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平家物語 巻第一

額打論の事

永万元年、二条天皇は病が重くなり、わずか二歳の皇子(六条天皇)に位を譲って崩御する。その葬送の夜、延暦寺の衆徒が先例を破って興福寺より上に寺の額を打ったため、興福寺の悪僧、観音房・勢至房が延暦寺の額を切り落とし、はやし立てて引き上げる。

  1. 1さるさるさる程ほど程ほどほどににに、、、永えい永えいえい萬まん萬まんまん元ぐわん元ぐわんがん年ねん年ねんねんののの春はる春はるはるののの頃ころ頃ころころよりよりより、、、主しゆ主しゆしゅ上しやう上しやうしょう御ご御ごご不ふ不ふふ豫よ豫よよののの御おん御おんおん事こと事ことことととと聞きこ聞きこきこえええさせさせさせ給たま給たまたまひひいしししががが、、、同おな同おなおなじきじきじき夏なつ夏なつなつののの初はじ初はじはじめめめにににもももなりなりなりしかしかしかばばば、、、殊こと殊ことことののの外ほか外ほかほかににに重おも重おもおもらららせせせ給たま給たまたまふふう。。。これこれこれににによつよつよっててて大おほ大おほおお藏くら藏くらくらののの大たい大たいたい輔ふ輔ふふ伊い伊いい岐き岐ききののの兼かね兼かねかね盛もり盛もりもりががが女むすめ女むすめむすめののの腹はら腹はらはらににに、、、今きん今きんきん上じやう上じやうじょう一いち一いちいちののの宮みや宮みやみやののの、、、二に二にに歳さい歳さいさいにににならならならせせせ給たま給たまたまふふうがががまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるををを、、、太たい太たいたい子し子ししににに立た立たたててて参まゐ参まゐまいらららせせせ給たま給たまたまふふうべしべしべしととと聞きこ聞きこきこえええしししほどほどほどににに、、、同おな同おなおなじきじきじき六ろく六ろくろく月ぐわつ月ぐわつがつ二に二にに十じふ十じふじゅう五ご五ごご日にち日にちにち、、、俄にはか俄にはかにはかににに親しん親しんしん王わう王わうのうののの宣せん宣せんせん旨じ旨じじ蒙かうむ蒙かうむこうむらららせせせ給たま給たまたまふふう。。。やがてやがてやがてそのそのその夜よ夜よよ受じゆ受じゆじゅありありありしかしかしかばばば、、、天てん天てんてん下か下かか何なに何なになにとととなうなうのう、、、あわてあわてあわてたるたるたる樣やう樣やうようなりなりなりけりけりけり。。。
  2. 2そのそのその時とき時ときときののの有いう有いうゆう識しよく識しよくしょくののの人ひと人ひとひと々びと々びとびと申まう申まうもうししし合あ合ああははわれれれけるけるけるははは、、、まづまづまず本ほん本ほんほん朝てう朝てうちょうににに、、、童どう童どうどう帝だい帝だいだいののの例れい例れいれいをををたづぬるたづぬるたずぬるににに、、、淸せい淸せいせい和わ和わわ天てん天てんてん皇わう皇わうのう九く九くく歳さい歳さいさいにににしてしてして、、、文もん文もんもん德とく德とくとく天てん天てんてん皇わう皇わうのうののの御おん御おんおん讓ゆづ讓ゆづゆずりりりををを受う受ううけけけさせさせさせ給たま給たまたまふふう。。。それそれそれはははかのかのかの周しう周しうしゅう公こう公こうこう旦たん旦たんたんののの成せい成せいせい王わう王わうおうにににかはりかはりかわり、、、南なん南なんなん面めん面めんめんにににしてしてして、、、一いち一いちいち日じつ日じつじつ萬ばん萬ばんばん機き機ききののの政まつりごと政まつりごとまつりごとををを治をさ治をさおさめめめ給たま給たまたまひひいしししににに擬なずら擬なずらなずらへへえててて、、、外ぐわい外ぐわいがい祖そ祖そそ忠ちう忠ちうちゅう仁じん仁じんじん公こう公こうこう、、、幼えう幼えうよう主しゆ主しゆしゅををを扶ふ扶ふふ持ぢ持ぢじししし給たま給たまたまへへえりりり。。。これこれこれぞぞぞ攝せつ攝せつせっ政しやう政しやうしょうののの始はじ始はじはじめめめなるなるなる。。。
