平家物語 巻第一
殿上の闇討の事
得長寿院を造進した功で、清盛の父忠盛は初めて昇殿を許される。妬んだ殿上人たちは五節の夜に忠盛を闇討ちにしようとするが、忠盛は木刀の刀を見せつけ、郎等の家貞も庭に控えて企てをくじく。殿上人の訴えに対しても、忠盛は刀が木刀であったことを示して、かえって鳥羽院の称賛を受ける。
- 1しかるにしかるにしかるに忠忠ただ盛盛もり、、、未未いまだだだ備備び前前ぜんののの守守かみたりたりたりししし時時とき、、、鳥鳥と羽羽ばののの院院いんののの御御ご願願がん、、、得得とく長長ちょう壽壽じゅををを造造ぞう進進しんしししててて、、、三三さん十十じゅう三三さん間間げんののの御御み堂堂どうををを建建たててて、、、一一いっ千千せん一一いっ體體たいののの御御み佛佛ほとけをををすゑすゑすえ奉奉たてまつらららるるる。。。
- 2供供く養養ようははは天天てん承承しょう元元がん年年ねん三三さん月月がつ十十じゅう三三さん日日にちなりなりなり。。。勸勸けんにににははは闕闕けっををを賜賜たまふふうべきべきべき由由よし、、、仰仰おおせせせ下下くだささされれれけるけるける。。。折折おりふしふしふし但但たじ馬馬まののの國國くにのののあきあきあきたりたりたりけるけるけるをををぞぞぞ下下くだささされれれけるけるける。。。上上しょう皇皇こうなほなほなお御御ぎょ感感かんのののあまりあまりあまりににに、、、内内うちののの昇昇しょう殿殿でんををを許許ゆるさささるるる。。。忠忠ただ盛盛もり三三さん十十じゅう六六ろくにににててて始始はじめめめててて昇昇しょう殿殿でんすすす。。。
- 3雲雲くもののの上上うえこれこれこれををを猜猜そねみみみ憤憤いきどおりりり、、、同同おなじきじきじき年年としののの十十じゅう一一いち月月がつ二二に十十じゅう三三さん日日にち、、、五五ご節節せつ豐明豐明とよのあかりののの節節せちののの夜夜よ、、、忠忠ただ盛盛もりををを闇闇やみ討討うちにににせせせんんんとととぞぞぞ議議ぎせせせられられられけるけるける。。。
- 4忠忠ただ盛盛もり、、、このこのこの由由よしををを傳傳つたへへえ聞聞ききききててて、、、「「「われわれわれ右右ゆうののの身身みにににあらあらあらずずず、、、武武ぶ勇勇ようののの家家いえににに生生うまれれれててて、、、今今いま不不ふ慮慮りょののの恥恥はじにににあはあはあわんんんことことこと、、、家家いえのののためためため、、、身身みのののためためため、、、心心こころうかるうかるうかるべしべしべし。。。詮詮せんずるずるずる所所ところ、、、身身みををを全全まっとうううしししててて君君きみににに仕仕つかへへえ奉奉たてまつれれれととといふいふいう本本ほん文文もんありありあり。。。」」」とてとてとて、、、かねてかねてかねて用用よう意意いをををいたすいたすいたす。。。
- 5参参さん内内だいのののはじめはじめはじめよりよりより大大おおきききなるなるなる鞘鞘さやををを用用よう意意いししし、、、束束そく帶帶たいののの下下したにににしどけなげしどけなげしどけなげにににさしさしさしほらしほらしほらし、、、火火ひのののほのほのほのぐらきぐらきぐらき方方かたににに向向むかひひいてててやはらやはらやわらこのこのこの刀刀かたなををを拔拔ぬききき出出いだいいいててて、、、鬢鬢びんににに引引ひき當當あてててられられられたりたりたりけるけるけるががが、、、よそよそよそよりよりよりははは氷氷こおりなどなどなどのののやうやうようにににぞぞぞ見見みえええけるけるける。。。諸諸しょ人人にん目目めをををすましすましすましけりけりけり。。。
