平家物語 巻第一
二代の后の事
平家のほかに並ぶ者のない世となったが、院と内裏の対立は深まっていた。二条天皇は、故近衛天皇の后であった藤原多子の美しさを聞いて入内を求め、前例のない「二代の后」に反対する公卿や上皇の諫めも退ける。多子は嘆きながらも入内し、かつての御所で昔を思って歌を詠む。
- 1昔昔むかしよりよりより今今いまににに至至いたるるるまでまでまで、、、源源げん平平ぺい兩兩りょう氏氏し朝朝ちょう家家かににに召召めし使使つかははわれれれててて、、、王王おう化化かににに從從したがははわずずず、、、おのづからおのづからおのずから朝朝ちょう權權けんををを輕輕かろんんんずるずるずる者者ものにににははは、、、互互たがいににに戒戒いましめめめををを加加くわへへえしかしかしかばばば、、、世世よののの亂亂みだれれれはははなかりなかりなかりしししににに、、、保保ほう元元げんににに爲爲ため義義よし斬斬きららられれれ、、、平平へい治治じににに義義よし朝朝とも誅誅ちゅうせせせられられられててて後後のちははは、、、末末すえ々々ずえののの源源げん氏氏じどもどもども或或あるいははは流流ながささされれれ、、、或或あるいははは失失うしなははわれれれててて、、、今今いまははは平平へい家家けののの一一いち類類るいのみのみのみ繁繁はん昌昌じょうしししててて、、、頭頭かしらをををさしさしさし出出いだすすす者者ものなしなしなし。。。いかならいかならいかならんんん末末すえののの代代よまでまでまでももも、、、何何なに事事ごとかかかあらあらあらんんんとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 2されどもされどもされども鳥鳥と羽羽ばののの院院いん御御ご晏晏あんののの後後のちははは、、、兵兵ひょう革革かくうちうちうちつゞいつゞいつづいててて、、、死死し罪罪ざい、、、流流る刑刑けい、、、闕闕けっ官官かん、、、停停ちょう任任にん、、、常常つねににに行行おこなははわれれれててて、、、海海かい内内だいももも靜靜しずかかかならならならずずず、、、世世せ間間けんももも未未いまだだだ落落らく居居きょせせせずずず。。。
- 3なかんづくなかんづくなかんずく永永えい曆曆りやく、、、應應おう保保ほうののの頃頃ころよりよりよりしてしてして、、、院院いんののの近近きん習習じゅ者者しゃをををばばば、、、内内うちよりよりより御御おん戒戒いましめめめありありあり、、、内内うちののの近近きん習習じゅ者者しゃをををばばば、、、院院いんよりよりより戒戒いましめめめらるゝらるゝらるる間間あいだ、、、上上じょう下下げ恐恐おそれれれをのゝいをのゝいおののいててて、、、安安やすいいい心心こころもももせせせずずず。。。唯唯ただ深深しん淵淵えんににに臨臨のぞんんんででで、、、薄薄はく氷氷ひょうををを蹈蹈ふむむむににに同同おなじじじ。。。
- 4主主しゅ上上しょう、、、上上しょう皇皇こう、、、父父ふ子子しののの御御おん間間なかににに、、、何何なに事事ごとののの御御おん隔隔へだてててかかかあるあるあるなれなれなれどもどもども、、、思思おもひひいののの外外ほかのののことことことどもどもども多多おおかりかりかりけりけりけり。。。これこれこれももも世世よ澆澆ぎょうににに及及およんんんででで、、、人人ひと梟梟きょう惡惡あくををを先先さきとととするするする故故ゆえなりなりなり。。。
- 5主主しゅ上上しょう、、、院院いんののの仰仰おおせせせをををばばば、、、常常つねははは申申もうししし返返かえさささせせせおはしましおはしましおわしましけるけるける中中なかににに、、、人人ひと耳耳じ目目ぼくををを驚驚おどろかしかしかし、、、世世よ以以もっててて大大おおきききににに傾傾かたぶけけけ申申もうすすす事事ことありありありけりけりけり。。。
- 6故故こ近近この衞衞えののの院院いんののの后后きさき、、、太太たい皇皇こう太太たい后后こう宮宮ぐうととと申申もうししししししははは、、、大大おお炊炊ひののの御御み門門かどののの右右う大大だい臣臣じん公公きん能能よし公公こうののの御女御女おんむすめなりなりなり。。。先先せん帝帝ていにににおくれおくれおくれ奉奉たてまつりりり給給たまひひいててて後後のちははは、、、九九ここの重重えののの外外ほか、、、近近この衞衞え河河が原原はらののの御御ご所所しょにににぞぞぞ移移うつりりり住住すままませせせ給給たまひひいけるけるける。。。