  3. 3鳥と鳥とと羽ば羽ばばののの院ゐん院ゐんいん五ご五ごご歳さい歳さいさい、、、近この近このこの衞ゑ衞ゑえののの院ゐん院ゐんいん三さん三さんさん歳さい歳さいさいにににててて踐せん踐せんせん祚そ祚そそありありあり。。。彼かれ彼かれかれをををこそこそこそ、、、いつしかいつしかいつしかなれなれなれととと申まう申まうもうししししししににに、、、これこれこれははは二に二にに歳さい歳さいさいにににならならならせせせ給たま給たまたまふふう。。。先せん先せんせん例れい例れいれいなしなしなし。。。ものものもの騒さわ騒さわさわがしがしがしとととももも愚おろ愚おろおろかかかなりなりなり。。。
  4. 4さるさるさる程ほど程ほどほどににに、、、同おな同おなおなじきじきじき七しち七しちしち月ぐわつ月ぐわつがつ二に二にに十じふ十じふじゅう七しち七しちしち日にち日にちにち、、、上しやう上しやうしょう皇くわう皇くわうこう遂つひ遂つひついににに崩ほう崩ほうほう御ぎよ御ぎよぎょなりなりなりぬぬぬ。。。御おん御おんおん歳とし歳としとし二に二にに十じふ十じふじゅう三さん三さんさん。。。蕾つぼ蕾つぼつぼめめめるるる花はな花はなはなののの散ち散ちちれれれるるるががが如ごと如ごとごとししし。。。玉たま玉たまたまののの簾すだれ簾すだれすだれ、、、錦にしき錦にしきにしきののの帳ちやう帳ちやうちょうののの内うち内うちうち、、、みなみなみな御おん御おんおん涙なみだ涙なみだなみだににに咽むせ咽むせむせばばばせせせおはしますおはしますおわします。。。やがてやがてやがてそのそのその夜よ夜よよ、、、廣くわう廣くわうこう隆りう隆りうりゅう寺じ寺じじののの艮うしとら艮うしとらうしとら、、、蓮れん蓮れんれん臺だい臺だいだい野の野ののののの奥おく奥おくおく、、、船ふな船ふなふな岡をか岡をかおか山やま山やまやまにににをさめをさめおさめ奉たてまつ奉たてまつたてまつるるる。。。御ご御ごご葬さう葬さうそう送そう送そうそうののの夜よ夜よよ、、、延えん延えんえん曆りやく曆りやくりやく、、、興こう興こうこう福ぶく福ぶくぶく兩りやう兩りやうりょう寺じ寺じじののの大だい大だいだい衆しゆ衆しゆしゅ、、、額がく額がくがく打うち打うちうち論ろん論ろんろんととといふいふいう事こと事ことことをををししし出いだ出いだいだしししててて、、、互たがひ互たがひたがいににに狼らう狼らうろう藉ぜき藉ぜきぜきににに及およ及およおよぶぶぶ。。。
  5. 5一いつ一いついっ天てん天てんてんののの君きみ君きみきみ崩ほう崩ほうほう御ぎよ御ぎよぎょなりなりなりててて後のち後のちのち、、、御ご御ごご墓む墓むむ所しよ所しよしょへへへわたしわたしわたし奉たてまつ奉たてまつたてまつるるる時とき時ときときののの作さ作ささ法ほふ法ほふほうははは、、、南なん南なんなん北ぼく北ぼくぼく二に二にに京きやう京きやうきょうののの大だい大だいだい衆しゆ衆しゆしゅ、、、悉ことごと悉ことごとことごとくくく供ぐ供ぐぐ奉ぶ奉ぶぶしししててて、、、御ご御ごご墓む墓むむ所しよ所しよしょのののまはりまはりまわりににに、、、わがわがわが寺てら寺てらてら々でら々でらでらののの額がく額がくがくををを打う打ううつつつ事こと事ことことありありありけりけりけり。。。