- 6又又また忠忠ただ盛盛もりののの郎郎ろう黨黨どう、、、もともともとははは一一いち門門もんたりたりたりししし平平たいらののの木工助木工助もくのすけ貞貞さだ光光みつががが孫孫まご、、、進進しんののの三三さぶ郎郎ろう大夫大夫たゆう家家いえ房房ふさががが子子こににに、、、左左さ兵兵ひょう衞衞えののの尉尉じょう家家いえ貞貞さだととといふいふいうものものものありありあり。。。薄薄うす靑靑あおののの狩狩かり衣衣ぎぬののの下下したににに、、、萌萌もよ黄黄ぎののの腹腹はら巻巻まきををを著著き、、、欛欛つか袋袋ぶくろつけつけつけたるたるたる太太た刀刀ち脇脇わきばさんばさんばさんででで、、、殿殿てん上上じょうののの小小こ庭庭にわににに畏畏かしこまつまつまってててぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。
- 7貫貫かん以以い下下げ、、、あやしみあやしみあやしみをををなしなしなしててて、、、「「「うつぼうつぼうつぼ柱柱ばしらよりよりより内内うち、、、鈴鈴すずのののののの邊邊へんににに、、、布布ほうののの者者ものののの候候さぶらうははは何何なに者者ものぞぞぞ。。。狼狼ろう藉藉ぜきなりなりなり。。。とう〳〵とう〳〵とうとうまかりまかりまかり出出いでででよよよ。。。」」」ととと、、、六六ろく位位いををを以以もっててていはいはいわせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、家家いえ貞貞さだ畏畏かしこまつまつまっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「相相そう傳傳でんののの主主しゅう備備び前前ぜんののの守守かみ殿殿どのののの、、、今今こん夜夜や闇闇やみ討討うちにににせせせられられられ給給たまふふうべきべきべきよしよしよし承承うけたまわつつっててて、、、そのそのそのならならならんんんやうやうようををを見見みんんんとてとてとて、、、かくかくかくててて候候さぶらうなりなりなり。。。えええこそこそこそ出出いでででまじまじまじ。。。」」」とてとてとて、、、またまたまた畏畏かしこまつまつまってててぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。
- 8これらこれらこれらをををよしなしよしなしよしなしとととややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、そのそのその夜夜よののの闇闇やみ討討うちなかりなかりなかりけりけりけり。。。
- 9忠忠ただ盛盛もり又又また御御ご前前ぜんののの召召めしししににに舞舞まははわれれれけるけるけるににに、、、人人ひと々々びと拍拍ひょう子子しをををかへかへかへててて、、、「「「伊伊い勢勢せはははなりなりなりけりけりけり。。。」」」とととぞぞぞはやさはやさはやされれれけるけるける。。。
- 10かけまくかけまくかけまくももも忝忝かたじけなくくく、、、このこのこの人人ひと々々びとははは柏柏かしわ原原ばらののの天天てん皇皇のうののの御御おん末末すえとととははは申申もうしししながらながらながら、、、中中なか頃頃ごろははは都都みやこののの住居住居すまいもももうと〳〵しくうと〳〵しくうとうとしく、、、地地じにににのみのみのみふるまひふるまひふるまいなつなつなっててて、、、伊伊い勢勢せののの國國くにににに住住じゅう國國こく深深ふかかりかりかりしかしかしかばばば、、、そのそのその國國くにののの器器うつわものにににことことこと寄寄よせせせててて、、、伊伊い勢勢せへいじへいじへいじとととぞぞぞはやさはやさはやされれれけるけるける。。。そのそのその上上うえ、、、忠忠ただ盛盛もりののの目目めのののすがますがますがまれれれたりたりたりけるけるける故故ゆえにににこそこそこそ、、、斯斯か樣樣ようにににははははやさはやさはやされれれけるけるけるなれなれなれ。。。
