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平家物語 巻第一

禿童の事

仁安三年、病を得た清盛は出家して浄海と名のるが、出家後も栄華は衰えず、平時忠は「この一門にあらざらん者は皆人非人たるべし」と言い放つ。清盛は髪をおかっぱにした赤い直垂の少年三百人を都に放ち、平家の悪口を言う者を捕らえさせたので、人々は口をつぐんだ。

  1. 1かくてかくてかくて淸きよ淸きよきよ盛もり盛もりもり公こう公こうこう、、、仁にん仁にんにん安あん安あんあん三さん三さんさん年ねん年ねんねん十じふ十じふじゅう一いち一いちいち月ぐわつ月ぐわつがつ十じふ十じふじゅう一いち一いちいち日にち日にちにち、、、年とし年としとし五ご五ごご十じふ十じふじゅう一いち一いちいちにににててて病やまひ病やまひやまいにににおかさおかさおかされれれ、、、存ぞん存ぞんぞん命めい命めいめいののの爲ため爲ためためにににとてとてとて、、、すなはちすなはちすなわち出しゆつ出しゆつしゅっ家け家けけ入にふ入にふにゅう道だう道だうどうすすす、、、法ほふ法ほふほう名みやう名みやうみょうをををばばば淨じやう淨じやうじょうとととこそこそこそつきつきつき給たま給たまたまへへえ。。。そのそのその故ゆゑ故ゆゑゆえにににややや、、、宿しゆく宿しゆくしゅく病びやう病びやうびょうたちたちたちどころどころどころににに癒い癒いいえええててて天てん天てんてん命めい命めいめいををを全まつた全まつたまっとうううすすす。。。
  2. 2出しゆつ出しゆつしゅっ家け家けけののの後のち後のちのちももも、、、榮えい榮えいえい耀えう耀えうようはははなほなほなお盡つ盡つつきききずずずとととぞぞぞ見み見みみえええししし。。。おのづからおのづからおのずから人ひと人ひとひとののの慕した慕したしたひひいつきつきつき奉たてまつ奉たてまつたてまつるるる事こと事ことことははは、、、吹ふ吹ふふくくく風かぜ風かぜかぜののの草さう草さうそう木もく木もくもくををを靡なび靡なびなびかすかすかす如ごと如ごとごとくくく、、、世よ世よよののの仰あふ仰あふあおげげげるるる事こと事ことことももも、、、降ふ降ふふるるる雨あめ雨あめあめののの國こく國こくこく土ど土どどををを濕うる濕うるうるほすほすおすににに同おな同おなおなじじじ。。。
  3. 3六ろく六ろくろく波は波はは羅ら羅らら殿どの殿どのどのののの御ご御ごご一いつ一いついっ家か家かかののの君きん君きんきん達だち達だちだちとととだにだにだにいへいへいえばばば、、、華くわ華くわかももも英えい英えいえい雄いう雄いうゆうももも、、、誰たれ誰たれたれ肩かた肩かたかたをををならべならべならべ、、、面おもて面おもておもてををを向むか向むかむかふふう者もの者ものものなしなしなし。。。
  4. 4又また又またまた入にふ入にふにゅう道だう道だうどう相しやう相しやうしょうののの小こ小ここ舅じうと舅じうとじゅうと、、、平へい平へいへい大だい大だいだい納な納なな言ごん言ごんごん時とき時ときときののの卿きやう卿きやうきょうののの宣のたま宣のたまのたまひひいけるけるけるははは、、、「「「此こ此ここののの一いち一いちいち門もん門もんもんにににあらあらあらざらざらざらんんん者もの者ものものははは、、、皆みな皆みなみな人にん人にんにん非ぴ非ぴぴたるたるたるべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞ宣のたま宣のたまのたまひひいけるけるける。。。さればさればさればいかなるいかなるいかなる人ひと人ひとひとももも、、、このこのこの一いち一いちいち門もん門もんもんにににむすぼれむすぼれむすぼれんんんとととぞぞぞしししけるけるける。。。
  5. 5烏ゑ烏ゑえ帽ぼ帽ぼぼ子し子ししのののためためためやうやうようよりよりより始はじ始はじはじめめめててて、、、衣え衣ええのののかきかきかきやうやうようににに至いた至いたいたるるるまでまでまで、、、何なに何なになに事ごと事ごとごとももも六ろく六ろくろく波は波はは羅ら羅らら樣やう樣やうようとととだにだにだにいひいひいいてててしかしかしかばばば、、、一いつ一いついっ天てん天てんてん四し四しし海かい海かいかいののの人ひと人ひとひと、、、皆みな皆みなみなこれこれこれををを學まな學まなまなぶぶぶ。。。
  6. 6いかなるいかなるいかなる賢けん賢けんけん王わう王わうおう、、、賢けん賢けんけん主しゆ主しゆしゅののの御おん御おんおん政まつりごと政まつりごとまつりごと、、、攝せつ攝せつせっ政しやう政しやうしょう、、、關くわん關くわんかん白ぱく白ぱくぱくののの御ご御ごご成せい成せいせい敗ばい敗ばいばいにににももも、、、世よ世よよにににあまさあまさあまされれれたるたるたる程ほど程ほどほどのののいたづらいたづらいたずら者もの者ものものなどなどなどののの、、、かたはらかたはらかたわらににに寄よ寄よよりりり合あ合ああひひいててて、、、何なに何なになにとととなうなうのう誹そし誹そしそしりりり傾かたぶ傾かたぶかたぶけけけ申まう申まうもうすすす事こと事ことことははは、、、常つね常つねつねのののならひならひならいなれなれなれどもどもども、、、このこのこの禪ぜん禪ぜんぜん世よ世よよざかりざかりざかりののの程ほど程ほどほどははは、、、聊いさゝ聊いさゝいささかかかゆるがせゆるがせゆるがせににに申まう申まうもうすすす者もの者ものものなしなしなし。。。
  7. 7そのそのその故ゆゑ故ゆゑゆえははは入にふ入にふにゅう道だう道だうどう相しやう相しやうしょう國こく國こくこくののの謀はかりごと謀はかりごとはかりごとににに、、、十じふ十じふじゅう四し四しし五ご五ごご六ろく六ろくろくののの童わらべ童わらべわらべををを三さん三さんさん百びやく百びやくびゃく人にん人にんにんすぐつすぐつすぐっててて、、、髪かみ髪かみかみをををににに切き切ききりりりまはしまはしまわし、、、赤あか赤あかあかききき直ひた直ひたひたををを著き著ききせせせててて、、、召めし召めしめし使つか使つかつかははわれれれけるけるけるががが、、、京きやう京きやうきょう中ぢゆう中ぢゆうじゅうににに充み充みみちちち滿み滿みみちちちててて往わう往わうおう反へん反へんへんしししけりけりけり。。。
  8. 8おのづからおのづからおのずから平へい平へいへい家け家けけののの御おん御おんおん事こと事ことこと、、、あしざまあしざまあしざまににに申まう申まうもうすすすものものものあれあれあればばば、、、一ひと一ひとひと人り人りり聞き聞ききききき出いだ出いだいださささぬぬぬ程ほど程ほどほどこそこそこそありありありけれけれけれ、、、餘よ餘よよ黨たう黨たうとうにににふれふれふれまはしまはしまわし、、、かのかのかの家いへ家いへいえににに亂らん亂らんらん入にふ入にふにゅうししし、、、資し資しし財ざい財ざいざい、、、雜ざふ雜ざふぞう具ぐ具ぐぐををを追つゐ追つゐついししし、、、そのそのその奴やつ奴やつやつをををからめからめからめててて、、、六ろく六ろくろく波は波はは羅ら羅らら殿どの殿どのどのへへへゐゐいててて参まゐ参まゐまいるるる。。。さればさればされば目め目めめににに見み見みみ、、、心こころ心こころこころににに知し知ししるるるととといへいへいえどもどもども、、、言こと言ことこと葉ば葉ばばにににあらはしあらはしあらわしててて申まう申まうもうすすす者もの者ものものなしなしなし。。。
  9. 9六ろく六ろくろく波は波はは羅ら羅らら殿どの殿どのどののののかぶろかぶろかぶろとととだにだにだにいへいへいえばばば、、、道みち道みちみちををを過す過すすぐるぐるぐる馬うま馬うまうま車くるま車くるまくるまももも、、、皆みな皆みなみなよきよきよきてててぞぞぞ通とほ通とほとおしししけるけるける。。。禁きん禁きんきん門もん門もんもんををを出しゆつ出しゆつしゅつ入にふ入にふにゅうすすすととといへいへいえどもどもども、、、姓しやう姓しやうしょう名みやう名みやうみょうををを尋たづ尋たづたずねねねらるゝらるゝらるるににに及およ及およおよばばばずずず。。。京けい京けいけい師し師ししののの長ちやう長ちやうちょう、、、これこれこれががが爲ため爲ためためににに目め目めめをををそばむそばむそばむととと見み見みみえええたりたりたり。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

