源氏物語 第45帖 橋姫(6)
八の宮の素性と宇治への移住
源氏の大臣の弟で八の宮と申し上げた方である。冷泉院が春宮でいらした時、朱雀院の母大后(弘徽殿大后)が道理に外れた企てをして、この宮を春宮に立てて皇統を継がせようと、自分の権勢の時代に大切にもてはやした騒ぎのために、心ならずも源氏方の人々との仲から疎まれてしまったので、ますます源氏の子孫の世となってしまった今では、世間に交わることができない。またこの数年はこうした聖になりきって、今はもうこれまでと、すべてを思い捨てていた。そうしているうちに、住んでいた邸が焼けてしまった。ただでさえつらい世に、あきれるほどあっけなく、移り住むべき適当な所もなかったので、宇治という所に趣のある山荘を持っていたのに移った。思い捨てた世ではあるが、今を限りに都を離れて住むのを哀れに思う。網代の気配が近く、耳にうるさい川のほとりで、静かな思いにかなわない面もあるが、どうしようもない。花や紅葉、水の流れにも心を慰めるよすがとして、いっそう物思いにふけるより他にない。このように籠もってしまった野山の果てにも、亡き北の方がいてくれたらと思い出さない折はなかった。共に暮らした人も宿も煙となってしまったのに、どうして我が身だけ消え残ったのだろう。生きているかいもなく思い焦がれる。ますます山の重なる住まいに訪ねて来る人もいない。卑しい下人など田舎びた山人だけが、たまに馴れ親しんで仕えている。
- 1源源げん氏氏じのののおとゞおとゞおとどののの御御おん弟弟おとうと八八はち宮宮のみやとととぞぞぞ聞聞きこえええしししををを、、、冷冷れい泉泉ぜい院院いんののの春春とう宮宮ぐうにににおはしましおはしましおわしましゝゝし時時とき朱朱す雀雀ざく院院いんののの大大おお后后きさいのののよこざまよこざまよこざまにににおぼしおぼしおぼし搆搆かまへへえてててこのこのこの宮宮みやををを世世よののの中中なかにににたちたちたちつぎつぎつぎ給給たまふふうべくべくべく我我わががが御御おん時時ときもてもてもてかしづきかしづきかしずき奉奉たてまつりりり給給たまひひいけるけるけるさわぎさわぎさわぎににに、、、あいなくあいなくあいなくあなたあなたあなたざまざまざまののの御御おんなからひなからひなからいにににはははさしさしさしはなたはなたはなたれれれ給給たまひひいにににけれけれければばばいよいよいよいよいよいよかのかのかの御御おんつぎつぎつぎつぎつぎつぎににになりなりなりはてはてはてぬるぬるぬる世世よにてにてにてえええまじらひまじらひまじらい給給たまははわずずず。。。又又またこのこのこの年年とし比比ごろかゝるかゝるかかるひじりひじりひじりににになりなりなりはてはてはてゝゝて、、、今今いまはははかぎりかぎりかぎりとととよろづよろづよろずをををおぼしおぼしおぼし捨捨すてててたりたりたり。。。かゝるかゝるかかる程程ほどににに住住すみみみ給給たまふふう宮宮みや燒燒やけけけにににけりけりけり。。。いとゞしきいとゞしきいとどしき世世よにににあさましうあさましうあさましゅうあへなくあへなくあえなくてててうつろひうつろひうつろい住住すみみみ給給たまふふうべきべきべき所所ところのののよろしきよろしきよろしきもももなかりなかりなかりけれけれければばば宇宇う治治じととといふいふいう所所ところににによしよしよしあるあるある山山やま里里ざとももも給給たまへへえりりりけるけるけるににに渡渡わたりりり給給たまふふう。。。思思おもひひい捨捨すててて給給たまへへえるるる世世よなれなれなれどもどもども今今いまはははととと住住すみみみ離離はなれれれなななむむんををを哀哀あわれにににおぼさおぼさおぼさるるる。。。