- 11忠忠ただ盛盛もりいかにいかにいかにすすすべきべきべきやうやうようもももなくなくなくしてしてして、、、御御ぎょ遊遊ゆうももも未未いまだだだ終終おわらららざるざるざるさきさきさきににに、、、御御ご前前ぜんををを罷罷まかりりり出出いでででらるゝらるゝらるるとてとてとて、、、紫紫し宸宸しん殿殿でんののの御御ご後後ごにににしてしてして、、、人人ひと々々びとののの見見みられられられけるけるける所所ところにににててて、、、横横よこたへたへたえさささささされれれたりたりたりけるけるける腰腰こしののの刀刀かたなをををばばば、、、ににに預預あずけけけ置置おきききてててぞぞぞ出出いでででられられられけるけるける。。。
- 12家家いえ貞貞さだ、、、待待まちちち受受うけけけ奉奉たてまつりりりててて、、、「「「さてさてさていかゞいかゞいかが候候さぶらひひいつるつるつるやらやらやらんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、かうかうこうともともともいはいはいわまほしうまほしうまほしゅうははは思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、まさしうまさしうまさしゅういひいひいいつるつるつる程程ほどならならならばばば、、、やがてやがてやがて殿殿てん上上じょうまでまでまでももも、、、切切きりりり上上のぼらららんんんずるずるずるものものものののの面面つら魂魂だましいにににてててあるあるある間間あいだ、、、「「「別別べつののの事事ことなしなしなし。。。」」」とととぞぞぞ答答こたへへえられられられけるけるける。。。
- 13五五ご節節せつにににははは、、、「「「白白しろ薄薄うす樣樣よう、、、修修しゅ禪禪ぜん寺寺じののの紙紙かみ、、、巻巻まき上上あげののの筆筆ふで、、、巴巴ともへ書書かいいいたるたるたる筆筆ふでののの軸軸じく。。。」」」なんどなんどなんどいふいふいう、、、さま〴〵さま〴〵さまざまかやうかやうかようにににおもしろきおもしろきおもしろき事事ことをををのみのみのみこそこそこそ歌歌うたひひい舞舞まははわるゝるゝるるににに、、、中中なか頃頃ごろ太太だ宰宰ざいののの權權ごんののの帥帥そつ季季すえ仲仲なかののの卿卿きょうととといふいふいう人人ひとありありありけりけりけり。。。
- 14あまりあまりあまりににに色色いろののの黑黑くろかりかりかりけれけれければばば、、、時時ときののの人人ひと、、、黑黑こく帥帥そつとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。このこのこの人人ひと、、、未未いまだだだ藏人藏人くらんどののの頭頭とうなりなりなりししし時時とき、、、御御ご前前ぜんののの召召めしししににに舞舞まははわれれれけるけるけるににに、、、人人ひと々々びと拍拍ひょう子子しをををかへかへかへててて、、、「「「あなあなあなくろ〳〵くろ〳〵くろくろ、、、黑黑くろききき頭頭とうかなかなかな。。。いかなるいかなるいかなる人人ひとののの漆漆うるしぬりぬりぬりけんけんけん。。。」」」とととぞぞぞはやさはやさはやされれれけるけるける。。。