- 7前前さきののの后后きさいののの宮宮みやにににててて、、、かすかかすかかすかなるなるなる御御おん有有あり樣樣さまにににててて渡渡わたらららせせせ給給たまひひいしししががが、、、永永えい曆曆りやくのののころほひころほひころおいははは、、、御御おん年年とし二二に十十じゅう二二に三三さんにににもももやややならならならせせせまし〳〵まし〳〵ましましけんけんけん、、、御御おんさかりさかりさかりももも少少すこししし過過すぎぎぎさせさせさせおはしますおはしますおわしますほどほどほどなりなりなり。。。
- 8されどもされどもされども天天てん下下か第第だい一一いちののの美美び人人じんののの聞聞きこえええまし〳〵まし〳〵ましましけれけれければばば、、、主主しゅ上上しょう色色いろにににのみのみのみ染染そめめめるるる御御み心心こころにににててて、、、ひそかひそかひそかににに高高こう力力りきににに詔詔しょうしししててて、、、外外がい宮宮きゅうににに引引ひき求求もとめめめしむるしむるしむるににに及及およびびびててて、、、このこのこの大大おお宮宮みやののの御御ご所所しょへへへ、、、ひそかひそかひそかににに御御ご艷艷えん書書しょありありあり。。。大大おお宮宮みやあへあへあえててて聞聞きこしししめしめしめしももも入入いれれれずずず。。。
- 9さればさればさればひたすらひたすらひたすら、、、早早はやほほほにににあらはれあらはれあらわれててて、、、后后きさき、、、御御ご入入じゅ内内だいあるあるあるべきべきべきよしよしよし、、、右右う大大だい臣臣じん家家けににに宣宣せん旨旨じををを下下くださささるるる。。。このこのこのことことこと天天てん下下かにににおいおいおいててて、、、異異ことなるなるなる詔詔しょう旨旨じなれなれなればばば、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん有有ありりりててて、、、各各おのおの意意い見見けんをををいふいふいう。。。
- 10「「「まづまづまず異異い朝朝ちょうののの先先せん蹤蹤しょうをををとぶらふとぶらふとぶらうににに、、、震震しん旦旦たんののの則則そく天天てん皇皇こう后后ごうははは唐唐とうののの太太たい宗宗そうののの后后きさき、、、高高こう宗宗そう皇皇こう帝帝ていののの繼繼けい母母ぼなりなりなり。。。太太たい宗宗そう崩崩ほう御御ぎょののの後後のち、、、高高こう宗宗そうののの后后きさきににに立立たちちち給給たまふふう事事ことありありあり。。。それそれそれははは異異い朝朝ちょうののの先先せん規規きたるたるたる上上うえ、、、別別べっ段段だんののの事事ことなりなりなり。。。しかれどもしかれどもしかれどもわがわがわが朝朝ちょうにににははは、、、神神じん武武む天天てん皇皇のうよりよりよりこのこのこの方方かた、、、人人にん皇皇おう七七しち十十じゅう餘餘よ代代だいににに至至いたるるるまでまでまで、、、未未いまだだだ二二に代代だいののの后后きさきににに立立たたたたせせせ給給たまふふう例例れいををを聞聞きかかかずずず。。。」」」ととと、、、諸諸しょ卿卿きょう一一いち同同どうににに訴訴うつたへへえ申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、
- 11上上しょう皇皇こうもももしかるしかるしかるべからべからべからざるざるざる由由よし、、、こしらへこしらへこしらえ申申もうさささせせせ給給たまへへえどもどもども、、、主主しゅ上上しょう仰仰おおせせせなりなりなりけるけるけるははは、、、「「「天天てん子子しににに父父ふ母母ぼなしなしなし。。。われわれわれ十十じゅう善善ぜんののの戒戒かいににによつよつよっててて、、、今今いま萬萬ばん乘乘じょうののの寶寶ほう位位いををを保保たもつつつ。。。これこれこれ程程ほどののの事事こと、、、などなどなどかかか叡叡えい慮慮りょにににまかせまかせまかせざるざるざるべきべきべき。。。」」」とてとてとて、、、やがてやがてやがて御御ご入入じゅ内内だいののの日日ひ、、、宣宣せん下下げせせせられられられけるけるける上上うえははは、、、上上しょう皇皇こうももも力力ちから及及およばばばせせせ給給たまははわずずず。。。
