、、仰仰おおせせせらるゝらるゝらるる旨旨むねのののあれあれあればばばこそこそこそ、、、かうかうこうははは聞聞きこゆゆゆらめらめらめ。。。それそれそれにににももも猶猶なおうちうちうちとけとけとけ給給たまふふうまじまじまじ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、
- 9重重しげ盛盛もりののの卿卿きょう申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「このこのこの事事ことゆめ〳〵ゆめ〳〵ゆめゆめ、、、御御みけしきけしきけしきにににももも、、、御御おん言言こと葉葉ばにににももも出出いださささせせせ給給たまふふうべからべからべからずずず。。。人人ひとににに心心こころつけつけつけ顏顏がおににに、、、なかなかなかなかなかなかあしきあしきあしき御御おん事事ことなりなりなり。。。これこれこれにににつけつけつけてててももも、、、よく〳〵よく〳〵よくよく叡叡えい慮慮りょににに背背そむかかかせせせ給給たまははわででで、、、人人ひとのののためためためににに御御おんなさけなさけなさけををを施施ほどこさささせせせましましましまさまさまさばばば、、、神神しん明明みょう三三さん寶寶ぼう加加か護護ごあるあるあるべしべしべし、、、さらさらさらんんんににに取取とつつってててははは、、、御御おん身身みのののおそれおそれおそれ候候そうろうまじまじまじ。。。」」」とてとてとて立立たたたたれれれけれけれければばば、、、「「「重重しげ盛盛もりののの卿卿きょうはははゆゝしうゆゝしうゆゆしゅう、、、おほやうおほやうおおようなるなるなるものものものかなかなかな。。。」」」とととぞぞぞ、、、父父ちちののの卿卿きょうももも宣宣のたまひひいけるけるける。。。
- 10一一いち院院いん還還かん御御ぎょののの後後のち、、、御御ご前前ぜんにににうとからうとからうとからぬぬぬ近近きん習習じゅ者者しゃたちたちたち、、、あまたあまたあまた候候さぶらははわれれれけるけるけるににに、、、「「「さてさてさてももも不不ふ思思し議議ぎののの事事ことををを申申もうししし出出いだしししたるたるたるものものものかなかなかな。。。つゆつゆつゆももも思思おぼし召召めしししよらよらよらぬぬぬものものものををを。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、院院いん中中じゅうののの切切きりににに西西さい光光こう法法ほっ師師しととといふいふいうものものものありありあり。。。
- 11折折おりふしふしふし御御ご前前ぜん近近ちこううう候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「天天てんににに口口くちなしなしなし、、、人人ひとををを以以もっててていはいはいわせよせよせよととと申申もうすすす。。。平平へい家家け以以もってててののの外外ほかににに過過か分分ぶんににに候候そうろう間間あいだ、、、天天てんののの御御おん計計はからひらひらいにににややや。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。人人ひと々々びと、、、「「「このこのこの事事ことよしなしよしなしよしなし。。。壁壁かべににに耳耳みみありありあり恐恐おそろし〳〵ろし〳〵ろしおそろし。。。」」」とととぞぞぞ、、、各各おのおのさゝやきさゝやきささやき合合あははわれれれけるけるける。。。
- 12さるさるさる程程ほどにににそのそのその年年としははは諒諒りょうなりなりなりけれけれければばば、、、御御ご禊禊けい、、、大大だい嘗嘗じょう會會えももも行行おこなははわれれれずずず。。。
- 13建建けん春春しゅん門門もん、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ東東ひがしののの御御おん方方かたととと申申もうしししけるけるけるそのそのその御御おん腹腹はらににに一一いち院院いんののの宮宮みやののの、、、五五ご歳歳さいにににならならならせせせ給給たまふふうがががまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるををを、、、太太たい子子しににに立立たてててまゐらせまゐらせまいらせ給給たまふふうべしべしべしととと聞聞きこえええしししほどほどほどににに、、、同同おなじきじきじき十十じゅう二二に月月がつ二二に十十じゅう四四し日日にち、、、俄俄にはかににに親親しん王王のうののの宣宣せん旨旨じ蒙蒙こうむらららせせせたまふたまふたまう。。。あくれあくれあくればばば改改かい元元げんありありありててて、、、仁仁にん安安あんととと號號ごうすすす。。。