- 15またまたまた花花か山山ざんののの院院いんののの前前さきののの太太だい政政じょう大大だい臣臣じん忠忠ただ雅雅まさ公公こう、、、未未いまだだだ十十じっ歳歳さいなりなりなりししし時時とき、、、父父ちち中中ちゅう納納な言言ごん忠忠ただ宗宗むねののの卿卿きょうにににおくれおくれおくれ給給たまひひいててて、、、孤孤みなしごにににててておはしおはしおわしけるけるけるををを、、、故故こ中中なかののの御御み門門かどののの藤藤とう中中ちゅう納納な言言ごん家家いえ成成なりののの卿卿きょう、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ播播はり磨磨まののの守守かみにににててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、壻壻むこににに取取とつつっててて、、、はなやかはなやかはなやかにににもてもてもてなさなさなされれれしかしかしかばばば、、、これこれこれももも五五ご節節せつにににははは、、、「「「播播はり磨磨ま米米よねははは木賊木賊とくさ草草ぐさかかか、、、椋椋むくののの葉葉はかかか、、、人人ひとののの綺綺き羅羅らををを研研みがくくくははは。。。」」」とととぞぞぞはやさはやさはやされれれけるけるける。。。
- 16上上じょう古古こにににはははかやうかやうかようののの事事ことどもどもども多多おおかりかりかりしかしかしかどもどもども、、、事事こと出出いででで來來こずずず。。。末末まつ代代だいいかゞいかゞいかがあらあらあらんんんずずずらんらんらん、、、おぼつかなしおぼつかなしおぼつかなしとととぞぞぞ、、、人人ひと々々びと申申もうしししあはあはあわれれれけるけるける。。。
- 17案案あんののの如如ごとくくく、、、五五ご節節せつはてはてはてにににしかしかしかばばば、、、院院いん中中じゅうののの公公く卿卿ぎょう殿殿てん上上じょう人人びと、、、一一いち同同どうににに訴訴うつたへへえ申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「それそれそれ雄雄ゆう劍劍けんををを帶帶たいしししててて公公く宴宴えんににに列列れっししし、、、兵兵ひょうををを賜賜たまひひいててて宮宮きゅう中中ちゅうををを出出しゅつ入入にゅうするするするははは、、、みなみなみなこれこれこれ格格きゃく式式しきののの例例れいををを守守まもるるる、、、綸綸りん命命めいよしよしよしあるあるある先先せん規規きなりなりなり。。。しかるしかるしかるををを忠忠ただ盛盛もりののの朝朝あ臣臣そん、、、或或あるいははは年年とし來來ごろののの郎郎ろう從從じゅうととと號號ごうしししててて、、、ののの兵兵つわものををを殿殿てん上上じょうののの小小こ庭庭にわににに召召めししし置置おききき、、、或或あるいははは腰腰こしののの刀刀かたなををを横横よこたへたへたえさいさいさいててて節節せち會會えののの座座ざににに列列つらなるるる。。。
- 18兩兩りょう條條じょう奇奇き態態たい、、、いまだいまだいまだ聞聞きかかかざるざるざる狼狼ろう藉藉ぜきなりなりなり、、、事事こと既既すでににに重重ちょう疊疊じょうせせせりりり、、、罪罪ざい科科か最最もっとももも遁遁のがれれれ難難がたししし。。。早早はやくくく殿殿てん上上じょうののの御御み簡簡ふだををを削削けずつつっててて、、、闕闕けっ官官かん停停ちょう行行おこなははわるるるべきべきべきかかか。。。」」」ととと、、、諸諸しょ卿卿きょう一一いち同同どうににに訴訴うつたへへえ申申もうささされれれけれけれければばば、、、上上しょう皇皇こう大大おおきききににに驚驚おどろかかかせせせ給給たまひひいててて、、、忠忠ただ盛盛もりををを御御ご前前ぜんへへへ召召めしししててて御御おん尋尋たずねねねありありあり。。。