- 12大大おお宮宮みやかくかくかくととときこしめさきこしめさきこしめされれれけるけるけるよりよりより、、、御御おん涙涙なみだににに沉沉しずままませせせおはしますおはしますおわします。。。先先せん帝帝ていにににおくれおくれおくれ参参まいらららせせせにににししし久久きゅう壽壽じゅののの秋秋あきのののはじめはじめはじめ、、、同同おなじじじ野野の原原はらののの露露つゆとととももも消消きえええ、、、家家いえをををももも出出いででで、、、世世よをををももも遁遁のがれれれたりたりたりせせせばばば、、、今今いま斯斯かかるかるかる憂憂うききき耳耳みみをををばばば聞聞きかかかざらざらざらましましましとととぞぞぞ、、、御御おん歎歎なげきききありありありけるけるける。。。父父ちちののの大大おと臣臣どこしらへこしらへこしらえ申申もうさささせせせ給給たまひひいけるけるけるははは、、、「「「世世よににに從從したがははわざるざるざるををを以以もっててて、、、狂狂きょう人人じんとととすすすととと見見みえええたりたりたり。。。既既すでににに詔詔しょう命命めいををを下下くださささるるる、、、仔仔し細細さいををを申申もうすすすににに所所ところなしなしなし。。。たゞたゞただ速速すみやかかかににに参参まいらららせせせ給給たまふふうべきべきべきなりなりなり。。。もしもしもし皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうあつあつあっててて、、、君君きみももも國國こく母母もととといはいはいわれれれ、、、愚愚ぐ老老ろうももも外外がい祖祖そととと仰仰あおがががるるるべきべきべき瑞瑞ずい相相そうにににてててもももややや候候そうろうらんらんらん。。。これこれこれひとへひとへひとえににに愚愚ぐ老老ろうををを扶扶たすけけけさせさせさせましますましますまします、、、御御ご孝孝こう行行こうののの御御おん至至いたりりりなるなるなるべしべしべし。。。」」」ととと、、、やう〳〵やう〳〵ようようにににこしらへこしらへこしらえ申申もうさささせせせ給給たまへへえどもどもども、、、御御おん返返へん事事じもももなかりなかりなかりけりけりけり。。。大大おお宮宮みやそのそのその頃頃ころ、、、何何なにとととなきなきなき御御おん手手て習習ならひひいのののついでついでついでににに、、、
- 13うきうきうきふしふしふしににに沈沈しずみみみもももやらやらやらででで河河かわ竹竹たけののの世世よにににためしためしためしなきなきなき名名なをををややや流流ながさささむむん
- 14世世よにににはははいかにいかにいかにしてしてして洩洩もれれれけるけるけるやらやらやらんんん、、、あはれあはれあわれにににやさしきやさしきやさしき例例ためしにににぞぞぞ、、、人人ひと々々びと申申もうししし合合あははわれれれけるけるける。。。既既すでににに御御ご入入じゅ内内だいののの日日ひにににもももなりなりなりしかしかしかばばば、、、父父ちちののの大大おと臣臣ど、、、供供ぐ奉奉ぶののの上上かん達達だち部部め、、、出出しゅっののの儀儀ぎ式式しきなどなどなど、、、心心こころことことことににに出出いだししし立立たてててまゐらさまゐらさまいらさせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。大大おお宮宮みやものものものうきうきうき御御おん出出いで立立たちなれなれなればばば、、、とみとみとみにににももも奉奉たてまつらららずずず、、、遙遙はるかかかににに夜夜よ更更ふけけけ、、、さささ夜夜よもももなかばなかばなかばににになりなりなりててて後後のち、、、御御み車車くるまにににたすけたすけたすけ乘乘のせせせられられられさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 15御御ご入入じゅ内内だいののの後後のちははは、、、麗麗れい景景けい殿殿でんにににぞぞぞまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。さればさればさればひたすらひたすらひたすら、、、朝朝あさ政政まつりごとををを勸勸すすめめめ申申もうさささせせせ給給たまふふう御御おんさまさまさまなりなりなり。。。
