平家物語 巻第一
額打論の事
永万元年、二条天皇は病が重くなり、わずか二歳の皇子(六条天皇)に位を譲って崩御する。その葬送の夜、延暦寺の衆徒が先例を破って興福寺より上に寺の額を打ったため、興福寺の悪僧、観音房・勢至房が延暦寺の額を切り落とし、はやし立てて引き上げる。
- 1さるさるさる程程ほどににに、、、永永えい萬萬まん元元がん年年ねんののの春春はるののの頃頃ころよりよりより、、、主主しゅ上上しょう御御ご不不ふ豫豫よののの御御おん事事ことととと聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいしししががが、、、同同おなじきじきじき夏夏なつののの初初はじめめめにににもももなりなりなりしかしかしかばばば、、、殊殊ことののの外外ほかににに重重おもらららせせせ給給たまふふう。。。これこれこれににによつよつよっててて大大おお藏藏くらののの大大たい輔輔ふ伊伊い岐岐きののの兼兼かね盛盛もりががが女女むすめののの腹腹はらににに、、、今今きん上上じょう一一いちののの宮宮みやののの、、、二二に歳歳さいにににならならならせせせ給給たまふふうがががまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるををを、、、太太たい子子しににに立立たててて参参まいらららせせせ給給たまふふうべしべしべしととと聞聞きこえええしししほどほどほどににに、、、同同おなじきじきじき六六ろく月月がつ二二に十十じゅう五五ご日日にち、、、俄俄にはかににに親親しん王王のうののの宣宣せん旨旨じ蒙蒙こうむらららせせせ給給たまふふう。。。やがてやがてやがてそのそのその夜夜よ受受じゅありありありしかしかしかばばば、、、天天てん下下か何何なにとととなうなうのう、、、あわてあわてあわてたるたるたる樣樣ようなりなりなりけりけりけり。。。
- 2そのそのその時時ときののの有有ゆう識識しょくののの人人ひと々々びと申申もうししし合合あははわれれれけるけるけるははは、、、まづまづまず本本ほん朝朝ちょうににに、、、童童どう帝帝だいののの例例れいをををたづぬるたづぬるたずぬるににに、、、淸淸せい和和わ天天てん皇皇のう九九く歳歳さいにににしてしてして、、、文文もん德德とく天天てん皇皇のうののの御御おん讓讓ゆずりりりををを受受うけけけさせさせさせ給給たまふふう。。。それそれそれはははかのかのかの周周しゅう公公こう旦旦たんののの成成せい王王おうにににかはりかはりかわり、、、南南なん面面めんにににしてしてして、、、一一いち日日じつ萬萬ばん機機きののの政政まつりごとををを治治おさめめめ給給たまひひいしししににに擬擬なずらへへえててて、、、外外がい祖祖そ忠忠ちゅう仁仁じん公公こう、、、幼幼よう主主しゅををを扶扶ふ持持じししし給給たまへへえりりり。。。これこれこれぞぞぞ攝攝せっ政政しょうののの始始はじめめめなるなるなる。。。
- 3鳥鳥と羽羽ばののの院院いん五五ご歳歳さい、、、近近この衞衞えののの院院いん三三さん歳歳さいにににててて踐踐せん祚祚そありありあり。。。彼彼かれをををこそこそこそ、、、いつしかいつしかいつしかなれなれなれととと申申もうししししししににに、、、これこれこれははは二二に歳歳さいにににならならならせせせ給給たまふふう。。。先先せん例例れいなしなしなし。。。ものものもの騒騒さわがしがしがしとととももも愚愚おろかかかなりなりなり。。。