- 19陳陳ちんじじじ申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「まづまづまず郎郎ろう從從じゅう小小こ庭庭にわににに伺伺し候候こうののの由由よし、、、全全まったくくく覺覺かく悟悟ご仕仕つかまつらららずずず。。。但但ただししし近近きん日日じつ人人ひと々々びと相相あいたくまるゝたくまるゝたくまるる旨旨むね、、、仔仔し細細さいあるあるあるかかかののの間間あいだ、、、年年とし來來ごろののの家家け人人にん、、、事事ことををを傳傳つたへへえ聞聞きくくくかかかににによつよつよっててて、、、そのそのその恥恥はじををを助助たすけけけんんんががが爲爲ためににに、、、忠忠ただ盛盛もりにににははは知知しらららせせせずずずしてしてして、、、ひそかひそかひそかににに参参さん候候こうののの條條じょう、、、力力ちから及及およばばばざるざるざる次次し第第だいなりなりなり。。。もしもしもし咎咎とがあるあるあるべくべくべくばばば、、、かのかのかの身身み召召めししし進進しんずずずべきべきべきかかか。。。次次つぎににに刀刀かたなののの事事ことははは、、、主殿司主殿司とのもづかさににに預預あずけけけ置置おききき候候さぶらひひいをはんぬをはんぬおわんぬ。。。之之これををを召召めししし出出いだささされれれ、、、刀刀かたなののの實實じっ否否ぷににによつよつよっててて、、、咎咎とがのののとかうとかうとこう行行おこなははわるるるべきべきべきかかか。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、
- 20このこのこの儀儀ぎ最最もっとももも然然しかるるるべしべしべしとてとてとて、、、急急いそぎぎぎかのかのかの刀刀かたなををを召召めししし出出いでででててて叡叡えい覽覽らんあるあるあるににに、、、上上うえははは鞘鞘さや巻巻まきののの黑黑くろううう塗塗ぬつつったりたりたりけるけるけるががが、、、中中なかははは木木き刀刀がたなににに銀銀ぎん箔箔ぱくをををぞぞぞ押押おいいいたりたりたりけるけるける。。。
- 21「「「當當とう座座ざののの恥恥ち辱辱じょくををを遁遁のがれれれんんんがががためためためににに、、、刀刀かたなををを帶帶たいするするする由由よしあらはすあらはすあらわすととと雖雖いえどももも、、、後後ご日日にちののの訴訴そ訟訟しょうををを存存ぞんじじじててて、、、木木き刀刀がたなををを帶帶たいしししけるけるける用用よう意意いののの程程ほどこそこそこそ神神しん妙妙びょうなれなれなれ。。。弓弓きゅう箭箭ぜんにににたづさはたづさはたずさわらららんんんほどほどほどののの者者ものののの謀謀はかりごとにににははは、、、最最もっともももかうかうこうこそこそこそあらあらあらまほしけれまほしけれまほしけれ。。。かねてかねてかねてはははまたまたまた郎郎ろう從從じゅう小小こ庭庭にわににに伺伺し候候こうのののことことこと、、、かつうかつうかつうははは武武ぶ士士しののの郎郎ろう黨黨どうのののならひならひならいなりなりなり。。。忠忠ただ盛盛もりががが咎咎とがにににあらあらあらずずず。。。」」」とてとてとて、、、かへつかへつかえっててて叡叡えい感感かんににに預預あずかつつっししし上上うえははは、、、敢敢あえててて罪罪ざい科科かののの沙沙さ汰汰たはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。
現代語訳
ところで忠盛は、まだ備前守であったとき、鳥羽院の御願寺である得長寿院を造営して献上し、三十三間の御堂を建てて、一千一体の仏像を安置申し上げた。
供養は天承元年(1131)三月十三日である。その褒美として、欠員になっている国を与えようという仰せが下された。ちょうど但馬国が空いていたので、それをお与えになった。上皇はなおもお喜びのあまりに、内裏の昇殿をお許しになった。忠盛は三十六歳で初めて昇殿した。
殿上人たちはこれをねたみ憤って、同じ年の十一月二十三日、五節の豊明の節会の夜に、忠盛を闇討ちにしようと相談なさった。
