平家物語 巻第一
わが身の栄華の事
清盛の栄華は一門にも及び、重盛・宗盛の兄弟が左右の大将に並ぶという、摂関家にしか例のない栄誉を得る。八人の娘もそれぞれ幸いを得て、徳子は高倉天皇の后となって安徳天皇を産み、建礼門院と呼ばれた。平家の知行国は日本の半ばを超え、その富は内裏や院の御所にもまさるほどであった。
- 1わがわがわが身身みののの榮榮えい華華がををを極極きわむるむるむるのみのみのみならならならずずず、、、一一いち門門もんともともともににに繁繁はん昌昌じょうしししててて、、、嫡嫡ちゃく子子し重重しげ盛盛もり内内ない大大だい臣臣じんののの左左さ大大だい將將しょう、、、次次じ男男なん宗宗むね盛盛もり中中ちゅう納納な言言ごんののの右右う大大だい將將しょう、、、三三さん男男なん知知とも盛盛もり三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、嫡嫡ちゃく孫孫そん維維これ盛盛もり四四し位位いののの少少しょう將將しょう、、、すべてすべてすべて一一いち門門もんののの公公く卿卿ぎょう十十じゅう六六ろく人人にん、、、殿殿てん上上じょう人人びと三三さん十十じゅう餘餘よ人人にん、、、諸諸しょ國國こくののの受受じゅ領領りょう、、、衞衞え府府ふ、、、諸諸しょ司司し、、、都都つ合合ごう六六ろく十十じゅう餘餘よ人人にんなりなりなり。。。世世よにににはははまたまたまた人人ひとなくなくなくぞぞぞ見見みえええられられられけるけるける。。。
- 2むかしむかしむかし奈奈な良良らののの御御み門門かどののの御御おん時時とき、、、神神じん龜龜き五五ご年年ねん、、、朝朝ちょう家家かににに中中ちゅう衞衞えののの大大だい將將しょうををを始始はじめめめ置置おかかかるるる。。。大大だい同同どう四四し年年ねんににに中中ちゅう衞衞えををを近近こん衞衞えととと改改あらためめめられられられしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、兄兄きょう弟弟だい左左さ右右ゆうににに相相あいならぶならぶならぶことことこと、、、僅僅わずかににに三三さん四四し個個か度度どなりなりなり。。。
- 3文文もん德德とく天天てん皇皇のうののの御御おん時時ときははは左左ひだりににに良良よし房房ふさ、、、右右う大大だい臣臣じんののの左左さ大大だい將將しょう、、、右右みぎににに良良よし相相すけ、、、大大だい納納な言言ごんののの右右う大大だい將將しょう、、、これこれこれははは閑閑かん院院いんののの左左さ大大だい臣臣じん冬冬ふゆ嗣嗣つぎののの御御おん子子こなりなりなり。。。
- 4朱朱しゅ雀雀じゃく院院いんののの御御ぎょ宇宇うにににははは左左ひだりににに實實さね賴賴より小小を野野のののの宮宮みや殿殿どの、、、右右みぎににに師師もろ輔輔すけ九九く條條じょう殿殿どの、、、貞貞てい信信しん公公こうののの御御おん子子こなりなりなり。。。
- 5後後ご冷冷れい泉泉ぜい院院いんののの御御おん時時ときははは左左ひだりににに教教のり通通みち大大おお二二に條條じょう殿殿どの、、、右右みぎににに賴賴より宗宗むね堀堀ほり河河かわ殿殿どの、、、御御み堂堂どうののの關關かん白白ぱくののの御御おん子子こなりなりなり。。。
- 6二二に條條じょうののの院院いんののの御御ぎょ宇宇うにににははは、、、左左ひだりににに基基もと房房ふさ松松まつ殿殿どの、、、右右みぎににに兼兼かね實實ざね月月つきののの輪輪わ殿殿どの、、、法法ほっ性性しょう寺寺じ殿殿どのののの御御おん子子こなりなりなり。。。