- 4さるさるさる程程ほどににに、、、同同おなじきじきじき七七しち月月がつ二二に十十じゅう七七しち日日にち、、、上上しょう皇皇こう遂遂ついににに崩崩ほう御御ぎょなりなりなりぬぬぬ。。。御御おん歳歳とし二二に十十じゅう三三さん。。。蕾蕾つぼめめめるるる花花はなののの散散ちれれれるるるががが如如ごとししし。。。玉玉たまののの簾簾すだれ、、、錦錦にしきののの帳帳ちょうののの内内うち、、、みなみなみな御御おん涙涙なみだににに咽咽むせばばばせせせおはしますおはしますおわします。。。やがてやがてやがてそのそのその夜夜よ、、、廣廣こう隆隆りゅう寺寺じののの艮艮うしとら、、、蓮蓮れん臺臺だい野野のののの奥奥おく、、、船船ふな岡岡おか山山やまにににをさめをさめおさめ奉奉たてまつるるる。。。御御ご葬葬そう送送そうののの夜夜よ、、、延延えん曆曆りやく、、、興興こう福福ぶく兩兩りょう寺寺じののの大大だい衆衆しゅ、、、額額がく打打うち論論ろんととといふいふいう事事ことをををししし出出いだしししててて、、、互互たがいににに狼狼ろう藉藉ぜきににに及及およぶぶぶ。。。
- 5一一いっ天天てんののの君君きみ崩崩ほう御御ぎょなりなりなりててて後後のち、、、御御ご墓墓む所所しょへへへわたしわたしわたし奉奉たてまつるるる時時ときののの作作さ法法ほうははは、、、南南なん北北ぼく二二に京京きょうののの大大だい衆衆しゅ、、、悉悉ことごとくくく供供ぐ奉奉ぶしししててて、、、御御ご墓墓む所所しょのののまはりまはりまわりににに、、、わがわがわが寺寺てら々々でらののの額額がくををを打打うつつつ事事ことありありありけりけりけり。。。
- 6まづまづまず聖聖しょう武武む天天てん皇皇のうののの御御ご願願がん、、、爭爭あらそふふうべきべきべき寺寺てらなけれなけれなければばば、、、東東とう大大だい寺寺じののの額額がくををを打打うつつつ。。。次次つぎににに淡淡たん海海かい公公こうののの御御ご願願がんとてとてとて、、、興興こう福福ぶく寺寺じののの額額がくををを打打うつつつ。。。北北ほく京京きょうにににははは、、、興興こう福福ぶく寺寺じににに向向むかへへえててて、、、延延えん曆曆りやく寺寺じののの額額がくををを打打うつつつ。。。次次つぎににに天天てん武武む天天てん皇皇のうののの御御ご願願がん、、、教教きょう待待たい和和か尙尙しょう、、、智智ち證證しょう大大だい師師しののの創創そう造造ぞうとてとてとて、、、園園おん城城じょう寺寺じののの額額がくををを打打うつつつ。。。
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現代語訳
そうしているうちに、永万元年(1165)の春ごろから、天皇がご病気と聞こえていたが、同じ年の夏の初めになると、ことのほか重くおなりになった。そこで大蔵大輔伊岐兼盛の娘の腹にお生まれになった今上の第一皇子で、二歳になられる方がいらっしゃったのを、皇太子にお立てになるらしいと聞こえていたところ、同じ六月二十五日、にわかに親王の宣旨をお受けになった。そしてその夜のうちに譲位があったので、天下はなんとなく、あわただしい様子であった。
そのとき、故実に通じた人々が語り合われるには、「まずわが国で幼い天皇の例を調べると、清和天皇は九歳で文徳天皇の御譲りをお受けになった。それは、あの周公旦が成王に代わって南面して、天下の政治を執り行った例にならって、外祖父の忠仁公(藤原良房)が幼い天皇をお助け申し上げたのである。これが摂政の始まりである。
鳥羽院は五歳、近衛院は三歳で即位なさった。その時でさえ早すぎると申したのに、今度は二歳でいらっしゃる。先例がない。あわただしいという言葉では言い尽くせない」と。
