平家物語 巻第一
鱸の事
昇殿を許された忠盛は、和歌の才でも鳥羽院に認められ、仙洞の女房との恋も歌で彩る。忠盛の死後、跡を継いだ清盛は保元・平治の乱の功で昇進を重ね、ついに太政大臣に至る。その繁栄は、熊野参詣の船に鱸が躍り込んだ吉兆に始まる熊野権現の御利生だと語られる。
- 1そのそのその子子こどもどもどもははは皆皆みな、、、諸諸しょ衞衞えののの佐佐すけににになるなるなる。。。昇昇しょう殿殿でんせせせしししににに、、、殿殿てん上上じょうののの交交まじはりはりわりををを人人ひと嫌嫌きらふふうににに及及およばばばずずず。。。
- 2あるあるある時時とき忠忠ただ盛盛もり、、、備備び前前ぜんののの國國くによりよりより上上のぼららられれれたりたりたりけるけるけるににに、、、鳥鳥と羽羽ばののの院院いん、、、「「「明明あか石石しののの浦浦うらはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、忠忠ただ盛盛もり畏畏かしこまつまつまっててて、、、
- 3有有あり明明あけののの月月つきもももののの浦浦うら風風かぜににに波波なみばかりばかりばかりこそこそこそととと見見みえええしかしかしか
- 4ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、院院いん大大おおいににに御御ぎょ感感かんあつあつあっててて、、、やがてやがてやがてこのこのこの歌歌うたをををばばば、、、金金きん葉葉ようにににぞぞぞ入入いれれれられられられけるけるける。。。
- 5忠忠ただ盛盛もりまたまたまた仙仙せんににに、、、最最さい愛愛あいののの女女にょう房房ぼうををを持持もつつっててて、、、夜夜よな〳〵な〳〵なよな通通かよははわれれれけるけるけるががが、、、あるあるある夜夜よおはしおはしおわしたりたりたりけるけるけるににに、、、かのかのかの女女にょう房房ぼうののの局局つぼねににに、、、つまつまつまににに月月つき出出いだしししたるたるたる扇扇おうぎををを、、、とりとりとり忘忘わすれれれててて出出いでででられられられたりたりたりけれけれければばば、、、かたへかたへかたえののの女女にょう房房ぼう達達たち、、、「「「これこれこれはははいづくいづくいずくよりよりよりののの月月つき影影かげぞぞぞややや、、、出出いででで所所どころおぼつかなしおぼつかなしおぼつかなし。。。」」」などなどなど、、、笑笑わらひひい合合あははわれれれけれけれければばば、、、かのかのかの女女にょう房房ぼう、、、
- 6雲雲くも居居いよりよりよりきたるきたるきたる月月つきなれなれなればばばにににてててはははいはいはいわじじじとととぞぞぞ思思おもふふう
- 7ととと詠詠よみみみたりたりたりけれけれければばば、、、いとゞいとゞいとど淺淺あさからからからずずずぞぞぞ思思おもははわれれれけるけるける。。。薩薩さつ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のりののの母母ははこれこれこれなりなりなり。。。似似にるるるをををとととかやかやかやののの風風ふ情情ぜいにににててて、、、忠忠ただ盛盛もりのののすいすいすいたりたりたりけれけれければばば、、、かのかのかの女女にょう房房ぼうももも優優ゆうなりなりなりけりけりけり。。。