- 14同同おなじきじきじき年年としののの十十じゅう月月がつ八八よう日日かののの日日ひ、、、去去こ年年ぞ親親しん王王のうののの宣宣せん旨旨じ蒙蒙こうむらららせせせ給給たまひひいししし皇皇おう子子じ、、、東東とう三三さん條條じょうにににててて東東とう宮宮ぐうににに立立たたたたせせせ給給たまふふう。。。東東とう宮宮ぐうははは御御おん伯伯お父父じ六六ろく歳歳さい、、、主主しゅ上上しょうははは御御おん甥甥おい三三さん歳歳さい、、、いづれいづれいずれももも昭昭しょうににに相相あいかなはかなはかなわずずず。。。但但ただししし寛寛かん和和な二二に年年ねんににに一一いち條條じょうののの院院いん、、、七七しち歳歳さいにににててて御御ご即即そく位位いありありあり。。。三三さん條條じょうののの院院いん、、、十十じゅう一一いち歳歳さいにににててて東東とう宮宮ぐうににに立立たたたたせせせ給給たまふふう。。。先先せん例例れいなきなきなきにににしもしもしもあらあらあらずずず。。。
- 15主主しゅ上上しょうははは二二に歳歳さいにににててて御御おん讓讓ゆずりりりををを承承うけけけさせさせさせ給給たまひひいててて、、、わづかわづかわずか五五ご歳歳さいととと申申もうしししししし二二に月月がつ十十じゅう九九く日日にちににに、、、御御み位位くらいをををすべりすべりすべりててて、、、新新しん院院いんとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。未未いまだだだ御御ご元元げん服服ぶくもももなくなくなくしてしてして、、、太太だい上上じょう天天てん皇皇のうののの尊尊そん號號ごうありありあり。。。漢漢かん家家か、、、本本ほん朝朝ちょう、、、これこれこれややや始始はじめめめならならならんんん。。。
- 16仁仁にん安安あん三三さん年年ねん三三さん月月がつ二二に十十じゅう日日にちののの日日ひ、、、新新しん帝帝てい、、、大大だい極極ごく殿殿でんにににしてしてして御御ご即即そく位位いありありあり。。。このこのこの君君きみののの位位くらいににに即即つかかかせせせ給給たまひひいぬるぬるぬるははは、、、いよ〳〵いよ〳〵いよいよ平平へい家家けののの榮榮えい華華がとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 17國國こく母母も建建けん春春しゅん門門もん院院いんととと申申もうすすすははは、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの北北きたののの方方かた、、、八八はち條條じょうののの二二に位位い殿殿どのののの御御おん妹妹いもうとなりなりなり。。。またまたまた平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょうととと申申もうすすすももも、、、このこのこの女女にょう院院いんののの御御おん兄兄しょうとなるなるなる上上うえ、、、内内うちののの御御ご外外がい戚戚せきなりなりなり。。。内内ない外外げにににつけつけつけててて執執しっ權權けんののの臣臣しんとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 18そのそのその頃頃ころののの敍敍じょ位位い、、、除除じ目目もくととと申申もうすすすももも、、、ひとへひとへひとえにににこのこのこの時時とき忠忠ただののの卿卿きょうのののまゝまゝままなりなりなりけりけりけり。。。楊楊よう貴貴き妃妃ひがががさいはひさいはひさいわいしししときときとき、、、楊楊よう國國こく忠忠ちゅうががが榮榮さかえええしししががが如如ごとししし。。。世世よのののおぼえおぼえおぼえ、、、時時ときののの綺綺き羅羅らめでたかりめでたかりめでたかりききき。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こく天天てん下下かののの大大だい小小しょう事事じををを宣宣のたまひひいあはせあはせあわせられられられけれけれければばば、、、時時ときののの人人ひと、、、平平へい關關かん白白ぱくとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