こうして清盛公は、仁安三年(1168)十一月十一日、五十一歳で病にかかり、命を長らえるためにといって、すぐに出家入道した。法名を浄海とお付けになった。そのおかげであろうか、長年の病はたちどころに治って、天寿を全うした。

出家の後も、栄華はなお尽きないように見えた。人々が自然と慕いついてお仕えするさまは、吹く風が草木をなびかせるようであり、世間が仰ぎ見ることも、降る雨が国土をうるおすのと同じであった。

六波羅殿のご一家の若君たちとさえいえば、名門の貴族も、すぐれた人物も、だれも肩を並べたり、面と向かったりする者はいなかった。

また入道相国の小舅である平大納言時忠卿がおっしゃったことには、「この一門でない者は、みな人でなしであろう」とのことであった。それで、どんな人も、なんとかしてこの一門と縁を結ぼうとした。

烏帽子の折り方から始まって、衣紋のつけ方に至るまで、何事も「六波羅様」とさえいえば、天下の人がみなこれをまねた。

どのような賢明な帝や君主のご政治、摂政・関白のご処置についても、世の中からはみ出したような程度のならず者などが、物陰に寄り集まって、何ということもなく悪口を言い非難申し上げることは世の常であるが、この入道の全盛のあいだは、少しでもいいかげんなことを申す者はなかった。