- 2あじろあじろあじろのののけはひけはひけはい近近ちかくくく耳耳みみかしがましきかしがましきかしがましき川川かわのののわたりわたりわたりにてにてにて靜靜しずかなるなるなる思思おもひひいにににかなはかなはかなわぬぬぬ方方かたもももあれあれあれどどどいかゞいかゞいかがはははせせせむむん。。。花花はな紅紅もみ葉葉じ水水みずののの流流ながれれれにににももも心心こころをををやるやるやるたよりたよりたよりににによせよせよせててていとゞしくいとゞしくいとどしくながめながめながめ給給たまふふうよりよりより外外ほかのののことことことなしなしなし。。。かくかくかく絕絕たえええ籠籠こもりりりぬるぬるぬる野野の山山やまののの末末すえにににももも昔昔むかしののの人人ひとものしものしものし給給たまははわましかましかましかばばばととと思思おもひひい出出いででで聞聞きこえええ給給たまははわぬぬぬをりをりおりなかりなかりなかりけりけりけり。。。「「「見見みししし人人ひとももも宿宿やどもももけぶりけぶりけぶりににになりなりなりにににしししをををなどなどなどててて我我わががが身身みのののきえきえきえのこりのこりのこりけむけむけん」」」。。。生生いけけけるるるかひかひかいなくなくなくぞぞぞ覺覺おぼしししこがるゝこがるゝこがるるややや。。。いとゞいとゞいとど山山やま重重かさなれなれなれるるる御御おんすみかすみかすみかににに尋尋たずねねね參參まいるるる人人ひともももなしなしなし。。。あやしきあやしきあやしきげすげすげすなどなどなど田田い舍舍なかびびびだるだるだるやまがつやまがつやまがつどもどもどものみのみのみまれまれまれににになれなれなれ參參まいりりり仕仕つこうううまつるまつるまつる。。。
現代語訳
源氏の大臣の御弟で、八の宮と申し上げた方であるが、冷泉院が春宮でいらっしゃった時、朱雀院の母大后が道理に外れた企てをお考えになって、この宮を世の中の皇統を継ぎなさるべく、ご自分の時代にもてはやし大切にし申し上げなさった騒ぎのために、心ならずも、あちら方(源氏方)の御間柄からは疎まれなさってしまったので、ますますあの源氏の御子孫の世となってしまった世では、交わることがおできにならない。またこの数年、このような聖になりきって、今はもうこれまでと、すべてを思い捨てていらっしゃった。そうしているうちに、お住まいの邸が焼けてしまった。ただでさえつらい世に、あきれるほどあっけなく、移り住みなさるべき適当な所もなかったので、宇治という所に趣のある山荘をお持ちだったところにお移りになる。思い捨てなさった世ではあるけれど、今を限りに住み離れてしまうのを、哀れにお思いになる。
網代の気配が近く、耳にうるさい川のほとりで、静かな思いにかなわない面もあるけれど、どうしようもない。花や紅葉、水の流れにも、心を慰めるよすがとして、いっそう物思いにふけりなさるより他のことはない。このように籠もってしまった野山の果てにも、亡き人がいらっしゃったならと、思い出し申し上げなさらない折はなかった。「共に暮らした人も宿も、煙となってしまったのに、どうして我が身だけが消え残ったのだろう」。生きているかいもなく思い焦がれなさる。ますます山の重なるお住まいに、訪ねて参る人もいない。卑しい下人など、田舎びた山人たちだけが、たまに馴れ親しんで参ってお仕えする。
意訳
八の宮は源氏の異母弟で、かつて弘徽殿大后に春宮に担ぎ出されかけたため、源氏方に疎まれ、源氏の世では世に出られなかった。邸が焼けて宇治の山荘に移り、網代の近い川辺で亡き妻を偲びながら暮らす。
語釈・文法注
文法
- 「朱雀院の大后」(朱雀院の大后のよこざまにおぼし搆へて)
- 弘徽殿大后。朱雀院の母で、源氏の政敵。
- 「あじろ」(あじろのけはひ近く)
- 網代。宇治川で氷魚を獲るための仕掛け。宇治の風物。
- 「見し人も宿もけぶりに」(見し人も宿もけぶりになりにしを)
- 妻は火葬の煙に、宿は火事の煙になったことをかける。
解説
八の宮の不遇の原因が明かされる。源氏が須磨に退いた頃、弘徽殿大后が冷泉院を廃して八の宮を春宮に立てようとした。この政争の犠牲となった八の宮は、源氏の栄華の陰に埋もれた人物である。
宇治は都の南の山里で、宇治川の流れと網代で知られる。「宇治」は「憂し」に通じ、宇治十帖の舞台にふさわしい場所である。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』物語部2(源氏物語 下) 板倉屋書房、明治36年(1903)、886–889頁(コマ154–155)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日