現代語訳
延暦寺の衆徒は、あれほどの乱暴をされたのだから手向かいしてよいところなのに、深く心にたくらむところがあったのだろうか、一言も発しなかった。天皇がお亡くなりになった後は、心のない草木までもみな悲しみの色を見せるべきなのに、この争いのあさましさに、身分の高い者も低い者も肝をつぶして、四方へみな逃げ散った。
同じ月の二十九日の正午ごろ、延暦寺の衆徒がおびただしく京へ下ってくると聞こえたので、武士や検非違使が西坂本に向かって防いだが、衆徒はものともせず、押し破って乱入した。
また、だれが言い出したのだろうか、一院(後白河上皇)が延暦寺の衆徒に命じて平家を追討させるらしいと聞こえたので、軍兵が内裏に参上して、四方の門を固めて警護した。平家の一族はみな六波羅へ駆け集まる。一院も急いで六波羅へお出ましになった。
清盛公は、そのときはまだ大納言で右大将でいらっしゃったが、たいへん恐れて騒がれた。小松殿(重盛)が「どうして今そのようなことがありましょう」と鎮め申し上げなさったけれども、騒ぎたてることはおびただしかった。
けれども延暦寺の衆徒は、六波羅へは押し寄せずに、思いもよらない清水寺に押し寄せて、仏閣も僧房も一つ残らず焼き払った。これは先日の葬送の夜の恥をすすごうとしたのだということであった。清水寺は興福寺の末寺だからである。
清水寺が焼けた翌朝、「観音の火坑変成池の誓いはどうしたのか」と札に書いて大門の前に立てた者がいた。次の日にはまた、「歴劫不思議の観音の力も及ばなかった」と、返しの札を打ちつけた者がいた。
衆徒が山へ帰ったので、一院も急いで六波羅から御所へお帰りになった。重盛卿だけがお送りに参られた。父の清盛卿は参られなかった。やはり用心のためかと思われた。
重盛卿がお送りから帰られると、父の大納言がおっしゃるには、「それにしても一院のお出ましこそ、たいへん恐ろしく思われる。前々からお考えになって、おっしゃることがあったからこそ、あのような噂も立ったのだろう。それでもやはり気を許してはなりませんぞ」とおっしゃるので、
重盛卿が申されるには、「このことは決して、お顔色にもお言葉にもお出しになってはなりません。人に気づかせるような顔つきをなさっては、かえってよくないことです。これにつけても、よくよく院のお心に背かれずに、人のために情けをおかけになれば、神仏のご加護があるでしょう。そうなれば、御身に恐れることはございますまい」といって立たれたので、「重盛卿はたいしたもので、おおらかな者だなあ」と、父の卿もおっしゃった。
一院がお帰りになった後、御前に親しい近臣たちが大勢控えておられたところに、「それにしても不思議なことを言い出したものだ。まったく思いもよらないことなのに」とおっしゃると、院の御所の切れ者に西光法師という者がいた。
ちょうど御前近くに控えていたが、進み出て、「天に口なし、人をもって言わせよ、と申します。平家があまりにも分に過ぎておりますので、天のおはからいでしょうか」と申した。人々は「このことはよくない。壁に耳あり。恐ろしい、恐ろしい」と、めいめいささやき合われた。
そのうちに、その年は天皇の喪の年であったので、御禊も大嘗会も行われなかった。
建春門院が、そのころはまだ東の御方と申し上げていたが、そのお腹に生まれた一院の皇子で五歳になられる方がいらっしゃったのを、皇太子にお立て申し上げるらしいと聞こえていたところ、同じ年の十二月二十四日、にわかに親王の宣旨をお受けになった。年が明けると改元があって、仁安と号した。
同じ年の十月八日に、去年親王の宣旨をお受けになった皇子が、東三条殿で皇太子にお立ちになった。皇太子は叔父で六歳、天皇は甥で三歳で、どちらも世代の順にかなわない。ただし寛和二年に一条院が七歳で即位し、三条院が十一歳で皇太子にお立ちになった例がある。先例がないわけではない。
天皇(六条天皇)は二歳で御譲りをお受けになり、わずか五歳と申し上げた二月十九日に位を退いて、新院と申し上げた。まだ御元服もなさらないうちに、太上天皇の尊号を受けられた。中国にもわが国にも、これが初めてであろう。
仁安三年(1168)三月二十日、新帝(高倉天皇)が大極殿で即位なさった。この君が位におつきになったのは、いよいよ平家の栄華と思われた。