- 16かのかのかの紫紫し宸宸しん殿殿でんののの皇皇こう居居きょにににははは、、、賢賢けん聖聖じょうののの障障しょうををを立立たてててられられられたりたりたり。。。伊伊い尹尹いん、、、鄭鄭てい五五ご倫倫りん、、、虞虞ぐ世世せい南南なん、、、太太たい公公こう望望ぼう、、、角角ろく里里り先先せん生生せい、、、李李り勣勣せき、、、司司し馬馬ば、、、手手て長長なが、、、足足あし長長なが、、、馬馬うま形形がたののの障障しょう子子じ、、、鬼鬼おにののの間間ま、、、李李り將將しょう軍軍ぐんががが姿姿すがたををを、、、さながらさながらさながら寫寫うつせせせるるる障障しょう子子じもももありありあり。。。尾尾お張張はりののの守守かみ小小を野野のののの道道とう風風ふうががが七七しち囘囘かい賢賢けん聖聖じょうののの障障しょう子子じととと書書かけけけるるるももも、、、理理ことわりとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 17かのかのかの淸淸せい涼涼りょう殿殿でんののの畫畫が圖圖とののの御御おん障障しょう子子じにににははは、、、むかしむかしむかし金金かなががが書書かきききたりたりたりししし、、、遠遠とお山山やまののの有有あり明明あけののの月月つきもももありありありとととかやかやかや。。。故故こ院院いんののの未未いまだだだ幼幼よう主主しゅにににてててましましましませませませしししそのそのそのかみかみかみ、、、何何なにとととなきなきなき御御おん手手てまさぐりまさぐりまさぐりのののついでついでついでににに、、、かきかきかきくもらかくもらかくもらかさせさせさせ給給たまひひいたりたりたりしししががが、、、ありありありしししながらながらながらににに、、、少少すこしししもももたがはたがはたがわせせせ給給たまははわぬぬぬををを御御ご覽覽らんじじじててて、、、先先せん帝帝ていののの昔昔むかしもももややや、、、御御おん戀戀こいしうしうしゅう思思おぼし召召めささされれれけんけんけん、、、
- 18思思おもひひいきききややや憂憂うききき身身みながらながらながらにににめぐりめぐりめぐり來來きててて同同おなじじじ雲雲くも居居いののの月月つきををを見見みむむむとととははは
- 19そのそのその間間あいだののの御御おんなからひなからひなからい、、、いひいひいい知知しらららずずず、、、あはれあはれあわれにににやさしきやさしきやさしき御御おん事事ことなりなりなり。。。
現代語訳
昔から今に至るまで、源平の両氏は朝廷に召し使われて、天皇の徳化に従わず、ともすれば朝廷の権威を軽んじる者には、互いに戒めを加えてきたので、世の乱れはなかったのに、保元の乱で為義が斬られ、平治の乱で義朝が誅されてからは、末流の源氏どもも、あるいは流され、あるいは殺されて、今は平家の一族だけが栄えて、頭をもたげる者はいない。どれほど後の世までも、何事が起ころうかと思われた。
けれども鳥羽院がお亡くなりになってからは、戦乱が続いて、死罪・流罪・解官・停任が絶えず行われ、国内も穏やかでなく、世の中もまだ落ち着かない。
とりわけ永暦・応保のころからは、院の近臣を内裏(天皇)のほうからお咎めになり、内裏の近臣を院のほうからお咎めになるので、身分の上下を問わず人々は恐れおののいて、安らかな心もない。ちょうど深い淵に臨み、薄い氷を踏むようであった。
天皇と上皇は父子の御間柄であるから、何の隔てがあろうはずもないのに、思いのほかのことが多かった。これも世が末世に及んで、人が悪逆を第一とするからである。
天皇は、院の仰せをいつも拒み申しておられたが、その中でも、人々の耳目を驚かせ、世間がこぞって非難申し上げたことがあった。
故近衛院の后で、太皇太后宮と申し上げた方は、大炊御門右大臣公能公の御娘である。先帝に先立たれなさってからは、宮中を出て、近衛河原の御所に移り住んでおられた。