忠盛はこのことを伝え聞いて、「自分は文筆の家の者ではない。武勇の家に生まれて、いま思いがけない恥を受けるようなことがあれば、家のためにも、わが身のためにも、つらいことであろう。結局のところ、『身を全うして君に仕えよ』という古い言葉もある」と言って、前もって用意をした。
参内の初めから、大きな鞘巻を用意して、束帯の下にわざとだらしなく差し、灯火のほの暗い方に向かって、そっとこの刀を抜き出して、鬢のあたりに引き当てていらっしゃったのが、よそからは氷のように光って見えた。人々はみな目をみはった。
また忠盛の郎等で、もとは平家の一門であった木工助平貞光の孫で、進の三郎大夫家房の子である、左兵衛尉家貞という者がいた。薄青の狩衣の下に萌黄縅の腹巻を着け、柄袋をつけた太刀を脇にはさんで、殿上の小庭にかしこまって控えていた。
蔵人頭以下の人々が不審に思って、「うつぼ柱より内側、鈴の綱のあたりに、無位の者が控えているのは何者か。無礼である。さっさと出て行け」と、六位の蔵人に言わせなさったところ、家貞はかしこまって申し上げるには、「代々お仕えしている主人の備前守殿が、今夜闇討ちにされるだろうと承りましたので、どうなるかその成り行きを見届けようと、こうして控えているのです。出て行くことなどできません」と言って、またかしこまって控えていた。
これらの様子を見て、手出しはむだだと思われたのだろうか、その夜の闇討ちは行われなかった。
忠盛がまた御前のお召しによって舞われたところ、人々は拍子を変えて、「伊勢へいじはすがめなりけり(伊勢の瓶子は酢瓶だったよ/伊勢平氏はすがめだったよ)」とはやしたてなさった。
口にするのも恐れ多いことだが、この平家の人々は桓武天皇の御子孫とは申しながら、中ごろからは都の暮らしにも縁遠くなり、地下人としてばかりふるまって、伊勢国に長く住みついていたので、その国の焼き物の瓶子にかこつけて、「伊勢へいじ」とはやしたてなさったのである。そのうえ、忠盛の目が斜視であったために、このようにはやしたてなさったのである。
忠盛はどうすることもできず、管絃のお遊びもまだ終わらないうちに、御前を退出なさろうとして、紫宸殿の北の廂で、人々が見ているところで、腰に横たえて差していた刀を、主殿司に預けておいて退出なさった。
家貞が待ち受けていて、「さて、どうでございましたか」と申し上げたので、こうこうだったと言いたいとはお思いになったけれども、ありのままに言ったなら、すぐさま殿上にまでも斬り上がってしまいそうな面構えの男なので、「別に何事もない」とお答えになった。
五節の折には、「白薄様、修禅寺の紙、巻上の筆、巴を描いた筆の軸」などという、さまざまな、このような趣のある歌ばかりを歌って舞うものだが、中ごろ、太宰権帥季仲卿という人がいた。
あまりに色が黒かったので、当時の人は「黒帥」と申した。この人がまだ蔵人頭であったとき、御前のお召しで舞われたところ、人々は拍子を変えて、「ああ黒い黒い、黒い頭(蔵人頭)だなあ。どんな人が漆を塗ったのだろう」とはやしたてなさった。
また、花山院の前の太政大臣忠雅公が、まだ十歳であったとき、父の中納言忠宗卿に先立たれて、みなしごでいらっしゃったのを、故中御門藤中納言家成卿が、その時はまだ播磨守でいらっしゃったが、婿に取って、はなやかにお世話なさったので、この人も五節の折に、「播磨米は木賊草か、椋の葉か、人の身なりを磨き立てるのは」とはやしたてなさった。
昔はこのようなことが多かったけれども、事件は起こらなかった。しかし末の世の今はどうなることだろう、気がかりだと、人々は話し合われた。
案の定、五節が終わると、院の公卿・殿上人たちが一同に訴え申し上げなさるには、「そもそも剣を帯びて公の宴に列席し、護衛の兵を賜って宮中に出入りするのは、みな格式の定めを守った、勅命によるいわれのある先例です。それなのに忠盛朝臣は、あるいは長年の郎従と称して無位の武士を殿上の小庭に呼び置き、あるいは腰の刀を横たえて差して節会の座に連なりました。