- 7これこれこれみなみなみな、、、攝攝しょうののの臣臣しんののの御御ご子子し息息そく、、、凡凡ぼん人人にんににに取取とりりりてててはははそのそのその例例れいなしなしなし。。。殿殿てん上上じょうののの交交まじはりはりわりをををだにだにだに嫌嫌きらははわれれれししし人人ひとののの子子し孫孫そんにににててて、、、禁禁きん、、、雜雜ざっ袍袍ぽうをををゆりゆりゆり、、、綾綾りょう羅羅ら錦錦きん繡繡しゅうををを身身みにににまとひまとひまとい、、、大大だい臣臣じんののの大大だい將將しょうににになつなつなっててて、、、兄兄きょう弟弟だい左左さ右右ゆうににに相相あいならぶならぶならぶことことこと末末まつ代代だいとととはははいひいひいいながらながらながら、、、不不ふ思思し議議ぎなりなりなりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
- 8そのそのその外外ほか、、、御女御女おんむすめ八八はち人人にんおはしおはしおわしききき。。。皆皆みなとり〴〵とり〴〵とりどりににに幸幸さいわひひい給給たまへへえりりり。。。
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- 11櫻櫻さくらははは咲咲さいいいててて七七しち箇箇か日日にちににに散散ちるるるををを、、、名名な殘殘ごりををを惜惜おしみしみしみ、、、天天あま照照てる大大おお神神かみににに祈祈いのりりり申申もうささされれれけれけれければばばにににややや、、、三三さん七七しち日日にちまでまでまで名名な殘殘ごりありありありけりけりけり。。。君君きみももも賢賢けん王王おうにににてててましましましませませませばばば、、、神神かみももも神神しん德德とくををを輝輝かかやかしかしかし、、、花花はなももも心心こころありありありけれけれければばば、、、二十日二十日はつかののの齡齡よわいををを保保たもちちちけりけりけり。。。
- 12一一ひと人人りははは后后きさきににに立立たたたたせせせ給給たまふふう。。。二二に十十じゅう二二ににににててて皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうありありありててて、、、皇皇こう太太たい子子しににに立立たちちち、、、位位くらいににに即即つかかかせせせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、院院いん號號ごう蒙蒙こうむらららせせせ給給たまひひいててて、、、建建けん禮禮れい門門もんとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの御女御女おんむすめなるなるなる上上うえ、、、天天てん下下かののの國國こく母母もにににてててましましましませませませばばば、、、とかうとかうとこう申申もうすすすににに及及およばばばれれれずずず。。。
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現代語訳
清盛は自身が栄華を極めただけでなく、一門もそろって栄え、嫡子の重盛は内大臣で左大将、次男の宗盛は中納言で右大将、三男の知盛は三位中将、嫡孫の維盛は四位少将というぐあいで、一門の公卿は合わせて十六人、殿上人は三十余人、諸国の受領・衛府・諸司の役人は合わせて六十余人であった。世の中にはほかに人がいないかのように見えた。
昔、奈良の帝(聖武天皇)の御代、神亀五年(728)に、朝廷に中衛の大将が初めて置かれた。大同四年(809)に中衛を近衛と改められてからこのかた、兄弟が左右の大将に並んだことは、わずかに三、四度である。
文徳天皇の御代には、左に良房が右大臣で左大将、右に良相が大納言で右大将となった。これは閑院の左大臣冬嗣の御子たちである。
朱雀院の御代には、左に実頼(小野宮殿)、右に師輔(九条殿)で、貞信公(忠平)の御子たちである。
後冷泉院の御代には、左に教通(大二条殿)、右に頼宗(堀河殿)で、御堂関白(道長)の御子たちである。