先の后の宮として、ひっそりとお暮らしであったが、永暦のころには、御年二十二、三にもおなりであっただろうか、女盛りも少し過ぎておられるころであった。
それでも天下第一の美人という評判がおありだったので、天皇は色好みのお心から、ひそかに高力士に命じて宮外の美女を探させた(唐の玄宗の故事のような)ことに及んで、この大宮の御所へひそかに恋文をお送りになった。大宮はまったくお聞き入れにならない。
そこで天皇は、とうとう表立って、后として入内するようにと、右大臣家に宣旨をお下しになった。これは天下にとって異例の勅命であったので、公卿たちの会議があって、それぞれ意見を述べた。
「まず外国の先例を調べると、中国の則天皇后は唐の太宗の后で、高宗皇帝の継母である。太宗の崩御の後、高宗の后にお立ちになったことがある。しかしそれは外国の先例であるうえに、特別な事情によることである。わが国では、神武天皇からこのかた、人皇七十余代に至るまで、二代の天皇の后にお立ちになった例はまだ聞いたことがない」と、諸卿が一同に訴え申し上げたので、
上皇もそれはよくないことだと、なだめ申し上げなさったが、天皇がおっしゃるには、「天子に父母はない。私は前世で十善を守った功徳によって、今、天子の位を保っている。これくらいのことを、どうして思いどおりにできないことがあろう」といって、やがて入内の日を宣下なさったので、上皇もどうすることもおできにならない。
大宮はこれをお聞きになってから、涙に沈んでおられた。「先帝に先立たれ申し上げた久寿の秋の初めに、同じ野辺の露と消え、出家して世を逃れていたなら、今このようなつらい話を聞かずにすんだのに」と、お嘆きになった。父の大臣がなだめ申し上げなさるには、「世に従わない者を狂人とすると書物にも見えている。すでに勅命が下ったのだから、とやかく申し上げるすべはない。ただ早く参内なさるべきだ。もし皇子がお生まれになれば、あなたも国母と呼ばれ、私も外祖父と仰がれる、めでたいしるしかもしれません。これはひとえに年老いた私を助けてくださる、孝行の極みでありましょう」と、いろいろになだめ申し上げなさったけれども、お返事もなかった。大宮はそのころ、何ということもない手習いのついでに、
つらいことに身を沈めて死んでしまうこともできず、川竹が流れるように、世に例のない(二代の后という)浮き名を流すのだろうか。
どのようにして世間に漏れたのだろうか、しみじみと心を打つ優雅な例として、人々は語り合われた。いよいよ入内の日になったので、父の大臣は、お供の公卿や出車の儀式などを、心をこめて整えて送り出し申し上げなさった。大宮は気の進まないお出かけなので、すぐにはお乗りにならず、はるかに夜が更けて、真夜中になってから、お車に助け乗せられなさった。
入内の後は、麗景殿においでになった。そしてひたすら、天皇に朝の政務を勧め申し上げなさるご様子であった。
あの紫宸殿の御座所には、賢聖の障子が立てられていた。伊尹・鄭五倫・虞世南・太公望・角里先生・李勣・司馬など、また手長・足長、馬形の障子、鬼の間、李将軍の姿をそのまま写した障子もある。尾張守小野道風が「七回賢聖の障子」と書いたのも、もっともだと思われた。
あの清涼殿の絵の障子には、昔、巨勢金岡が描いた、遠い山にかかる有明の月の絵もあったとか。故近衛院がまだ幼い天皇でいらっしゃったころ、何ということもないお手遊びのついでに、その月を墨でくもらせなさったのが、昔のままに少しも変わっていないのをご覧になって、先帝の昔のことも恋しく思われたのだろうか、
思ってもみなかったことよ。つらい身のまま生きながらえて、再びこの宮中に戻ってきて、昔と同じ雲居の月を見ることになろうとは。
その間の(新しい帝との)ご関係は、言いようもなく、しみじみと心を打つ、優雅なことであった。
意訳
前半は、保元・平治の乱を経て平家だけが栄える世になったものの、後白河上皇と二条天皇の父子が、互いの近臣を咎め合うほどに対立していたことを語る。「深淵に臨んで、薄氷を蹈むに同じ」という『詩経』の句で、人々が緊張の中で暮らしていたことが示される。この対立が、のちに清盛と後白河院の争いへと形を変えていく。