  6. 6まづまづまず聖しやう聖しやうしょう武む武むむ天てん天てんてん皇わう皇わうのうののの御ご御ごご願ぐわん願ぐわんがん、、、爭あらそ爭あらそあらそふふうべきべきべき寺てら寺てらてらなけれなけれなければばば、、、東とう東とうとう大だい大だいだい寺じ寺じじののの額がく額がくがくををを打う打ううつつつ。。。次つぎ次つぎつぎににに淡たん淡たんたん海かい海かいかい公こう公こうこうののの御ご御ごご願ぐわん願ぐわんがんとてとてとて、、、興こう興こうこう福ぶく福ぶくぶく寺じ寺じじののの額がく額がくがくををを打う打ううつつつ。。。北ほく北ほくほく京きやう京きやうきょうにににははは、、、興こう興こうこう福ぶく福ぶくぶく寺じ寺じじににに向むか向むかむかへへえててて、、、延えん延えんえん曆りやく曆りやくりやく寺じ寺じじののの額がく額がくがくををを打う打ううつつつ。。。次つぎ次つぎつぎににに天てん天てんてん武む武むむ天てん天てんてん皇わう皇わうのうののの御ご御ごご願ぐわん願ぐわんがん、、、教けう教けうきょう待たい待たいたい和くわ和くわか尙しやう尙しやうしょう、、、智ち智ちち證しよう證しようしょう大だい大だいだい師し師ししののの創さう創さうそう造ざう造ざうぞうとてとてとて、、、園をん園をんおん城じやう城じやうじょう寺じ寺じじののの額がく額がくがくををを打う打ううつつつ。。。
  7. 7しかるしかるしかるををを山さん山さんさん門もん門もんもんののの大だい大だいだい衆しゆ衆しゆしゅ、、、いかゞいかゞいかが思おも思おもおもひひいけんけんけん、、、先せん先せんせん例れい例れいれいををを背そむ背そむそむいいいててて、、、東とう東とうとう大だい大だいだい寺じ寺じじののの次つぎ次つぎつぎ、、、興こう興こうこう福ぶく福ぶくぶく寺じ寺じじののの上うへ上うへうえににに、、、延えん延えんえん曆りやく曆りやくりやく寺じ寺じじののの額がく額がくがくををを打う打ううつつつ間あひだ間あひだあいだ、、、南なん南なんなん都と都ととののの大だい大だいだい衆しゆ衆しゆしゅ、、、とととやややせせせましましまし、、、かうかうこうやややせせせましましましととと、、、僉せん僉せんせん議ぎ議ぎぎするするする所ところ所ところところににに、、、
  8. 8こゝこゝここににに興こう興こうこう福ぶく福ぶくぶく寺じ寺じじののの西さい西さいさい金こん金こんこん堂だう堂だうどう衆じゆ衆じゆじゅ、、、觀くわん觀くわんかん音おん音おんおん房ばう房ばうぼう、、、勢せい勢せいせい至し至しし房ばう房ばうぼうとてとてとて、、、聞きこ聞きこきこえええたるたるたる大だい大だいだい惡あく惡あくあく僧そう僧そうそう二ふた二ふたふた人り人りりありありありけりけりけり。。。觀くわん觀くわんかん音おん音おんおん房ばう房ばうぼうははは黑くろ黑くろくろ絲いと絲いといと緘をどし緘をどしおどしののの腹はら腹はらはら巻まき巻まきまきににに、、、白しら白しらしら柄え柄ええののの長なぎ長なぎなぎ刀なた刀なたなた、、、莖くき莖くきくきみじかみじかみじかににに取と取ととりりり、、、勢せい勢せいせい至し至しし房ばう房ばうぼうははは萌もよ萌もよもよ黄ぎ黄ぎぎ緘をどし緘をどしおどしののの鎧よろひ鎧よろひよろい著き著きき、、、黑こく黑こくこく漆しつ漆しつしつののの太た太たた刀ち刀ちち持も持ももつつっててて、、、二ふた二ふたふた人り人りりつとつとつと走はし走はしはしりりり出い出いいででで、、、延えん延えんえん曆りやく曆りやくりやく寺じ寺じじののの額がく額がくがくををを切き切ききつつっててて落おと落おとおとししし、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに打う打ううちちちわりわりわり、、、「「「うれしうれしうれしややや水みづ水みづみず、、、鳴な鳴ななるるるははは瀧たき瀧たきたきののの水みづ水みづみず、、、日ひ日ひひははは照て照ててるるるともともとも、、、絶た絶たたえええずずずとうとうとうたりたりたり。。。」」」とととはやしはやしはやしつゝつゝつつ、、、南なん南なんなん都と都ととののの衆しゆ衆しゆしゅ徒と徒ととののの中なか中なかなかへへへぞぞぞ入い入いいりりりにににけるけるける。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