この二か条は奇怪な振る舞いで、いまだ聞いたこともない無礼です。事はすでに重なっており、罪は決して逃れられません。すみやかに殿上の名札を削って、官職を解き職務を停止なさるべきでしょう」と、諸卿が一同に訴え申し上げなさったので、上皇はたいへん驚かれて、忠盛を御前に召してお尋ねになった。
忠盛が弁明して申し上げるには、「まず郎従が小庭に控えていたことは、まったく存じませんでした。ただし近ごろ人々がたくらんでいらっしゃるということで、何かわけがあるのかと、長年の家来がそのことを伝え聞きましたので、主人の恥を助けようとして、私には知らせずに、ひそかに参上していたことは、私にはどうにもできないことでございます。もしそれが罪になるというのなら、その者を召し出して差し出しましょうか。次に刀のことは、主殿司に預けておきました。それを召し出され、刀が本物かどうかによって、罪をどうとでも定められるべきでしょうか」と申し上げなさったので、
その言い分はもっともだということで、急いでその刀を召し出して上皇がご覧になると、外側は鞘巻の黒く塗ったものであったが、中身は木刀に銀箔を貼ったものであった。
上皇は「その場の恥を逃れるために、刀を帯びているように見せかけはしたが、後日の訴えを見越して、木刀を差していた心づかいこそ感心である。弓矢にたずさわる武士のはかりごととしては、まことにこうありたいものだ。またそのうえ、郎従が小庭に控えていたことは、そもそも武士の郎等のならいである。忠盛の罪ではない」とおっしゃって、かえってお褒めにあずかったので、罪のお咎めはまったくなかった。
意訳
平家が初めて殿上人の仲間入りをした場面である。それまで受領として地方を治め、財力を蓄えてきた平家は、鳥羽院のために寺を造営して献上するという「成功(じょうごう)」によって、ついに昇殿という貴族社会の壁を越えた。伝統的な貴族たちにとって、それは成り上がり者の侵入にほかならず、闇討ちの企ては、その反発の激しさを物語っている。
忠盛の対応は、武士らしい胆力と、それ以上の知恵を示している。刀を抜いて灯火にきらめかせ、郎等を庭に控えさせて、相手に手出しをさせない。そのうえで、刀は木刀、郎等のことは知らなかったと言い抜けて、訴えを逆に称賛へと変えてしまう。力をちらつかせながら、規則には触れない――のちの平家の台頭を予告するような、したたかなふるまいである。
一方で、殿上人たちは「伊勢へいじはすがめなりけり」と、忠盛の出自と容姿をからかう。伊勢の瓶子(へいじ)は酢を入れる粗末な瓶(すがめ)だ、という歌に、伊勢平氏(へいじ)は斜視(すがめ)だ、という悪口を掛けたもので、地方育ちの武士を見下す貴族の意識がよく表れている。作者は季仲や忠雅の例を挙げ、昔はこうしたからかいがあっても事件にはならなかったが、と末代への不安を語らせている。
語釈・文法注
- 得長壽院
- 鳥羽上皇の御願により、平忠盛が造営した寺。京の白河にあり、三十三間の堂に千一体の観音像を安置した。のちの蓮華王院(三十三間堂)の先がけとなった。
- 勸賞
- 功績に対するほうび。官位や国守の地位などを与えた。
- 闕國
- 国守が欠員になっている国。
- 雲の上人
- 殿上人。宮中の殿上の間に昇ることを許された人。
- 五節豐明の節會
- 新嘗祭の翌日、天皇が新穀を食し、群臣に酒食を賜る宴(豊明の節会)。その折に五節の舞が舞われたので、こう呼ぶ。
- 右筆
- 文筆を仕事とする者。武士の家に対して、文官の家をいう。
- 鞘巻
- 鍔のない短い腰刀。鞘に刻み目を入れ、下げ緒を巻きつけて腰に差した。