二条院の御代には、左に基房(松殿)、右に兼実(月の輪殿)で、法性寺殿(忠通)の御子たちである。
これはみな摂政・関白の家の御子息で、普通の家柄の人では例がない。殿上の交わりさえ嫌われた人の子孫でありながら、禁色や雑袍を許され、綾や薄絹、錦や刺繍の衣を身にまとい、大臣で大将となって、兄弟が左右に並ぶことは、末の世とはいいながら、不思議なことであった。
そのほかに、清盛には御娘が八人いらっしゃった。みなそれぞれに幸せをお得になった。
一人は桜町中納言重教卿の北の方になられるはずであったが、八歳のとき婚約だけで、平治の乱の後に約束をとり消されて、花山院の左大臣殿の御台盤所におなりになり、若君たちが大勢いらっしゃった。
そもそも、この重教卿を桜町中納言と申したのは、たいそう風流を好まれる人で、ふだんから吉野の山を恋い慕いながら、町に桜を植え並べ、その中に家を建てて住まわれたので、毎年春が来るたびに、見る人が「桜町」と申したのである。
桜は咲いて七日で散るものだが、名残を惜しんで、天照大神にお祈りなさったからであろうか、三七日(二十一日)まで散らずに残った。君も賢王でいらっしゃるので、神も神徳を輝かせ、花も心があったので、二十日の命を保ったのである。
一人は后にお立ちになった。二十二歳で皇子がご誕生になり、その皇子が皇太子に立ち、さらに位におつきになったので、院号をお受けになって、建礼門院と申し上げた。入道相国の御娘であるうえに、天下の国母でいらっしゃるのだから、とやかく申し上げるまでもない。
一人は六条の摂政殿(基実)の北の政所におなりになった。この方は高倉院がご在位のとき、天皇の母代わりということで、准三后の宣旨をお受けになり、白河殿と呼ばれて、重んじられる方でいらっしゃった。
一人は普賢寺殿(基通)の北の政所におなりになった。一人は冷泉大納言隆房卿の北の方、一人は七条修理大夫信隆卿に連れ添われた。
また安芸国厳島の内侍の腹に生まれた一人は、後白河法皇のもとに参られて、まったく女御のようでいらっしゃった。
そのほか、九条院の雑仕であった常盤の腹に生まれた一人は、花山院殿の上臈女房で、「臈の御方」と申した。
日本秋津島はわずかに六十六か国であるのに、平家の知行国は三十余か国で、すでに国の半分を超えていた。そのほか荘園や田畑は、どれほどあるか数もわからない。
華やかな衣装が満ちあふれて、邸の中は花が咲いたようである。車や騎馬が群がり集まって、門前は市のようなにぎわいである。揚州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦など、あらゆる財宝が一つとして欠けているものはない。歌や舞のための堂や楼閣、魚や竜、雀や馬の形の遊び道具など、おそらく内裏も上皇の御所も、これにはまさらないだろうと思われた。
意訳
前の章段が清盛個人の権勢を描いたのに対して、この章段は「わが身の栄華を極むるのみならず」と、一門全体の繁栄を描く。その頂点として示されるのが、重盛と宗盛の兄弟が左右の近衛大将に並んだことである。物語はわざわざ過去の例を四つ挙げ、それがみな藤原氏の摂関家の兄弟であったことを確かめたうえで、「殿上の交はりをだに嫌はれし人の子孫」がそれに並んだのは「不思議」だと結ぶ。祖父忠盛の闇討ちの話を思い起こさせる言い方で、平家の出世がいかに破格であったかを強調している。
中ほどでは、清盛の八人の娘がそれぞれ摂関家や公卿、法皇のもとに嫁いだことが並べられる。とくに徳子(建礼門院)が高倉天皇の后となり、のちの安徳天皇を産んで「国母」となったことは、平家が天皇の外戚という、かつて藤原氏が握った地位に立ったことを意味する。桜町中納言の桜の逸話は、その間にはさまれた優雅な挿話で、清盛の娘の婚約者だった人の風流を伝えている。