国母の建春門院と申し上げるのは、入道相国の北の方、八条の二位殿の御妹である。また平大納言時忠卿と申す人も、この女院の御兄であるうえに、天皇の外戚である。内外ともに、権勢を握る臣と見えた。
そのころの叙位・除目と申すのも、ひとえにこの時忠卿の思いどおりであった。楊貴妃が寵愛を受けたとき、楊国忠が栄えたのと同じである。世の評判も、当時の華やかさもすばらしかった。入道相国が天下の大小の事をこの人に相談なさったので、当時の人は「平関白」と申した。
意訳
額打論で恥をかかされた延暦寺の衆徒は、その場では黙っていたが、数日後に大挙して京に下る。そこに「院が衆徒に平家追討を命じた」という噂が重なり、平家一門は六波羅に集まって身構える。しかし衆徒の矛先は平家ではなく、興福寺の末寺である清水寺に向けられ、寺は焼き払われた。焼け跡に立てられた二つの札は、観音の霊験をあざける落書と、それに答えた落書で、当時の人々の皮肉な目を伝えている。
この騒ぎの中で、清盛は後白河院への疑いを深める。それに対して重盛は、疑いを顔に出せばかえって事を荒立てる、院の心に背かず人に情けをかければ神仏の加護がある、と父を諫める。のちに何度も描かれる、短気な父と思慮深い息子という対比が、ここで初めてはっきりと示される。一方、院の側では西光が「天に口なし、人を以ていはせよ」と、平家の過分を天の怒りとほのめかし、のちの鹿ケ谷の陰謀の伏線となっている。
後半は、清盛の妻時子の妹である建春門院(平滋子)の生んだ皇子が、わずか五歳の六条天皇に代わって即位し、高倉天皇となるまでを語る。天皇の母方の一族となった平家は、時忠が「平関白」と呼ばれるほどの権勢をふるう。楊貴妃の一族の楊国忠にたとえるのは、その栄華がやがて破滅を招くことへの、作者の暗示でもある。
語釈・文法注
- 會稽の恥
- 中国春秋時代、越王勾践が会稽山で呉王夫差に敗れて受けた恥を、のちに呉を滅ぼしてすすいだ故事から、以前に受けた恥や屈辱をいう。
- 觀音火坑變成池
- 『法華経』普門品の、観音の力を念じれば火の坑も池に変わる、という句。焼けた清水寺の本尊である観音の霊験をあざけった落書。
- 切者
- 主君に重用されて、権勢のある者。
- 諒闇
- 天皇が父母などの喪に服する期間。ここでは二条院の死去による。
- 建春門院
- 平滋子(1142〜1176)。時忠の妹で、清盛の妻時子の妹。後白河院の寵愛を受けて高倉天皇を産んだ。
- 昭穆
- 宗廟で祖先の位牌を並べる順序。父子の世代の順序をいう。叔父が東宮で甥が天皇という、世代が逆になっていることをいう。
文法
- 「心深う狙ふ方もやありけん」
- 「心深う」は「心深く」のウ音便。深くたくらむところがあったのだろうか、の意。
- 「歷劫不思議力及ばず」
- 「歴劫不思議」も『法華経』普門品の観音の功徳をたたえる句で、前の札に答えて、観音の力も及ばなかったのだ、と返したもの。
- 「天に口なし、人を以ていはせよ」
- 天は自分では語らず、人の口を借りて意思を表す、という諺。
- 「東宮は御伯父六歳、主上は御甥三歳」
- 高倉天皇(東宮)は後白河院の皇子で、六条天皇(主上)は後白河院の孫にあたる。年齢は当時の数え方。
解説
延暦寺衆徒による清水寺焼き討ちは、永万元年(1165)八月のことで、史実としても記録に残っている。このとき後白河院が衆徒に平家追討を命じたという噂が流れたのも事実で、院と平家の間にすでに緊張が生まれていたことを示している。
六条天皇は、仁安三年(1168)にわずか五歳(数え年)で譲位させられ、史上もっとも若い太上天皇となった。代わって即位した高倉天皇(1161〜1181)は、後白河院と建春門院の皇子で、やがて清盛の娘徳子(建礼門院)を中宮に迎える。こうして平家は、天皇の母方と妻方の両方の外戚となった。
平時忠を「平関白」と呼んだという話は、平家の権勢を誇張して伝えるものだが、時忠が高倉天皇の外戚として人事に大きな影響力を持っていたことは確かである。前の「禿童の事」の「この一門にあらざらん者は皆人非人たるべし」という言葉も、この時忠のものとして語られている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、274–276頁(コマ166–167)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日