- 8かくてかくてかくて忠忠ただ盛盛もり、、、刑刑ぎょう部部ぶ卿卿きょうににになつなつなっててて、、、仁仁にん平平ぺい三三さん年年ねん正正しょう月月がつ十十じゅう五五ご日日にち、、、年年とし五五ご十十じゅう八八はちにににてててうせうせうせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、淸淸きよ盛盛もり嫡嫡ちゃく男男なんたるたるたるににによつよつよっててて、、、そのそのその跡跡あとをををつぎつぎつぎ、、、保保ほう元元げん元元がん年年ねん七七しち月月がつににに、、、宇宇う治治じののの左左さ世世よををを亂亂みだりりり給給たまひひいししし時時とき、、、御御み方方かたにににてててさきさきさきをををかけかけかけたりたりたりけれけれければばば、、、勸勸けん賞賞じょう行行おこなははわれれれけりけりけり。。。もともともとははは安安あ藝藝きののの守守かみたりたりたりしししががが、、、播播はり磨磨まののの守守かみににに遷遷うつつつっててて、、、同同おなじきじきじき三三さん年年ねんににに太太だ宰宰ざいののの大大だい貳貳にににになるなるなる。。。
- 9又又また平平へい治治じ元元がん年年ねん十十じゅう二二に月月がつ、、、信信のぶ賴賴より、、、義義よし朝朝ともががが謀謀む叛叛ほんののの時時ときももも、、、御御み方方かたにににててて賊賊ぞく徒徒とををを討討うちちち平平たいらげげげたりたりたりしかしかしかばばば、、、勳勳くん功功こう一一ひとつつつにににあらあらあらずずず、、、恩恩おん賞賞しょう重重おもかるかるかるべしべしべしとてとてとて、、、次次つぎののの年年とし正正じょう三三さん位位みににに敍敍じょせせせられられられ、、、うちうちうちつゞきつゞきつづき宰宰さい相相しょう、、、衞衞え府府ふののの督督かみ、、、檢檢けん非非び違違い使使しののの別別べっ當當とう、、、中中ちゅう納納な言言ごん、、、大大だい納納な言言ごんににに經經へあがつあがつあがっててて、、、剩剩あまつさへへえ丞丞しょうののの位位くらいににに至至いたるるる。。。左左さ右右ゆうををを經經へずずずしてしてして、、、内内ない大大だい臣臣じんよりよりより太太だい政政じょう大大だい臣臣じん、、、從從じゅ一一いち位位いににに至至いたりりり、、、大大だい將將しょうにににあらあらあらねねねどもどもども、、、兵兵ひょう仗仗じょうををを賜賜たまはつはつわっててて、、、隨隨ずい身身じんををを召召めししし具具ぐすすす。。。牛牛ぎっ車車しゃ、、、輦輦れんののの宣宣せん旨旨じををを蒙蒙こうむつつっててて、、、乘乘のりりりながらながらながら宮宮きゅう中中ちゅうををを出出しゅつ入入にゅうすすす。。。ひとへひとへひとえににに執執しっ政政せいののの臣臣しんののの如如ごとししし。。。
- 10太太だい政政じょう大大だい臣臣じんははは一一いち人人じんににに師師し範範はんとととしてしてして、、、四四し海海かいににに儀儀ぎ刑刑けいせせせりりり。。。國國くにををを治治おさめめめ、、、道道みちををを論論ろんじじじ、、、陰陰いん陽陽ようをををやはらげやはらげやわらげをさむをさむおさむ。。。そのそのその人人ひとにににあらあらあらずずずばばば、、、則則すなわちちち闕闕かけけけよよよととといへいへいえりりり。。。則則そくののの官官かんともともとも名名なづけづけづけられられられたりたりたり。。。そのそのその人人ひとならならならででではははけがすけがすけがすべきべきべき官官かんならならならねねねどもどもども、、、このこのこの入入にゅう道道どう相相しょう國國こくははは一一いっ天天てん四四し海海かいををを掌掌たなごころののの中中うちににに握握にぎりりり給給たまふふう上上うえははは、、、仔仔し細細さいににに及及およばばばずずず。。。