中心となるのは、二条天皇が、亡き近衛天皇の后であった藤原多子を后に迎えた事件である。「天子に父母なし」と言い放ち、前例のない「二代の后」を強行する天皇の姿は、物語の中で、驕りや非道の一つとして描かれている。一方、意に反して再び宮中に入る多子は、「うきふしに沈みもやらで」と、死ぬこともできずに浮き名を流す自分を嘆く。
結びの「思ひきや」の歌は、かつて近衛天皇が幼いころにいたずらで墨を塗った有明の月の絵が、そのまま残っているのを見て詠んだものである。同じ宮中の同じ月を、亡き夫の後に別の帝の后として見ることになった運命への感慨が、静かに表されている。平家の興隆を語る巻第一の中で、この章段は、宮廷の女性の哀しみを描く挿話となっている。
語釈・文法注
- 晏駕
- 天子の死去をいう語。崩御。鳥羽法皇は保元元年(1156)七月に亡くなり、その直後に保元の乱が起こった。
- 澆季
- 人情が薄く、道徳の衰えた末の世。末世。
- 高力士
- 唐の玄宗に仕えた宦官。玄宗の命で天下の美女を探し、楊貴妃を見いだしたと『長恨歌』などに伝える。
- 僉議
- 大勢で評議すること。
- 十善の戒功
- 前世で十善戒(殺生・偸盗などをしない十の戒め)を守った功徳。その報いで天子に生まれるとされた。
- 出車
- 儀式のとき、女房たちが乗って行列に加わる牛車。
- 賢聖の障子
- 紫宸殿の母屋と北廂の間に立てた障子。中国の賢臣三十二人の像を描いた。
- 金岡
- 巨勢金岡。平安前期の宮廷画家。大和絵の祖とされる。
文法
- 「頭をさし出す者なし」
- あえて平家に対抗して頭をもたげる者はいない、の意。
- 「安い心もせず」
- 「安き心」のイ音便。安らかな気持ちもしない、の意。
- 「何事の御隔てかあるなれども」
- 「か…なれ」は、何の隔てがあろうか(ないはずだ)という反語を含む。父子だから隔てなどないはずなのに、の意。
- 「早ほにあらはれて」
- 「ほに出づ」(穂に出る)と同じく、隠していたことが表に出る、の意。表立って、の意。
- 「聞かざらましとぞ」
- 「…せば…まし」の反実仮想。出家していたなら、こんなつらい話は聞かなかっただろうに、の意。
- 「憂き身ながらにめぐり來て」
- 「めぐり」は、月がめぐる意と、再び宮中に戻ってくる意を重ねる。
和歌
うきふしに沈みもやらで河竹の世にためしなき名をや流さむ
- 詠者
- 太皇太后藤原多子
- 状況
- 二条天皇から入内を命じられ、父にも説得された多子が、手習いのついでに書いた歌。
修辞
- 掛詞
- 「ふし」に「憂き節(つらいこと)」と竹の「節」を、「流さむ」に「名を流す」と竹が「流れる」を掛ける。
- 縁語
- 「ふし」「沈み」「河竹」「流さ」が縁語。「河竹の」は「世(節と節の間の意の節)」を導く。
思ひきや憂き身ながらにめぐり來て同じ雲居の月を見むとは
- 詠者
- 太皇太后藤原多子
- 状況
- 再び入内した多子が、清涼殿の障子の有明の月の絵に、亡き近衛天皇が幼いころに墨を塗った跡がそのまま残っているのを見て詠んだ歌。
修辞
- 倒置
- 「思ひきや」(思っただろうか、いや思わなかった)を初句に置き、驚きを強める。
- 掛詞
- 「めぐり」に月がめぐる意と、自分が宮中に戻ってくる意を、「雲居」に空と宮中を重ねる。
解説
藤原多子(1140〜1201)は、徳大寺公能の娘で、藤原頼長の養女として近衛天皇の皇后となった。近衛天皇が久寿二年(1155)に亡くなった後、永暦元年(1160)に二条天皇の后として再び入内した。一人の女性が二人の天皇の后となったことから「二代の后」と呼ばれる。
後白河上皇と二条天皇の対立は史実で、上皇の院政に対して、天皇は親政を志し、両者の近臣が争った。二条天皇が多子の入内を強行したのも、上皇に対抗して、近衛天皇の后という権威ある存在を自分の側に迎えようとしたためとも考えられている。
多子の兄が、のちに大将の座をめぐって物語に登場する徳大寺実定である。「賢聖の障子」は、実際に紫宸殿に立てられていた障子で、小野道風が銘を書いたと伝えられる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、269–272頁(コマ163–165)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日