そうしているうちに、永万元年(1165)の春ごろから、天皇がご病気と聞こえていたが、同じ年の夏の初めになると、ことのほか重くおなりになった。そこで大蔵大輔伊岐兼盛の娘の腹にお生まれになった今上の第一皇子で、二歳になられる方がいらっしゃったのを、皇太子にお立てになるらしいと聞こえていたところ、同じ六月二十五日、にわかに親王の宣旨をお受けになった。そしてその夜のうちに譲位があったので、天下はなんとなく、あわただしい様子であった。

そのとき、故実に通じた人々が語り合われるには、「まずわが国で幼い天皇の例を調べると、清和天皇は九歳で文徳天皇の御譲りをお受けになった。それは、あの周公旦が成王に代わって南面して、天下の政治を執り行った例にならって、外祖父の忠仁公(藤原良房)が幼い天皇をお助け申し上げたのである。これが摂政の始まりである。

鳥羽院は五歳、近衛院は三歳で即位なさった。その時でさえ早すぎると申したのに、今度は二歳でいらっしゃる。先例がない。あわただしいという言葉では言い尽くせない」と。

そのうちに、同じ年の七月二十七日、上皇(二条院)はついにお亡くなりになった。御年二十三。つぼみの花が散ってしまうようなものである。玉の簾、錦の帳の内では、みな涙にむせんでおられた。そしてその夜、広隆寺の東北、蓮台野の奥の船岡山に葬り申し上げた。その葬送の夜、延暦寺と興福寺の両寺の衆徒が、額打論ということを起こして、互いに乱暴を働いた。

天皇が崩御されて、御墓所へお送り申し上げるときの作法は、南都と北京の二つの都の衆徒がことごとくお供して、御墓所のまわりに、それぞれ自分の寺の額を打ちつけることになっていた。

まず聖武天皇の御願寺で、ほかに争う寺もないので、東大寺の額を打つ。次に淡海公(藤原不比等)の御願寺として、興福寺の額を打つ。北京(京都)の側では、興福寺に向かい合って、延暦寺の額を打つ。次に天武天皇の御願寺で、教待和尚・智証大師が創建した寺として、園城寺の額を打つ。

ところが延暦寺の衆徒は、どう思ったのか、先例に背いて、東大寺の次、興福寺の上手に延暦寺の額を打ったので、南都の衆徒が、ああしようか、こうしようかと評議しているところに、

ここに興福寺の西金堂衆で、観音房・勢至房という、名の知られた大悪僧が二人いた。観音房は黒糸縅の腹巻に白柄の長刀を短く持ち、勢至房は萌黄縅の鎧を着て黒漆の太刀を持って、二人はさっと走り出て、延暦寺の額を切り落とし、さんざんに打ち割って、「うれしや水、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えずとうたり(うれしいことだ、鳴るのは滝の水、日が照っても絶えずに落ちる)」とはやしながら、南都の衆徒の中へ入ってしまった。

意訳

前半は、二条天皇の病と譲位、そして崩御を語る。わずか二歳の六条天皇の即位は、「もの騒がしとも愚かなり」と言われるほど異例のことであった。物語は、清和天皇以来の幼帝の例を挙げ、そのたびに外戚が政治を助けてきたことを示して、このたびの即位がいかに前例のないものであったかを強調する。

後半の額打論は、天皇の葬送という厳粛な場で起きた、寺院勢力の争いである。寺の額を墓所に打ちつける順番は、寺の格式を示すものであり、延暦寺がそれを破ったことに、興福寺の悪僧が実力で応じた。「うれしや水、鳴るは滝の水」は当時流行した今様の文句で、悪僧たちはそれを歌ってはやし立てる。葬送の夜にふさわしくない騒ぎが、次の章段の清水寺炎上へと発展していく。

語釈・文法注

受禪
先の天皇から位を譲り受けること。

文法

「もの騒がしとも愚かなり」
「…とも愚かなり」は、…という言葉では言い尽くせない、の意の慣用句。
「とやせまし、かうやせまし」
「まし」は、ためらいの気持ちを表す助動詞。ああしようか、こうしようか、の意。
「彼をこそ、いつしかなれと申ししに」
「いつしかなり」は、早すぎる、待ちかねたように急だ、の意。鳥羽・近衛の即位さえ早いと言ったのに、の意。

解説

二条天皇(1143〜1165)は後白河天皇の第一皇子で、父と対立しながら親政を行った。永万元年(1165)六月に皇子の順仁親王(六条天皇)に譲位し、翌七月に二十三歳で亡くなった。六条天皇は満年齢では一歳に満たない即位で、歴代でもっとも若い天皇である。

額打ちは、天皇の葬送のときに南都(奈良)と北嶺(比叡山)の諸寺が寺の額を立てて弔意を表した儀礼とされる。延暦寺と興福寺は、南都北嶺と並び称される二大寺院で、しばしば激しく対立した。観音房・勢至房の活躍は、後の時代に「悪僧」と呼ばれた武装した僧たちの姿をよく伝えている。

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出典

底本
『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、272–273頁(コマ165)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日