そのうちに、同じ年の七月二十七日、上皇(二条院)はついにお亡くなりになった。御年二十三。つぼみの花が散ってしまうようなものである。玉の簾、錦の帳の内では、みな涙にむせんでおられた。そしてその夜、広隆寺の東北、蓮台野の奥の船岡山に葬り申し上げた。その葬送の夜、延暦寺と興福寺の両寺の衆徒が、額打論ということを起こして、互いに乱暴を働いた。
天皇が崩御されて、御墓所へお送り申し上げるときの作法は、南都と北京の二つの都の衆徒がことごとくお供して、御墓所のまわりに、それぞれ自分の寺の額を打ちつけることになっていた。
まず聖武天皇の御願寺で、ほかに争う寺もないので、東大寺の額を打つ。次に淡海公(藤原不比等)の御願寺として、興福寺の額を打つ。北京(京都)の側では、興福寺に向かい合って、延暦寺の額を打つ。次に天武天皇の御願寺で、教待和尚・智証大師が創建した寺として、園城寺の額を打つ。
ところが延暦寺の衆徒は、どう思ったのか、先例に背いて、東大寺の次、興福寺の上手に延暦寺の額を打ったので、南都の衆徒が、ああしようか、こうしようかと評議しているところに、
ここに興福寺の西金堂衆で、観音房・勢至房という、名の知られた大悪僧が二人いた。観音房は黒糸縅の腹巻に白柄の長刀を短く持ち、勢至房は萌黄縅の鎧を着て黒漆の太刀を持って、二人はさっと走り出て、延暦寺の額を切り落とし、さんざんに打ち割って、「うれしや水、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えずとうたり(うれしいことだ、鳴るのは滝の水、日が照っても絶えずに落ちる)」とはやしながら、南都の衆徒の中へ入ってしまった。
意訳
前半は、二条天皇の病と譲位、そして崩御を語る。わずか二歳の六条天皇の即位は、「もの騒がしとも愚かなり」と言われるほど異例のことであった。物語は、清和天皇以来の幼帝の例を挙げ、そのたびに外戚が政治を助けてきたことを示して、このたびの即位がいかに前例のないものであったかを強調する。
後半の額打論は、天皇の葬送という厳粛な場で起きた、寺院勢力の争いである。寺の額を墓所に打ちつける順番は、寺の格式を示すものであり、延暦寺がそれを破ったことに、興福寺の悪僧が実力で応じた。「うれしや水、鳴るは滝の水」は当時流行した今様の文句で、悪僧たちはそれを歌ってはやし立てる。葬送の夜にふさわしくない騒ぎが、次の章段の清水寺炎上へと発展していく。
語釈・文法注
- 受禪
- 先の天皇から位を譲り受けること。
文法
- 「もの騒がしとも愚かなり」
- 「…とも愚かなり」は、…という言葉では言い尽くせない、の意の慣用句。
- 「とやせまし、かうやせまし」
- 「まし」は、ためらいの気持ちを表す助動詞。ああしようか、こうしようか、の意。
- 「彼をこそ、いつしかなれと申ししに」
- 「いつしかなり」は、早すぎる、待ちかねたように急だ、の意。鳥羽・近衛の即位さえ早いと言ったのに、の意。
解説
二条天皇(1143〜1165)は後白河天皇の第一皇子で、父と対立しながら親政を行った。永万元年(1165)六月に皇子の順仁親王(六条天皇)に譲位し、翌七月に二十三歳で亡くなった。六条天皇は満年齢では一歳に満たない即位で、歴代でもっとも若い天皇である。
額打ちは、天皇の葬送のときに南都(奈良)と北嶺(比叡山)の諸寺が寺の額を立てて弔意を表した儀礼とされる。延暦寺と興福寺は、南都北嶺と並び称される二大寺院で、しばしば激しく対立した。観音房・勢至房の活躍は、後の時代に「悪僧」と呼ばれた武装した僧たちの姿をよく伝えている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、272–273頁(コマ165)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日