その理由は、入道相国のはかりごとで、十四、五、六歳の少年を三百人選び出して、髪をおかっぱに切りそろえ、赤い直垂を着せて召し使われたが、それが京の町中に満ちあふれて行き来していたからである。

たまたま平家のことを悪く言う者があると、一人が聞きつけないうちはまだよかったが、聞きつければ仲間に触れ回し、その者の家に乱入して、家財や道具を差し押さえ、その者を縛り上げて、六波羅殿へ連れて参った。だから、目に見、心に思うことがあっても、言葉に出して申す者はいなかった。

六波羅殿の禿とさえいえば、道を通る馬や車も、みなよけて通した。宮中の門を出入りしても、名前を尋ねられることもない。都の役人の長も、彼らのために見て見ぬふりをすると思われた。

意訳

清盛の出家は、病気平癒を祈るためであった。ふつう出家は世を捨てることを意味するが、清盛の場合、出家してかえって権勢が強まり、人々は「風が草木をなびかせる」ように従った、と物語は語る。仏門に入ったはずの「禅門」が、世の中をもっとも強く支配しているという皮肉が、この章段の底に流れている。

平時忠の「この一門にあらざらん者は皆人非人たるべし」は、平家の驕りを象徴することばとして名高い。一般には「平家にあらずんば人にあらず」の形で知られている。時忠は清盛の妻時子の弟で、平家の繁栄を背景に、こうした放言が許されるほどの空気が都をおおっていたことがわかる。烏帽子の折り方や衣紋の着つけまで「六波羅様」がはやったという記述は、平家が政治だけでなく、流行や文化の面でも都の中心になったことを示している。

後半の禿(かぶろ)の話は、栄華の裏にある恐怖政治の一面を描く。おかっぱ頭に赤い直垂という目立つ姿の少年たちが町中を行き交い、平家の悪口を聞きつけると、仲間を集めて家に押し入り、本人を捕らえる。人々は「目に見、心に知る」けれども口に出せない。冒頭の「驕れる者久しからず」の「驕れる者」の姿が、ここで具体的に示されている。

語釈・文法注

淨海
清盛の法名。清盛は仁安三年(1168)二月に病のために出家したが、本文は十一月十一日とする。
華族
摂関家に次ぐ家柄の、清華家などの名門の貴族。
相國
太政大臣の唐名。「入道相国」は、出家した前の太政大臣、すなわち清盛をさす。
時忠
平時忠(1128〜1189)。清盛の妻時子(二位尼)の弟で、建春門院滋子の兄。平家の文官の中心として権勢をふるった。壇の浦の後に捕らえられ、能登に流された。
人非人
人の道にはずれた者。人でなし。
衣紋
装束を着るときの、襟元などの形の整え方。
禪門
仏門に入った在家の男子。入道。ここでは清盛。
かぶろ
「禿」。髪を肩のあたりで切りそろえた童の髪形。また、その髪形の子ども。
直垂
袖が広く、胸ひもをつけた衣服。もとは庶民の服で、武士の平服となった。
追捕
罪人をとらえること。また、その家財を差し押さえること。
京師の長吏
都の治安を受け持つ役所(検非違使庁)の長。

文法

「法名をば淨海とこそつき給へ」
係助詞「こそ」を受けて、結びが已然形の「給へ」になる係り結び。
「此の一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし」
「あらざらん」は、ラ変動詞「あり」の未然形+打消の助動詞「ず」の未然形「ざら」+婉曲の助動詞「む(ん)」の連体形で、…でないような。「べし」は当然・推量の助動詞。
「むすぼれんとぞしける」
「むすぼる」は、縁を結ぶ、つながりを持つ、の意。「ん」は意志の助動詞「む」で、なんとかして縁を結ぼうとした、の意。
「一人聞き出さぬ程こそありけれ、餘黨にふれまはし」
「こそ…けれ、」と已然形で言いさして後に続ける形で、逆接の意を表す。一人が聞きつけないうちはまだよいが、聞きつければ、の意。
「目をそばむ」
目をそむける、見て見ぬふりをする、の意。

解説

章段名の「禿童」は、後半に登場する平家の密偵の少年たちによる。覚一本などでは「禿髪(かぶろ)」と題するが、底本は「禿童の事」とし、ふりがなを「かぶろ」としている。

清盛の出家は、史実では仁安三年(1168)二月十一日のことで、前年に太政大臣を辞してからまもなくであった。出家後の清盛は、摂津の福原に住んで日宋貿易の振興に力を注ぐ一方、娘の徳子を高倉天皇に入内させるなど、朝廷への影響力をさらに強めていった。

時忠の「人非人」のことばは、『平家物語』の中でも、平家の驕りをもっともよく表すものとして引かれる。もっとも、この放言の主が清盛自身ではなく、その妻の弟という一門の周縁の人物であるところに、平家全体が驕りに染まっていたという物語の見方がうかがえる。

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出典

底本
『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、254–255頁(コマ156)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日