- 萌黄緘
- 鎧の札(さね)を萌黄色(黄緑色)の糸や革でつづり合わせたもの。ここでは腹巻(簡略な鎧)の縅。
- 貫首
- 蔵人頭の別名。殿上の事務を取りしきった。
- 鈴の綱
- 殿上の間から校書殿に張り渡した綱。鈴をつけてあり、蔵人が小舎人を呼ぶときに引いた。
- 布衣
- 無紋の狩衣。また、それを着る六位以下の無位の者。
- へいじ
- 「瓶子」(酒や酢を入れる口の細い瓶)と「平氏」とを掛ける。伊勢は瓶子の産地として知られた。
- すがめ
- 「酢瓶」(酢を入れる瓶)と「眇」(斜視)とを掛ける。忠盛は斜視であったという。
- 地下
- 昇殿を許されない官人。殿上人に対していう。
- 主殿司
- 宮中の清掃・灯火・薪炭などをつかさどる役所の女官や下役。
- 兵仗
- 護衛の武器。また、朝廷から許されて身辺を護る随身の兵。
- 衣布
- 底本の表記。ふりがなは「ほうい」で、前の「布衣の者」と同じく「布衣」の誤植と考えられる。無位の者の意。
- 闕官停任
- 官職を解き、職務を停止すること。
文法
- 「一千一體の御佛をすゑ奉らる」
- 「すゑ」はワ行下二段動詞「すう(据う)」の連用形で、安置する、の意。「奉ら」は謙譲の補助動詞、「る」は尊敬の助動詞。
- 「詮ずる所」
- 「詮ず」はつきつめて考える、の意のサ変動詞。結局のところ、の意の慣用句。
- 「拔き出いて」
- 「拔き出だして」のイ音便。
- 「えこそ出でまじ」
- 副詞「え」は打消の語と呼応して、…できない、の意。「まじ」は打消推量・打消意志の助動詞で、とても出て行くことはできまい、と強く拒む。
- 「かけまくも忝く」
- 「かけまく」は動詞「かく(懸く)」のク語法で、口に出して言うこと。言葉にするのも恐れ多いことだが、の意で、天皇の御子孫である平家のことを述べる前置き。
- 「切り上らんずるものの面魂にてある間」
- 「んずる」は推量の助動詞「むず」の連体形で、…しようとする、…しそうな、の意。「間」は、…ので、と理由を表す。
- 「末代いかゞあらんずらん」
- 「らん」は現在推量の助動詞「らむ」。末の世の今は、どうなることだろうか、と不安を表す。
- 「衣布の兵」
- 底本は「衣布」と刷り、ふりがなを「ほうい」とする。前の段の「布衣の者」と同じく「布衣」の誤植と考えられるが、底本どおりに翻刻した。
- 「叡感に預つし上は」
- 「預つ」は「預かり」の促音便。お褒めにあずかったので、の意。
解説
平忠盛(1096〜1153)は清盛の父である。白河院・鳥羽院に仕えて瀬戸内の海賊を討ち、日宋貿易にも関わって富を築いた。得長寿院の造進によって内昇殿を許されたのは天承二年(1132)とされ、本文の天承元年とは一年ずれる。武士として初めて昇殿を許されたことは、平家の興隆の出発点として語られている。
「伊勢へいじはすがめなりけり」の歌は、五節の折に殿上人が舞人をはやしたてる「乱舞」の一つで、こうしたからかいは宮中の座興として珍しいものではなかった。物語は、季仲・忠雅の例を並べることで、からかい自体はよくあることだとしながらも、忠盛のときには事件になりかけたこと、すなわち武士の台頭によって宮廷の秩序がゆらぎ始めていることを示している。
郎等の平家貞は、忠盛・清盛の二代に仕えた平家の重臣で、のちにも忠実な家人として物語に登場する。主人の危急に、命じられもしないのに駆けつけるという家貞の行動は、武士の主従関係を象徴する場面として知られている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、248–251頁(コマ153–154)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日