- 11抑抑そもそも平平へい家家け、、、かやうかやうかようににに繁繁はん昌昌じょうせせせられられられけるけるけることことことははは、、、ひとへひとへひとえににに熊熊くま野野の權權ごん現現げんののの御御ご利利りとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。そのそのその故故ゆえははは、、、淸淸きよ盛盛もりいまだいまだいまだ安安あ藝藝きののの守守かみたりたりたりししし時時とき、、、伊伊い勢勢せののの國國くに安安あ濃濃のののの津津つよりよりより、、、船船ふねにににててて熊熊くま野野のへへへ参参まいららられれれけるけるけるににに、、、大大おおきききなるなるなる鱸鱸すずきののの船船ふねへへへ躍躍おどりりり入入いつつったりたりたりけれけれければばば、、、先先せん申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「昔昔むかし周周しゅうののの武武ぶ王王おうののの船船ふねにににこそこそこそ、、、白白はくははは躍躍おどりりり入入いつつったるたるたるなれなれなれ。。。いかさまいかさまいかさまにににもももこれこれこれははは權權ごん現現げんののの御御ご利利り生生しょうととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。参参まいるるるべしべしべし。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、
- 12さしもさしもさしも十十じっ戒戒かいををを保保たもつつっててて、、、精精しょう進進じん潔潔けっ齋齋さいののの道道みちなれなれなれどもどもども、、、みづからみづからみずから調調ちょう味味びしししててて、、、わがわがわが身身み食食くひひい、、、家家いえののの子子こ、、、郎郎ろう黨黨どうどもどもどもにににももも食食くははわせせせらるらるらる。。。そのそのその故故ゆえにににややや吉吉きち事事じのみのみのみうちうちうちつゞいつゞいつづいててて、、、わがわがわが身身み太太だい政政じょう大大だい臣臣じんににに至至いたりりり、、、子子し孫孫そんののの官官かん途途とももも、、、龍龍りゅうののの雲雲くもににに上上のぼるるるよりよりよりはははなほなほなお速速すみやかかかなりなりなり。。。九九く代代だいののの先先せん蹤蹤じょうををを超超こえええ給給たまふふうこそこそこそめでたけれめでたけれめでたけれ。。。
現代語訳
忠盛の子どもたちはみな、衛府の次官になった。昇殿したので、殿上での交わりを人々が嫌うこともなくなった。
あるとき忠盛が備前国から上京なさったところ、鳥羽院が「明石の浦はどうであった」とお尋ねになったので、忠盛はかしこまって、
有明の月も明るい明石の浦では、浦風に寄せる波だけが、いまが夜であることを示しているように見えました(それほど月が明るかったのです)。
と申し上げなさったところ、院はたいそう感心なさって、やがてこの歌を『金葉集』にお入れになった。
忠盛はまた、院の御所に深く愛する女房をもって、毎夜通っていらっしゃったが、ある夜おいでになったとき、その女房の部屋に、端に月を描いた扇を置き忘れてお帰りになったので、そばの女房たちが「これはどこから出た月影でしょう。出どころがはっきりしないこと」などと笑い合っていたところ、その女房が、
雲居(宮中)から、ただ漏れ出てきた月(忠盛様が通ってこられたしるし)ですから、いいかげんなことでは申しますまいと思います。
と詠んだので、忠盛はいっそう深く愛しく思われた。薩摩守忠度の母がこの人である。「似る者どうしが友となる」とかいう趣で、忠盛が風流を好んでいたので、その女房もまた優雅であった。
こうして忠盛は刑部卿になって、仁平三年(1153)正月十五日、五十八歳で亡くなられたので、清盛は嫡男であったので、その跡を継いだ。保元元年(1156)七月、宇治の左大臣(藤原頼長)が世を乱されたとき、天皇方として先陣をつとめたので、恩賞が与えられた。もとは安芸守であったが、播磨守に移って、同じ保元三年に太宰大弐になった。