最後は、全国六十六か国のうち三十余か国を知行するという、経済的な繁栄の描写で締めくくられる。中国の名産を並べた対句や、「門前市をなす」「堂上花の如し」といった漢文調の誇張は、栄華の絶頂を華やかに印象づける。しかし読者は、冒頭の「盛者必衰の理」を知っている。この満ち足りた描写は、そのまま、のちの没落の深さを測る物差しにもなっている。
語釈・文法注
- 攝籙
- 摂政・関白。また、その職につく家柄(摂関家)。
- 禁色
- 天皇や皇族などのほかは着用を禁じられた色(深紫・深紅など)の衣服。特に許された者だけが着ることができた。
- 重教
- 底本の表記。藤原成範(しげのり、1135〜1187)のこと。藤原通憲(信西)の子で、桜を愛したので桜町中納言と呼ばれた。
- 御臺盤所
- 大臣・大将などの妻の敬称。
- 建禮門院
- 平徳子(1155〜1213)。清盛の娘で、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだ。壇の浦で入水したが助けられ、のち出家して大原の寂光院に住んだ。
- 北の政所
- 摂政・関白の正妻の敬称。
- 准三后
- 太皇太后・皇太后・皇后の三后に準じる待遇。また、その待遇を受けた人。
- 内侍
- ここでは、厳島神社に仕えた巫女。
- 常盤
- 常盤御前。九条院(近衛天皇の皇后呈子)の雑仕女で、源義朝との間に今若・乙若・牛若(義経)を産んだ。平治の乱の後、清盛に仕えたとされる。
- 知行
- 国の支配権を与えられて、その収益を得ること。知行国は、知行国主が国守を推薦し、国の収入を得た。
- 魚龍爵馬
- 魚・竜・雀・馬の形をした、また、それらを使った見世物や遊び道具。豪奢な遊びのたとえ。
文法
- 「世にはまた人なくぞ見えられける」
- 平家のほかに人がいないかのように見えた、の意。係助詞「ぞ」を受けて、結びが過去の助動詞「けり」の連体形「ける」になる。
- 「おはすべかりしが」
- 「べかり」は推量の助動詞「べし」の連用形、「し」は過去の助動詞「き」の連体形。北の方になられるはずであったが、の意。
- 「申されければにや」
- 「にや」の後に「ありけむ」などが省略された形。お祈りなさったからであろうか、の意。
- 「ひとへに女御のやうでぞましましける」
- 底本は前の行の末の「まし」に続けて次の行の頭に「ましける」と刷り、くの字点を使わない。ここでは底本どおり「ましましける」と翻刻した。
- 「これには過ぎじとぞ見えし」
- 「じ」は打消推量の助動詞。これにはまさらないだろう、の意。
解説
史実では、重盛が左大将、宗盛が右大将に並んだのは治承元年(1177)正月のことである。本文が「嫡孫維盛四位の少將」「すべて一門の公卿十六人、殿上人三十餘人」というのも、このころの平家一門の官位の盛りを伝えている。
清盛の娘たちの嫁ぎ先は、摂関家の藤原基実・基通父子、花山院兼雅、冷泉隆房、七条信隆、後白河法皇と、朝廷の中枢に網を張るように広がっている。とくに基実に嫁いだ盛子(白河殿)は、夫の死後に摂関家の膨大な荘園を事実上相続し、平家の経済基盤の一つとなった。
平家の知行国が三十余か国に及んだというのは誇張を含むが、治承三年(1179)の政変の後には、平家一門の知行国は実際に三十か国を超えたといわれる。日宋貿易による富とあわせて、平家の財力は朝廷や院をしのぐほどであった。この章段の結びの華やかな描写は、次の「妓王が事」から始まる清盛の横暴の物語へとつながっていく。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、255–257頁(コマ156–157)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日