また平治元年(1159)十二月、藤原信頼と源義朝が謀反を起こしたときも、天皇方として賊徒を討ち平らげたので、功績は一つや二つではない、恩賞は重くするべきだということで、翌年正三位に叙せられ、続いて宰相・衛府の督・検非違使の別当・中納言・大納言と昇進して、そのうえ大臣の位にまで至った。左右の大臣を経ずに、内大臣から太政大臣・従一位に至り、近衛大将ではないけれども兵仗を賜って随身を召し連れた。牛車・輦車の宣旨をこうむって、乗ったまま宮中に出入りした。まったく摂政・関白のようであった。
「太政大臣は天子一人の師範として、天下の手本となる。国を治め、道を論じ、陰陽を調和させ治める。ふさわしい人がいなければ空けておけ」といわれている。それで則闕の官とも名づけられている。ふさわしい人でなければ就いてはならない官職であるが、この入道相国は天下を手のひらの中に握っていらっしゃるのだから、とやかく言うまでもない。
そもそも平家がこのように繁栄なさったのは、ひとえに熊野権現のご利益だということであった。その理由は、清盛がまだ安芸守であったとき、伊勢国の安濃津から船で熊野へ参詣なさったところ、大きな鱸が船に躍り込んできたので、先達が申し上げるには、「昔、周の武王の船に白い魚が躍り込んだということでございます。きっとこれは権現のご利益と思われます。召し上がるのがよいでしょう」と申したので、
あれほど十戒を守って精進潔斎する修行の道中であったけれども、清盛は自分で料理して、自身も食べ、家の子や郎等たちにも食べさせなさった。そのためであろうか、よいことばかりが続いて、自身は太政大臣に至り、子孫の昇進も、竜が雲に昇るよりもなお速かった。九代の先祖の先例を超えなさったのはめでたいことであった。
意訳
前半は、昇殿を果たした忠盛が、武勇だけでなく和歌の才でも宮廷に受け入れられていく話である。「有明の月もあかしの浦風に」の歌は、院の問いに即座に答えたもので、「明石」に「明かし」、「寄る」に「夜」を掛け、明石の浦の月の明るさを、波が寄るのを見て初めて夜だとわかるほどだった、と機知を込めて詠む。忠盛が地方官として各地を回った経験を、雅な歌のことばに変えてみせたところに、院の感心があった。
続く扇の話では、女房の歌が「ただ漏り(ただ漏れて)」に「忠盛」を詠み込み、恋の相手が忠盛であることを、ほかの女房たちのからかいをかわしながら打ち明けている。物語は、忠盛もその恋人も風流を解する人であったと語り、殿上人に「伊勢へいじ」と笑われた忠盛が、宮廷の文化の中にしっかりと根を下ろしていたことを示す。この女房の産んだ子が、のちに歌人としても名高い平忠度である。
後半は清盛の時代に移り、保元・平治の乱を経て、太政大臣にまで駆け上がる昇進が、官職を連ねるだけの簡潔な文で一気に語られる。太政大臣は「その人なくば闕けよ」とまでいわれた特別な官であり、それを清盛が手にしたことの破格さが強調される。最後に、その栄華の起こりを、熊野参詣の途中に鱸が船に躍り込んだ吉兆に求める。精進の道中に生臭物を口にするという掟破りが、かえって幸運を呼んだと語るこの逸話は、平家の繁栄が神仏の加護による一時のものであることも、言外にほのめかしている。
語釈・文法注
- あかし
- 地名の「明石」と、明るい意の「明かし」とを掛ける。
- よる
- 波が「寄る」と「夜」とを掛ける。
- 金葉集
- 『金葉和歌集』。白河院の命で源俊頼が撰んだ五番目の勅撰和歌集。大治二年(1127)ごろ成立。忠盛のこの歌は巻三・秋に入る。
- 仙洞
- 上皇の御所。ここでは鳥羽院の御所。
- たゞもり
- 「ただ漏り(ただ漏れて)」と「忠盛」とを掛ける。
- おぼろけ
- いいかげんなこと。通りいっぺん。月の縁語の「おぼろ」を響かせる。
- 似るを友
- ことわざ「似るを友とす」。似た者どうしが自然に友となる、の意。
- 宇治の左府
- 左大臣藤原頼長(1120〜1156)。宇治に別業があったのでこう呼ぶ。崇徳上皇方について保元の乱を起こし、敗れて死んだ。
- 丞相
- 大臣の唐名。
- 牛車・輦車の宣旨
- 牛車や輦車(人が引く車)に乗ったまま宮中の門を出入りすることを許す宣旨。大臣や高僧など、ごく限られた人にだけ与えられた。
- 則闕の官
- 太政大臣の別名。ふさわしい人がいなければ欠員のままにしておく官、の意。
- 御利生
- 神仏が衆生に与える利益。ご利益。
- 先達
- 熊野などの霊場に参詣する人を案内し、修行の指導をする山伏。
- 白魚
- 周の武王が殷の紂王を討つため川を渡ったとき、白い魚が王の船に躍り込んだという『史記』の故事。白は殷の色とされ、殷が周に下る吉兆と解された。
文法
- 「波ばかりこそよると見えしか」
- 係助詞「こそ」を受けて、過去の助動詞「き」の已然形「しか」で結ぶ係り結び。
- 「おぼろけにてはいはじとぞ思ふ」
- 「じ」は打消意志の助動詞で、言うまい、の意。係助詞「ぞ」を受けて、結びの「思ふ」は連体形。
- 「その人にあらずば、則ち闕けよ」
- 養老令の『職員令』の条文(無其人則闕)を訓読した句。「ずば」は打消の助動詞「ず」の連用形+係助詞「は」で、ふさわしい人でなければ、の意。
- 「その人ならではけがすべき官ならねども」
- 「ならでは」は、…でなくては。「けがす」は、ふさわしくない者がその地位につくことを謙遜・非難していう。
- 「覺え候。參るべし」
- 「參る」は「食ふ」「飲む」の尊敬語で、召し上がる、の意。
和歌
有明の月もあかしの浦風に波ばかりこそよると見えしか
- 詠者
- 平忠盛
- 状況
- 備前国から上京した忠盛に、鳥羽院が「明石の浦はどうであったか」と尋ねたのに答えて詠んだ歌。『金葉和歌集』巻三・秋に入る。
修辞
- 掛詞
- 「あかし」に地名の「明石」と「明かし」を、「よる」に「寄る」と「夜」を掛ける。
- 趣向
- 有明の月があまりに明るいので、波が寄るのを見てようやく夜だとわかった、という誇張で、明石の月の美しさをたたえる。
雲居よりたゞもりきたる月なればおぼろけにてはいはじとぞ思ふ
- 詠者
- 忠盛の愛した女房(平忠度の母)
- 状況
- 忠盛が置き忘れた、月を描いた扇を見て、同僚の女房たちが「どこから出た月か」とからかったのに答えた歌。
修辞
- 掛詞
- 「たゞもり」に「ただ漏り(ただ漏れて来た)」と「忠盛」を掛ける。
- 縁語
- 「雲居」「月」「もり(漏り)」「おぼろけ」が月の縁語。「雲居」には宮中の意もこめる。
解説
章段名の「鱸」は、後半の熊野参詣の逸話による。前半の忠盛の和歌と恋の話と、後半の清盛の昇進の話は、どちらも平家が武門の家から宮廷の頂点へと上っていく過程を描いており、「祇園精舎」「殿上の闇討」から続く平家興隆の序章をなしている。
清盛(1118〜1181)の昇進は、史実でも異例の速さであった。保元の乱(1156)で後白河天皇方について勝利し、平治の乱(1159)で源義朝を破ると、永暦元年(1160)に正三位・参議となって公卿に列し、仁安二年(1167)には太政大臣に任じられた。武士が太政大臣になったのは、これが初めてである。本文の「左右を經ずして、内大臣より太政大臣」も、清盛が左大臣・右大臣を経なかったことをいう。
熊野は平家の信仰があつかった霊場で、平治の乱が起こったときも、清盛は熊野参詣の途中であった。白魚の故事は『史記』周本紀に見え、先達がこれを引いて吉兆と解したことで、精進のさなかに魚を食べるという禁忌が正当化されている。物語は、平家の栄華を神仏の加護として語ると同時に、のちにその加護が失われていくことへの伏線ともしている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、252–254頁(コマ155–156)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日